100%の自信で迎えたい、けれど
出生前診断のことを考えていたら、頭がぐるぐるしてきてしまった。
産む前の段階で、赤ちゃんに障害や病気がないかどうか調べられるっていうけれど、正直迷う。
どんな子だとしても、産みたい。
産むと決めているのなら、出生前診断なんて受けなくてもいいじゃないか。
とはいえ、安心して産みたいというのもある。
でも、生まれる前に障害がわかったとして、じゃあどうするのだろう…。
わたしは仕事柄、障害のある人や親御さんにも会ってきている。その人たちがそれはきっとたくさんの苦労も抱えながら、でも障害を受け入れて、その人なりの幸せを生きていることを見聞きはしてきた。
でも、自分の子となれば、そりゃ健康で五体満足に生まれてきてほしい、と願ってしまう。
障害のある人の生を肯定することと、子どもの健康を願うことは矛盾しない。全然矛盾しない。そう思うけれど、やっぱりじゃあ、そういう子が生まれたときわたしはどうするのだろう。
夫に出生前診断の話をしたら、「考えたこともなかった」と言い、障害のある子が生まれたら「正直、自信がないなぁ」と言った。
その言葉に、ものすごくひっかかってしまう。
自信がないって何が???
受け入れる自信?育てる自信?
じゃあ、生まれつきなんの障害もない子なら、育てる自信があるのだろうか。
わたしだって自信なんてない。でも、どんな子であっても受け入れて(受け入れるも何も、こっちが勝手に望んでつくった命である)、その子が幸せに生きられるよう精一杯を尽くすのが親ってもんじゃないのだろうか。
そのとき、夫はその過程をいっしょに考えたり楽しんだりしてはくれないのだろうか。「自信ないなぁ」の一言で逃げるのだろうか。
いやいや、ちょっとまて。
そもそも、産むか産まないかと、出生前診断を受けるか受けないかは、つながっているけど別の問題だ。
産むと決めていたとしても、障害があることが先にわかれば、それなりに調べたり心の準備もできる。何事もなければ、ひとまず安心は得られる。
でも、でもやっぱり、考えてしまう。
もしなんらかの障害があるとわかれば、夫は失望したりするのだろうか。いっしょに前を向いて、大丈夫と言ってくれないのだろうか。「自信がないなぁ」と思われたまま、この子は生まれてくるのだろうか。
どんな子でも、絶対に幸せに生きられるようにするから、安心して生まれておいで。それくらいの100%の自信を持って、わたしは赤ちゃんを迎えてあげたい。だって、親が信じなくてどうするのだろう。親が希望を持たなくて、誰がこの子を幸せにしてあげられるのだ。
産まないという選択肢は、ちょっと考えられないというか、考えたくないというか、考えようとすると感情的になってしまう。だって条件つきで、こうだったら産まないなんて、そんな残酷な選択があるだろうか。生まれてこれないならそれまでだろう。でも、生まれてこれる命が、親の判断でなきものにされてしまうなんて、そんな勝手なことできるわけない。いまお腹の中にいる、この子はわたしの子だけど、別の人間なんだから。
今まで出会ってきた、障害のある子の親御さんたちの顔が次々に浮かぶ。
母親と父親の間で、どんな話をしたのだろう。戸惑い、悲しみ、それでも自分を奮い立たせて、その子の幸せだけを案じて願って。きっとすごく孤独で、不安だろう。想像も及ばないけれど、そこにある親という切実さを、はじめて垣間見るような気がした。
親になる。
それは、一つの命に責任を持つということなんだなぁと、改めて思い知らされている。
出生前診断を受けるかどうかは、まだ決められていない。
毒にも薬にもならない文章ですが、漢方薬くらいにはなればと思っています。少しでも心に響いたら。