スポーツにおける負けをどう語るか #さかろぐ #2020apr02
負けをポジティブに語る機能
六:あとここで喋っておきたいのが、そもそも世間は感動を求めてるのかっていうところで。どうなんかなと思って色々文献を漁ってたら面白い論文があって、宮澤武さんが書いた「スポーツにおける負けの語られ方」。 何を言ってるかというと、そもそも勝負事でいうと負けってネガティブ、マイナスなことなんだけど、いざ報道するときには負けをプラスの価値として、ポジティブに報道する場合があるよね、っていう。
邨:ありますね。
六:それってどういうことなの?ということを論じていて。一応の結論としては、新聞が負けをポジティブに語るっていうことには二つの機能があって、一つが日本人の伝統的アイデンティティを再生産する、もう一つが競争社会において生産された敗者を救済する機能。
前者の伝統的アイデンティティ云々はちょっと半信半疑なんだけど、後者については競争社会において生産された敗者を救済する機能が、負けをポジティブに語ることで可能である。宮澤武さんという方のそういった研究で、これは調べたらネットで見ることができます。
どういうことかっていうと、そもそも負けを語るときっていうのは精神面に語ることが多いと言われてます。強い選手が負ける、例えば相撲で横綱が負けた場合は土俵で全く闘志が見えなかったとか、勝つ意思がなかったんじゃないかなど、精神面の弱さを突く。逆に負けても称賛する場合、高校サッカーでもよくあると思うんですけど、厳しい練習や努力を積み重ねてきた過程と精神的な強さを評価してポジティブに語る、っていうふうに負けを語るときは精神面での語り方が多いそうです。
新聞が負けを取り上げる意味ということだと敗者を救済する機能があって、ここでの敗者には二つの意味を持っていて一つが選手、本当に負けた選手。もう一つが競争社会、資本主義社会と言ってもいいかもしれないけど、そういう社会での敗者。つまり一般の世間の中にもいますよねって話なんだけど。
そもそも競争社会っていうのは、スポーツもそうだし一般企業でもそうかもしれないけど、負けた後に立ち上がって再び勝負する、このサイクルを回さなきゃいけない。スポーツのリーグ戦なんかが似てて、負けても次の試合が来るからそれに向けて立て直して戦わなきゃいけない。つまりいちいち敗北で挫折して立ち上がれないってなってると、そんなの話にならなくて。
邨:それって救済なん?
六:一応救済かな。ここではスポーツ選手に対しては触れてないんだけど、そういった負けても次の試合に臨むサイクルを見せることによって、世間の皆さんにも次があるよ、希望を持ち続けられるよっていうことを伝えてて、その意味で救済。
競争社会においては、敗北をどう処理するかってのが非常に重要で、敗北が人生の終わりを意味しちゃうと、競争社会の意味がなくて。敗北をちゃんと処理して次に進む。その時に負けをポジティブに語るっていうのはすごく意味があるんじゃないのかっていうのを言っている。
負けと感動って似てるようでちょっと違うとは思うんだけど、感動の中には負けても良く頑張ったって称えることが含まれているわけで、知らないところで、感動を求めてる人たちはいるのかもしれない、もしくは求めてると思わされてるのかもしれない。
邨:それは考えたことがなかったな。
六:これは面白いし、普通に見れるから読んで欲しい。
邨:負けに意味がないと言わないようにするというか、勝利至上主義的な話をしないようにするとかっていうのはわかるんやけど、その後が難しいよな。次勝ちに行くための話やん、もう一回土俵に上がるための話やんな。それがちょっと難しいというか、紙一重やなと思うかな。スポーツでいったらリーグ戦もそうか。
土俵から降りるっていうのも、負けの伝え方が一辺倒になってないか?というのは思ったけど、次勝ちいに行くために負けを見せるっていうのは、なんかうーん。そう言われたらそれでええんか?としか思わへん。社会の中でも負けた人に次があるでって言うのもなんか、その現場から降りたい人、別のものに行ったりとかもあるわけで。スポーツ選手とか、セカンドキャリアの話あるやん。そういうのがそっちの役割を担ってるのかなとか思ったけど。
コメント:「負けは人間的な文脈になることが多い気がします」
六:負けって人間の精神と結びつけがち、っていう過去の研究でも言われてますね。
邨:なるほどね。その通りなんかな、というかその通りなんやとしたら、そういう書き方は一辺倒になってるのは、あれやなと思った。
六:なってるかもね。やっぱオリンピックとかはなりがちなんじゃないかな。
邨:自分としては勝ち負けがあったときに、一個の紙面上でどっちも大きく扱うってことはあんまりないけど、両方の取材をしたとしたらその辺のバランスは考えるかな。
勝った方は勝ったことがわかってるからじゃあ何で勝ったかってのを聞く。その理由づけみたいなところは分散させようみたいなのはある、勝ったチームと負けたチームで。それが結果的にじゃあ何で勝ったんやっていうのを書いて、負けに関しては勝った理由はここに書いてあるんやから(書かなくても大丈夫)っていう。それで試合のことはわかるよね?くらいにしてるかなっていうのはある。
六:どっちが描きやすいとかある?勝った場合、負けた場合で。
邨:書きやすいとかはないかな?それぞれ違う気がする。
コメント:「もし、オリンピックのスポンサーじゃないことで感動装置としての役割から逃れられて、『負け』に関してスポーツの文脈で書けるメディアが出てきたらそれはとても見てみたいっすね。」
邨:それはスポンサーであるかどうかは関係なく書けるんじゃない?と思うけど。
六:感動伝達装置になっちゃうかどうかは、また別な話か。
負けをどう語るか
邨:それは1番は負けた選手にその紙面を割くことが少ない。例えば銀メダルならあるかもしれんけど、決勝で負けたとか。個人名を挙げるのはあれやけど、こないだのオリンピックの吉田沙織さん。
六:連勝止まったとき?
邨:そう。印象に残ってる感じがする。あれは結構典型的な感じやけど、銀メダルだったことに対して謝罪するっていうのがあって、そういうセンセーショナルっていうかさ。試合の内容のこと、もちろんトレーニングとかスカウティングのスポーツとしての側面もあるけど、何よりもバッと感傷的な部分が出て。もちろんこっち(報道側)の扱い方もあるうんやろうけど、選手自身の感動的な部分がすごく出ることが多いから、意図的にこっちが装置としてというか、感情的な部分に積極的にクローズアップしていくというよりは、共犯な感じもするかな。
邨:競技によって違うだろうし、チームスポーツとか個人とか、選手によって何言ってるかとかそれは違う、いろいろあると思うけど、共犯な感じはするかなというのはあります。
六:感動伝達装置ってところでいうと、落合さんの本の中でも言ってるけど、感動って言葉が現れたのが、90年代前半からだから今25年くらい経って、一個の定番化してきている。そろそろ飽きてきて、感動以外を伝えようみたいな人たちが出てくるんじゃないかなと思いますね。ただそれが新聞なのかはわからない。
邨:なれないんじゃないかな…。なれるかどうかはわからないっすね。
コメントより記事の紹介
邨:あーこれ読んだ。書かれたときに読みました。というのは、新聞でこういうコメントの使い方はできひんから、楽しそうやなっていうのはあって。
基本的に自分のとこ(産経)だけかもしれんけど、コメントを極力使わないとまでは言わんけど、事実の描写を重視されるのがあるから。
六:俺これ好きだわ。
邨:この記事のもそうやけど、選手の現場のコメントを証拠として使うというか、客観的に試合を見てた人が書いたブログで違った現象が起きてたとしても、実際の選手の目線から言ってこういうことが起きてました、こういう風に負けました、っていうのを証拠として使うっていうか、現場で起こってきたことをそのまま自分の見立てと照らし合わせて使うっていうのは、一つの方法やなっていうのは、ずっと思ってます。
俺もやったことある気がするんやけど、思い出せへんな。一回やった記憶があるんやけど。
六:俺もマッチレビューは選手のコメントベースで書くようにはしてるけど、ここまで細かくは出てこないからな。
邨:正しいかどうかっていうよりは、一個のやり方として尊重してやるっていうのは。
六:いいな、これ。毎回やってほしいね。
邨:笑
六:やっぱ難しい?仕事量増える?
邨 :例えば俺は関西にいるから、例えばガンバが負けた、セレッソが負けたってなってもその選手を取材する余裕ができる。勝ちチームの取材をする必要がほとんどないとか。ミックスチームの時間は平等で、ホームアウェイどの選手が出てくるかっていうのは、はっきりとはわからへんから。取材対象が限られるって中で、毎回負け試合にクローズアップするっていうのは難しい。これは会社にもよったり、割いてるリソースの問題やけど、っていうのもあるよ絶対。
だからって定型的な切り口で言ったら良くないなというのは、もちろんそう。
六:そうなると、感動的な記事の方が描きやす言っちゃ描きやすいのかな。
邨:書きやすいって、まあそうやね。
六:フォーマットがあるもんね。物語っぽい感じが作れれば。
そうなると、リソースの問題な気がしてきたは。落合さんの章を読んでて、経営の問題だよなって思ってた。
触れる気なかったけど、最後にスポーツ報道の位置付けってところで、優先度が低くてリソースがあんまり回されないんじゃない?っていう。そこが根本的な問題じゃないの?
邨:そこはどこも困ってるやろうし、現状わからへんから。
六:そもそもそれって1番土台に経済があって、スポーツとか文化芸術がその上にいるだけで、経済の従属的な存在であるっていう固定的な価値観が残ってるんだろうなっと思って、ちょっとだけ絶望した。
ちょっとずれるけど、新型コロナの対応でドイツ政府がアーティスト支援を行うって発表をして、ビビったあの言葉に。
ドイツの文化相が「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」って言っててマジでビビった。それを言えるって…絶対日本じゃ聞けない。そういう土壌ってどうやったらできるんだろうって。まあこの話はまた別な機会に。
メディア論パートは以上です。
次はサッカーを通した集合的アイデンティティの構築の話に続きます。
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