見出し画像

体癖ブチ切れ話~嫌な気持ちになる”最悪”コミュニケーション~

※こちらの記事は『週刊・現代を体癖で生き切るためのタイヘキストマガジン』という月額制マガジンに収録されています。
お得なので、まだの方はぜひ♪

「コミュニケーション?私得意だから!」と言う人に限って、相手にストレスを与えている。
「話すの得意だよ~」と言う人に限って、自分の話ばっかりしている。
「話し上手は聞き上手」と言う人に限って、熱く持論を展開する。

「私はコミュ障」と言う人は、常に被害者きどり。
「あの人は素晴らしい人だ」と言われる人は、ただの八方美人。
「コミュニケーションは相手に伝わったことが重要」と言っている人は、相手に伝わった気でいるだけ。

…心理学講師として、様々な人にコミュニケーションを教えてきました。
まだ8年くらいしかやっていませんが、現在の私の結論は…

多くの人がコミュニケーションによって低潮が長引いている、ということ。

いや、自分が低潮するならまだ良いのですが、コミュニケーションの相手の低潮までも、長引かせているのです。
低潮のキッカケになってしまっている場合も、ある。

自分では、そうとは気づかずに。

コミュニケーション…
それは人を動かし、人を温め、人をつなぐ。

その一方でそれは、人を苦しめ、人を傷つけ、人とのつながりをぶった切る。

人を良い気持ちにする人もいる。
嫌な気持ちにする人もいる。

誰といても良い気持ちになる人もいれば、誰といても嫌な気持ちになる人もいる。

それらの違いは何か?

一つは体癖。
もう一つは、自分の中に”愛”があるか、どうか。

八種、ブチ切れる

この間、「体癖を○年研究している」と自称している人からTwitterでリプをいただきました。
すごく嫌な言い方をすれば、絡まれました。

なんでも体癖の調べ方を研究しているらしく、私と共同研究をしたい、と。
そう言っていただけること自体はとても光栄なことですし、興味がないことはなかったのですが…

私は、ブチ切れた。

まず、事もあろうに私をタイプ分けしやがった。
「ソシャフィアさんて3つ目の種は、五種ですよね!私には分かるんですよ!」
これはタイヘキストあれば、絶対にやってはいけないこと。
レッテル張りをするために体癖という人の見方・概念があるのではありません。

次に、持論アフター持論アフター持論。
持論が真実だと思い込んでいるフシがある。
まぁ頑張って研究したのでしょうが、私にはその調べ方は客観的にデータ化できないので私見の域を出ず、体癖を世の中に役に立てるというよりは、専売特許的に体癖を狭い狭い世界に閉じ込めるような方法にしか見受けられない。
その研究をしたところで、整体師以外の誰の何の役に立つのか、私にはさっぱり分からない。

そして、謎の上から目線。
こちらを”下”だと認定しているのか、押しつけがましく「教えてやる」的な態度がひしひしと表れているだけでなく、ダイレクトに言葉としても表れている。
経験で言うなら私の方が年数的に2倍くらいの実績はあるはずなんですけどね。
まぁそんなものは経験の濃さにもよるんでしょうけど。

こうやって私は、ブチ切れた。

本当は他にももっと色々あるんだけど、今言ってもしょうがないから書かないがとにかく、ブチ切れた。
自分の八種性も相まって、ブチ切れた。
「自分もたいがいなんだろうな」と思いながらも、ブチ切れた。
「これはもうブチ切れてもいい」ということを自分に許して、ブチ切れた。

…が。

そこでギャーギャー反論したり説教したり間違いを正そうとしたら、「自分には”愛”がない」ということになってしまう(後述)。
これはタイヘキストを自称する私としては、タイヘキストの矜持に反すること。

まして相手は自分自身を信じすぎていて、話が通じる相手だとも思えない。
一方的すぎて、話をする価値がある相手だとも思えない。
話をし続けたら”心理ゲーム”(後述)のカモになってしまう。

そうこうしているうちに時間は過ぎ、やるべきことをする時間が削られていく…

で、シカトしました(笑)。

それが双方にとっての最善の策であると、信じて。
おそらく構っていたら、私はその方を深く深く深く傷つけることになったでしょう。
それは今までの人生で何度も何度も繰り返してきた。
それは私の欲するところではない。

それぞれが最高だと信じることをやればいい。
道を重ねることだけが、美しいことではない。
それぞれがそれぞれの価値感に従って、否定も肯定もせず、生きていけばいいのです。

体癖を知ってるから偉いわけじゃねぇぞ

私は気づきました。
というか、以前から危惧していたことが現実であると確信しました。

それは…
「体癖を知っているからといって、コミュニケーションがうまくなるわけではない」ということ。

その方はまず、体癖には詳しいのかもしれないけれど、社会で生きる人間として(あえて「人間として」という言葉を使いますが)、礼儀がなっていない。
こちらに対しての敬意が全く感じられないのです。

「礼儀?敬意?ソシャフィアって七種か一種なん?それか八種の丸出し?」と思われたかもしれませんね。
さにあらず。

社会において礼儀を持って接したり、敬意を示したりすることは、人類が、特に日本人が、長い長い年月をかけて編み出してきた”誰も嫌な気持ちにならない”ための知恵なのです。
それらがなければ、”社会性がない”ということになる。

単なる慣習ではありません。
すごく意味のあることなのです。
そして擬態とかそういう話でも、ない。

心理学的に見ても、礼儀は、人間が生き生きと生きるのに非常に有効な在り方とされています。
もちろん、形だけの行き過ぎた礼儀は慇懃無礼になりますがね。

礼儀や敬意を持つことと、自分が○種であるということには、何の関係もありません。

まぁ強いて言うなら、一種はそういうのにうるさいし、七種は自分が上でないとつい戦闘的になってしまいがちですし、八種は”下”認定されたら私のように「喧嘩売ってるんか?」と思ってしまうでしょう。

が、そういった反応をするということと、相手に対して”礼を持って接する”、”大人として社会性を持つ”ということは、全く別次元の話です。

親しき仲にも礼儀あり。
親しくないなら、もっと礼儀が必要なのではないでしょうか?

まして協力を仰ぐ(こちらの時間や労力や知的財産を使わせる)のであれば、それ相応の敬意と礼儀を持って接する必要がある。
少なくとも、八種の私に対しては。

むしろ、体癖を知っているからこそ、礼を欠くということもあり得る。

「自分が偉い」とか「自分はすごい」とか思っちゃう。
専門的なことを知っていることで変な優位性を感じてしまって、それを知らない人を見下し、頼んでもいないのにタイプ分けをして、完全にいらないのに「教えてあげるよ」と親切をしているつもりになって、悦に浸るようになってしまう人、いますよね。

ほら、小学校のときにいたじゃないですか。
いきなり「あっ!そこにいるよ!」とどこかを指さして「あ、でもそんなに凶悪な霊じゃないから大丈夫」とか言っちゃうような、霊感少女。
「見える私はすごい人のはずだ」とか思っちゃってる子。
努力とかしんどいことはしたくないけれど、注目を浴びたいがために”自分は見えないものが見える”設定にしちゃってる子。

「他の人が知らないことを知っているから、自分は偉い」とか思っちゃてる人は、本質的にはそういう子と同じ穴のムジナです。

小学生ならまぁ可愛いものですし、中高生なら厨二病の黒歴史を歩んでるだけですが…
大人になってもそういう人は少なからずいるのですよ。
私の知っている限り、整体や心理学の業界にね。

”一般人”が知らないタイプ分けを知ったから、相手をレッテル貼りして、行動を無理矢理タイプに当てはめているつもりになって、優越感に浸っているような人が。
生徒の段階ならまだ救いがあるのですが、よりにもよって教えている側の講師がそういうことになっているのですよ。

そんな感じで、体癖研究の方も私に無礼を働いたのかもしれません、知らんけど。

そういう人には六種が多いのですが…
自分の認識を変えてくれる六種に、私は出会ってしまった。

ここから先は

6,810字 / 1画像

¥ 400

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?