十種・複合体癖の矛盾と葛藤、そして強み
十種は、優しい。
困った人を放っておけず、弱きを助け、自分よりも他者を優先し、純粋で見返りを求めることなく、オマケに体も強く痛みや不調があっても人を助けていれば治りやすい。
あるいは、人のことばかり心配していて、人を助けることで自分の価値を認識し、人を子供扱いし、助けなくてもいいと認定した人のことは放置して動き回る。
とにかく優しい十種。
自分探しでなく純粋に人助けをするためにボランティア活動をする人にも十種が多いのでしょうが、そういうのを含めて十種は優しい。
が、見方を変えれば、その優しさは「自分はOK、あなたはOKでない」という心理的な前提のもとで発揮されているようにも見えます。
さらに穿った見方をすれば、「優しくていい人だし人の助けにはなっているけど、人を信じていない」ということにもつながっているのです。
その結果、相手が自分の手でやるべきことを代行してしまうことで相手が成長するチャンスを奪い、過剰に頼りになってしまうことで相手の主体性を奪ってしまうことも。
それは十種の大いなる欠点と言えるのではないかと思うのです。
それでも十種の体は、弱い人を見ると反射的に、自動的に動く。
その姿は非常に慈悲深く、愛情に満ちた神様のように見えることもあります。
以上は「もし純正の十種という人がいたとしたら」という話。
実際には十種は神様などではなく、生身の人間としての生々しさを日常の中で見せてくれます。
人は誰でも、複合体癖だから。
複合している体癖の種によって、神なる十種性の輝きを増す人もいれば、減らす人もいます。
弱き者を救うために自分のすべてを投げ打って巨悪と戦う十種もいれば、自分の利益になるように計算して人を助けようとする十種もいます。
子供が危険なことをしていて「危ない!」と頭では思っていても体が動かない十種もいれば、自分を良く見せるために助ける十種もいます。
そこには神秘なる複合体癖の秘密があるのです。
体癖とは、”人の材料”。
クリームソースにジャガイモや鶏肉などの具材を入れて煮込めばクリームシチューになり、そこにさらにニンニクをすり下ろしたものを入れればシュクメルリという料理になります。
クリームシチューにチーズを乗せて焼けばグラタンになり、さらにお米を下に敷いて焼けばドリアになりますね。
体癖も同じ。
グラタンは大好きだけど、ドリアは嫌い、という私ソシャフィアのような人もいるのです(笑)
「あぁ、この部分さえなければこの人はすごく素敵なのにな」と思わせる人もいますよね。
逆に「この人のこういうところが、ユニークなこの人の個性の重要な部分を担っているんだな」という人も。
どの料理にも好き嫌いはあったとしてもそれぞれの美味しさがあるように、どの人にも深い味わいがあります。
味わいは体癖によって作られ、そこに良し悪しや優劣はないのです。
誰もがサイテーで、誰もが最高。
誰もが無意識に自分らしく生きることを求めて、誰もが無意識に自分らしさを発揮しているのだとするならば、その無意識による言動こそ生命の輝きと言えるものでしょう。
その一方で、望ましくない面ばかりが目立つ人もいれば、素晴らしい面ばかりを発揮する人もいます。
その違いは、”愛があるかどうか”、ということになり、体癖が人のすべての部品を説明していることにはならないかもしれません。
愛はその人の歴史によって作られ、これも無意識に発動するものです。
が、体癖による感受性は、単に”愛があるかどうか”に関係なく発揮され、愛だけが人の部品になり得ないことも事実でしょう。
感受性は体にも心にも宿り、私たちの言動や在り方に強烈な影響力をもたらしているのです。
そんなわけで今回の『タイヘキストマガジン』は、十種の複合体癖について。
”複合体癖の矛盾と葛藤、そして強みシリーズ”の第8弾になります。
…今回は売れないだろうな〜(笑)
「自分は十種だ!」と認識している人は、とっても少ないから。
ソシャフィア体癖院で純粋にお体から体癖を診断して、「十種ですね」とお伝えしても、「超意外です!私、そんないい人じゃないですから…」とおっしゃられるのです。
それだけ十種は、自分が人の面倒を見て、人を助けていると思っていない。
無意識で、自覚なくやっちゃってますからね〜
が、別に十種だからいい人なわけではないと思うのですね。
十種は十種で、自分の都合で人の面倒を見ているわけですから。
”自分のための、人のため”をやっているのですからね。
まぁものすごく八種的な見方かもしれませんが(笑)
ですので、たとえ十種に助けられた経験があったとしても、自分の母親が十種っ気たっぷりだったとしても、怖れずに八種のソシャフィアらしく記述していきます。
十種の複合体癖は、いかなる矛盾と葛藤を抱えて生きているのか?
そして、どんな強みがありどんなことに貢献しているのか?
人から聞いた話や自分で見聞きしたことを思い出しながら、メスを入れていきたいと思います。
紹介するエピソードはプライバシーに配慮して一部改変してありますので、ご了承ください。
十種一種
十種の人というのは「バカな子ほど可愛い」のです。
欠点がある人の方が、面倒を見る甲斐があるのでしょう。
ですのでこのエピソードを例とすると、話し手である娘が親に認められようと頑張って、結果を出せば出すほど「あ、この人は自分が面倒を見なくていいんだ」と放置されるという現象が起こるわけです。
そこにきての一種。
一種は自分が正しいと無意識に思っていて、「人は自分の言う通りにしていればうまくいく」と思っている人が多いのです。
感情にも薄く、人の想いを汲み取らず、意見を押し付ける人も多い。
十種は自分の心配はせず人の心配ばかりをしていますから、一種と複合すると、子供が落伍者にならないよう将来を勝手に決めて、自分の枠の中に閉じ込めようとするのですね。
いっそ落伍者になった方が面倒を見てくれるのかもしれませんね(笑)
また一種は、世間体を気にして、自分の見栄えを気にするのですね。
それに弱い人を助けようとする十種が重なると、人には気前よく奢って、弱くない人や”できる人”は放置する、ということも起こるのです。
十種の愛憎の感受性と、一種の毀誉褒貶の感受性とがぶつかって、大いなる矛盾が起こるわけです。
十種一種の美点は、困っていることを相談すると、客観的に問題解決への道筋を親身になって示してくれることでしょう。
冷静で人間味の少ない一種性が、十種の慈愛のある温かさによってカバーされるのですね。
また、お医者さんは勉学が優秀で一種的な人が多いように見受けられるのですが、十種が混じっているとお金にならないような仕事も引き受けて、社会貢献を果たしている人も多い印象です。
ホスピタリティですね。
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