やりたいこと探しを手放したら、進み方がわかった
将来のことを考えるときって、つい「やりたいこと」を考えてしまう。
わたしのやりたいことって、なんだろう?
わたしは、何者になりたいんだろう?
そう自分に問いかけても、わたしにはなかなか「やりたいこと」が見つからない。思いつかないわけじゃないけど、どれもしっくりこない。
これだ!と一瞬思っても、けっこう背伸びした理想像だったりして。
モチベーションが下がっているときに見返すと、わたしには無理かも…とかえって苦しくなってしまったりね。
結局のところ、「やりたいこと」って、別になくてもいいのかも?と最近は思っている。
ちょっと前に「フリーライターになりたい」と書いたけれど、よくよく考えてみると、別に「フリーライター」になりたいわけじゃないのかもしれない…という話です。
「やりたいこと」より「どうありたいか」
3ヶ月前、けっこうな大金を払ってオンラインスクールに通いはじめたのに、最近ほとんど勉強を進められずにいた。
家事と育児に追われて…というのは言い訳で、本当は目標を見失っていたからだと思う。
ライターとして、何が書きたいのか?
どんなことをしたいのか?
考えれば考えるほど自信がなくなって、目指すものがわからなくなってしまった。それで、まずは自分にじっくり向き合ってみることに。
わたしの場合、「ライターになりたい」というよりも、「家族と自分の時間を大切にできる暮らしがしたい」が先にあって。
つまり「やりたいこと(What)」よりも、「どう暮らしたいか(How)」の方が優先度が高い。
その「How」のために、「フリーランス」という働き方がいいと思ったし、いままでやってきた「ライター」という仕事が役立つかも、くらいの感覚で。
もともと他のスキルも身につけたいと思っていたし、そんなにライターにこだわるつもりもなかった。
…ということを、自己分析をする中で思い出したのだった。
文章を書くことは、もちろん嫌いじゃないし、やりがいも感じてきた。
けれど、とくべつ何か伝えたいことがあるとか、こんな文章が書きたい!という理想があるわけではなく…。
だから、文章を通して何を伝えたいか、とか、何をやりたいのか、と聞かれると答えに詰まってしまう。
これまで「書くことが好きだから仕事にしたい」と思い込んでいたけれど、本当はたぶん、ちょっと違う。
ライターを選んだのは、褒められた経験があって、自分でも得意と思えることが、文章を書くことくらいしかなかったから。それしかやってこなかったから(これも思い込み)。
それくらい消極的な理由しかないことに気がついて、自分でもびっくりした。
このまま進んだら、きっと自分で決めたことに、自分で縛られてしまう気がする。
本当にわたしは、フリーライターになりたいんだっけ?
そもそもやりたいことって、はじめから決めなきゃいけないの?
そう思いはじめたころ、ある記事が目にとまった。
わたしは「叶え組」だった
桜林直子さんはクッキー屋を経営しているシングルマザーで、『世界は夢組と叶え組でできている』というタイトルの本を出版したばかり。
簡単に言えば、世の中には「やりたいこと」がある「夢組」と、「やりたいこと」がない「叶え組」がいるよね、という話。
「やりたいこと」があって、それに向かって進んでいくストーリーの方が多く目にするし、なんだか素敵に見える。
でも、「やりたいこと」がない「叶え組」の人にだって、できることはある。やりがいを求めたっていい。そういう人なりの進み方がある。
そう言ってくれて、ずいぶん心が軽くなった。
この記事に連なるマガジンから、引用しながら紹介してみたいと思う。
進みながら地図を描く
「叶え組」の話には、あー、そうそう、そうなんだよね!とうなずけるポイントがたくさんあって。
たとえば、
湧き出る「これがやりたい!」というものはないけど、やることに意味がほしいし、あなたがいないと困ると言われたい
恋愛でも、没頭して夢中になるというより、深い理解などの理由が先にある
「夢組」のキーワードが「感情、衝動、行動」に対して「叶え組」のキーワードは「構造、観察、理解」
やりたいことがある人とチームになると、気持ちだけでやり方がわからないという人に手段や優先順位を見せることができる
このへん、心当たりがありすぎる。笑
わたしはどうも、自分のやりたいことを探すより、やりたいことがある人の力になりたいっぽい。
そこに専門性や得意が活かせれば嬉しいし、やったことのないことでも、誰かに必要とされるならやりたい。
なんというか、いつか素敵だな、関わりたいなと思うものに出会ったときに「こんなことできます、手伝わせて!それ、わたしにやらせて!」と言える自分でありたいのだよね。
もしかしたら、わたしにとって大事なのは仕事の内容より、自分のやったことが誰かの助けになる、というシンプルなことなのかもしれない。
これも、すごくしっくりきた。
「叶え組」の人は、「これがやりたいから、こうする」のではなく、進みながら意味を見つけていく。
まさにまさに、そうなんです。
編集者になりたくて出版社に入り、いま雑誌の仕事をしているというと、「夢組」のように思われそうだけど、実はそうでもなくて。
振り返れば、ひとまず会社勤めしたいとか、言葉や本の近くにいたいとか、社会的に声が小さい人の側に立ちたいとか、どの選択も「〇〇をやりたい」というよりも「〇〇でありたい」という状態が動機になっている。
未来につながるかどうかわからないけど、いまの自分にとって必要そうな方を選んできたと思う。
学生時代から一貫していると言われるけど、学生のときの関心と、いまの仕事が根っこでつながっていることに気がついたのは、後になってからのこと。
行動してから、経験と経験が結びつく。ああ、そういうことだったのかと気がつく。そこではじめて、いまやっていることに意味が生まれる。
そんな具合なので、もとから「やりたいこと」があったわけじゃないというか。
(未来より過去のことを考えるのが得意なのも、叶え組の特徴らしい)
未来は見えなくても信じて進め
じゃあ「やりたいこと」がない人は、どこに向かってどう進めばいいのか?
「あ、これか!と見つけただけで勇気になる」というのは、糸井重里さんの言葉らしい。「これがあったらいいな。だれがやるんだ? あ、俺か」というようなもの、とも言っているそうだ。
これは本当に、こうなったらいいなあ、ということを言語化してもらった気持ちになった。
「あとはやるだけのこと」が見つかるのはいつになるかわからないし、すごく曖昧でフワフワした未来だけど、実はいちばん無理のない自然な進み方なんじゃないかなあ。と。
もう一つ、桜林さんの言葉を引く。
やりたいことはなくても、進みながら「できること」を増やすことはできる。
「あ、これか!」に出会うまで何もせずに手をこまねいているのではなく、「できること」の貯金をするつもりで、目の前のことに向き合えたらいいのかもしれない。
それでも不安になって、わかりやすい「やりたいこと」にすがりたくなるけれど、それで苦しくなるくらいなら「やりたいこと」なんてなくていい。
いつか社会を見渡したときに、何もできない自分でいたくない。
いつか子どもが見たときに、何もできないと思い込んだままの自分でいたくない。
何より、途中経過の自分も含めて、自分を好きでいたい。
桜林さんの、この一言が沁みる。
やりたいことはなくても、叶えたい未来はある。ありたい自分も、できるようになりたいこともある。
頑張る理由なんて、それだけで十分じゃない?
そこに向き合ってコツコツ進めば、いつか「これはわたしがやるべきじゃん」と思えることが、きっと見つかる。
そうささやく天使を耳元に住まわせたい。
※「夢組と叶え組」についてもっと知りたい人は、noteで他の記事もマガジンになっているので、読んでみてください〜。
soarのインタビューもよかったので、置いときます。
毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。