ドイツで掲げられた過激なバナーと、ウルトラスへのレッテルを考える #さかろぐ #2020mar05
3月5日の「さかろぐ」第2回配信の書き起こしです。音声はこちら↓
邨:先日のホッフェンハイムvsバイエルン戦で、6ー0になった試合の後半の途中に、ホッフェンハイムの筆頭出資者と言ったらいいのかな、ディートマーホップ氏に対する侮蔑的なバナーが掲げられたと。下ろせという話になったけど下ろされなくて、結果的にどうなったかというと、試合は中断の後に13分間、ボール回しで終わってしまったと。
六:うん。
邨:それでこの背景に関しては、いろんなツイートをしたりとかもしているけど、いくつかの記事がわかりやすいと思うので、それに則って説明します。(参照した記事はこちら)
ホッブさんへのバナーは以前から掲げられていた。これは直接の攻撃というよりは、DFBっていう、ブンデスリーガの運営をしている団体への講義が強かった。ホッブさんはめちゃくちゃ金持ってます。SAPっていう会社を創業して、グレーなやり方で資金をクラブに入れている。DFBはそれを見て見ぬフリしている。それで批判のアイコンにされたと。
六:そうですね。
邨:それでなにがDFBへの抗議対象になってるかっていうと、「集団懲罰」というふうにこの記事内では書かれていたけど、これはドルトムントのサポーターが、以前ホッブさんを侮辱するバナーを掲げたときに、DFBの措置としてドルトムントのアウェイ席は用意しない、誰彼構わずスタジアムには入れないという処罰を下したと。ドルトムントサポーターにはホッフェンハイムアウェイの席は用意しないぞと。
六:はい。罰として。
邨:うん。これくらいかな背景は、ちょっとあっさりしすぎやけど。それでこの出来事が大事になった理由は、選手が試合をやめてしまったことにあると思うんやけど。
六:異様ですもんね。びっくりした。
邨:あ、51%ルールの説明か。ざっくりでいうと、クラブに対する何らかの権利を、筆頭株主的な感じで、一個人あるいは一企業が過半数以上持つことを禁止する。チェルシーのアブラモビッチみたいな、ワンマンオーナーという言い方が正しいのかどうかはわからないけど・・・家族経営のワンマンオーナーもいれば金にモノ言わしたワンマンオーナーもいるので。そういう存在を防ぐためのルール、という説明でいいかな。
六:まあ、うん。
邨: それで僕が話すのは・・・まあ前提として、行為としては最悪でした。多分。よくなかった。完全によくなかった。でも、うーん。今から話すのはそうじゃない、それはわかっているから、それ以外の部分を考えようってところで。ひとつはこの事件の見方ってところで。
今リツイートしたのが、アカウント名そのまんま「ultras」ってアカウントで。各国の言葉で「We are ultras, not criminals」って書いてある。たまたま回ってきたけど、こういうことについて考えましょうってことかなあ。日本ではあまり言わないけど、ウルトラスって集団のことを、
六:単なる熱狂的なグループってこと?悪い奴って意味も含まれてる?
邨:いや、それイコール悪い奴らだ、犯罪者やんって言う前に、なんらか考えましょうって話かな。
六:はい。
邨:ぼくが考えたのは、「集団懲罰」っていうのは過去にもいろんなところでいろんな場面で類似の例がある罰則の方法で、たとえばこういうバナーだったり差別的な行為っていうのがたとえごく一部の人の犯したことであっても、その集団全体をまとめて逸脱者としてみなしてしまおうというもの。それで次に、この集団のことを、ほおっておいたらなにか悪いことを引き起こす、とんでもない集団だ、犯罪を犯すかもしれないっていうふうに煽って、そいつらを排除してしまおう、というやり方につながる。実際にドルトムントの件も、どれくらいの人がこのバナーを掲げてどれくらいがそれに反対していたかはわからないけど。
六:そうね、その割合はわからない。
邨:とりあえず全員締め出してしまおうと。これは法律がどうということじゃなくて、全体的に決まっていくもので、選手も「よくない」、監督も「よくない」、それを伝えるメディアも「よくない」と、「最悪の事件だった」とか「驚愕」とか、そういう見出しをつけてみんなが言っていく。それでイメージが固定されるというか、一個のレッテルを貼りにいくというか。
六:メディアがね。
邨:メディアも含めて、全体がね。選手が言うからメディアがそう書くし、メディアが書くから多くの人がそう思うし、多くの人の意見だっていってオーナーなんかもそう言えるしって、そういう循環の話。それが繰り返されて、「ウルトラスって犯罪者なんだ」ってなっていく感じ。
六:それが作られていっているんだね。
邨:そういう側面もあるのかなって。で、サッカーでもこういうことは過去にもありましたっていうので。みなさんも知っている言葉で「フーリガン」という言葉があります。日本で話題になったのは日韓W杯のときなのかな。
六:あのときだね。俺もそう思う。怖いものって記憶がある。
邨:最初に問題化されたのが1960〜70年代のイギリスの話で、当時はサッカー場で酒を飲んで暴れる奴、喧嘩するやつがちらほらいた。それに対して、こいつらはどういうふうに理解すればいいんだろうって研究が盛んに行われた。メディアもどう扱えばいいんだろうってなった。そこで、「フーリガン」には白人の労働者階級のサッカー好きの男性っていう、人種的にも階級的にもジェンダーの部分でも限定的な定義が与えられて、なにか事件が起こるたびに「ほら、またフーリガンがやったぞ」「フーリガンの仕業だ」というふうに、事件にどんどんフーリガンの定義を当てはめていって、「サッカー場って怖いところなんだ」「サッカー好きなやつは悪いやつなんだ」って考えが規範化していった。
で、これが何につながるかというと、ヒルズボロの事件、って言ったらわかるかな。
六:わかりますけど、どうでしょう。
邨:1989年に起こった事件、事故なんやけど、ゴール裏に多数つめかけた人がフェンスに押しつぶされたり、下敷きになって、たくさんの人がなくなった出来事。
六:そうですね。
邨:うん。これで、その時に世論がどうなったかっていうと、「あ、やっぱりサッカーファンってやばいやつだったんだ」「頭おかしいやつだったんだ」ってなった。実際に人がたくさんなくなってしまう状況で暴れまわるようなやつらだったんだってふうに見られた。
六:うん。
邨:最初は限定的な、一部の輩の行為だったはずのことに名前をつけた「フーリガン」って現象が、まさにその通り現実になった、というふうに捉えられてきた。
六:はい。
邨:ただ、この事故が起こった原因は、さっきのメディアなんかが「フーリガン」ってレッテルを貼ったことによる部分があって。
六:ほうほう。
邨:さっき言ったように60〜70年代にフーリガンって存在が規範化されていったことによって、サッカー場の警備が厳しくなっていったって側面があって。過剰になっていったというのが正しいのかもしれない。それでこの日、スタジアムにきた観客は収容人数を超えていた。超えていたんだけど、その時に警察がとった行動は「こいつらは全員フーリガンで、悪い奴らなんだから、そんなやつをスタジアムの外で野放しにしちゃいけない」って考えて、客席に人を詰め込んだ。
六:はいはいはい。
邨:架空の危機によって、取り締まりが強化され、その結果事故が起こって、「フーリガン」が現実になってしまった。これは一番悲しい現実の結果なんだけど、特定の集団をこうと決めつけた見方をするとどういうことが起こるのかっていうことのひとつの例として、サッカーでもこういうことが起きたという話ができるかなって話です。
六:メディアだけじゃなくて法律もあって、「ヘイゼルの悲劇」っていうのもあるよね。1984かな。リバプールとユベントスの試合で、サポーター同士が衝突して30人くらいがなくなった。これを問題視して、フーリガンを取り締まろうって法律が作られた。
フーリガンへの見方っていうのは、メディアだけじゃなくて法律も含めて、色眼鏡というかが作られていったのかなとは思います。
邨:そうね。2020年の今のこういう一連の抗議やバナーがどういうふうに進むかはわからないけれど、集団懲罰への抵抗っていうのはすごくわかるし、集団懲罰って罰の方法は、当時のイギリス社会がサッカーサポーターというか、なんて言ったらいいかわかれへんけどサッカーが好きだった人たちにとった方法に近い。これがエスカレートするかもしれないけど、そうじゃない見方というか、ちゃんとじゃないけど、冷静に個別具体的にこういう行動を見ていかないといけないかなと思いました。
で、今回のその集団懲罰による対抗措置もまさに、「こいつら犯罪者やん」って見方じゃなくて、儀礼行為を通した抵抗なんだと。抵抗それ自体によって既存の体制を変えるとか、もっと大きな経済システムを変えるとかには至らないです。あくまでその試合のそのスタジアムのなかでの想像的な主権の回復というか。それをやったからDFBが態度をなんとかするとかとは別かなと。
六:既存の体制に甘んじるわけではないことを示したいってことかな。
邨:うーーーん。そうかな。
六:本気で変えられると思っているのかな。
邨:本気で変えられるというか・・・難しいな。なにかを直接動かすことではないやん。例えば、組織に入って新しい会長になりますとかでは全然ない。
六:うん。だから想像的なのか。
邨:そうやな。そういう見方をしよう、っていうと、「じゃあお前はあのバナーを肯定するんか」って思われるかもしれないけど、そうじゃなくて。「こういうバナーを掲げた、これは抵抗、OK」じゃなくて、行為がどういう意味を持ってどう受け取られるかっていうのは完全に状況次第。いろんな条件を見て、考えないといけないと思います。それで今回のバナーは、よくなかったね。最悪やったと思う。明らかに差別的なバナーを誰が見てもそうとしか読めない形でしか出せなかったのは、よくなかったとは思います。スタジアムのなかで誰がどんなバナーを掲げて何を主張するかっていうのは、本当に一番好きな文化で興味のある部分だけれど、今回のはどうかな。行為としては全然よくなかったと思います。
それで、今リツイートしたけど、僕はドイツ語読めないけど、ドイツ語専攻だったのに(笑)この試合の次にカップ戦でフランクフルトの試合で、バナーになんて書いてあるというと「ホッブさんはお母さんの息子」っていう。これはバイエルン戦で掲げられたバナーに対して、「いやいやホッブさん、あんたはお母さんの息子だよ」って返してる。
六:ああ、アンサーになってるのか。
邨:そうそう、アンサーとして掲げられた。
六:味方だよというか、サポートなんだ。
邨:うん。スタジアムのなかで行われる表現文化は、素晴らしいんだけど、真剣さもわかるし切迫していることもわかるけど、行為を選ぶ時に差別的なものを選ぶんじゃなくて、真剣さとともにこういうユーモアがある、あるべきだと思うし、そういう行為じゃなくて急進的なというか過激な行為を選ぶことで、別の文脈で読まれたりレッテルを貼られたりってなってしまう。だからそれを選ぶべきではなかったかなという感覚があります。これは読み違えている可能性があって、現場の感覚だと、こういう表現すら規制するのかって部分はあるのかもしれないけど。そういう印象です。
第3回は3月19日(木)の21時から!配信は上のURLよりどうぞ。