あの日、ルーファーに恋をした
ルーファーがジェフユナイテッド市原にやってくる。信じられない!チャンピオンズリーグ得点王がJにやってくるなんて!それはサッカー雑誌の小さなコラム、小さくも熱くそう記事が書き立てられていた。
けれどジーコやリティ、さらにはW杯優勝直後のブラジル代表レギュラーであったレオナルドやジーニョなどが来日していたことで私たちサッカー少年の感覚は「ビックネーム麻痺」に陥っていた。
ルーファーって誰なんだ。
それでも私はクラスメートたちと電車を乗り継ぎ、ディズニーランドがある舞浜駅まで向かった。小さかった私たちにとってその道のりは大冒険だ。オセアニアの生ける伝説に会いに行く。私たちは「チャンピオンズリーグ得点王」という響きに妙に惹かれたのだ。
当時、ジェフの練習場は舞浜駅にあった。舞浜駅に常設されているジェフユナイテッド市原オフィシャルショップで練習見学証を買う。それを洋服に貼り付けて入場する仕組みだ。
実は前年の1994年も舞浜まで足を運んでいる。リトバルスキー 、オッツェ、パベル、マスロバル、城彰二、下川健一。当時のジェフ市原、あの練習場は華やかだった。
コーチに岡田武史がいた。監督である清雲栄純には人が群がってもコーチである岡田にサインを求める人は少なかった。「あれだれ?」「コーチだよ」「なんだコーチか」子供たちは貴重な色紙を岡田に求めなかった。私もその一人、見る目がないのだ。
話を1995年に。
グラウンドにルーファーはいなかった。今日は休みなのか…私たちは諦めて練習場を引き揚げた。帰り道、ふと後ろを見るとオンボロの自転車に乗った眼鏡をかけた外国人が走ってくる。
あれは…
ルーファーだ!私たちはいっせいに彼に向かって手をあげた。必死でアピールした。ルーファーは険しい顔をしたまま自転車を止めた。オセアニアの英雄、チャンピオンズリーグ得点王のウィントン・ルーファーは私たちにこう言った。
「なまえ」
私たちに指を差し、眉間にしわをよせたまま日本語で「なまえ」と言ったのだ。そして続けてルーファーは自分自身を指差してこう言った。
「キーウィ」
俺の名前はキーウィだ、キーウィと呼んでくれ。
固まって色紙を差し出している私たちから色紙を取り、厳しい表情のまま一人ずつ私たちのフルネームを訊いていく。そして私たちが伝えたそれぞれの名前をフルネームで書き、ゆっくりとサインをしていく。
しっかり英語で相手の名前まで入れてくれる。そんな選手はなかなかいない。怖い表情だが温かさが伝わる人物だった。その後、英語と日本語を交えながらルーファーは少年たちと長い時間会話をした。室内で練習後なのかリハビリ後なのか、いずれにせよ疲れているだろう、はやく自分のプライベートな時間を満喫したいはずだろう、しかも自転車で帰るのだ。それなのに少年たちとの交流を優先したのだ。
終始ルーファーは厳しい顔だった。笑顔など一回もなかった。それでも私たち全員がその人柄と「本当の温かさ」を感じた。ルーファーが去った後、みんなの意見は一つだった。
「あんなに優しい選手は見たことないね」
笑顔は人を幸せにするという。しかし笑顔に騙されて何かを失う人もいる。この少年期、作られた笑顔よりも大切なものをルーファーから学んだ気がするのだ。少なくとも私は今笑顔に屈することはないのだから。
SNSもない時代、スマホもない時代、彼の振る舞いに何のメリットもない。その人の良さを拡散してくれるというメリットなどない。けれどルーファーはあのとき全力で誠心誠意、私たちに接してくれた。
これを人柄と呼ぶのではないだろうか。素晴らしき人柄と。そこに計算などなく。
あの日、私たちはルーファーに恋をした。