脱スピをして改めて思うこと。自分軸は必要ない。
今現在、スピリチュアル関連の動画を観たり、実際にセッションを受けたり
ハイヤーセルフの声を聞けるようになったり、過去生を知った事で
本当の意味で人生が好転した人はいるのだろうか??
一次的には良くなっても、また気持ちが落ちてしまうというような
無限ループにはまってはいないだろうか?
↑言葉に惑わされてはないだろうか?↑
元々、そこまでスピリチュアルに関心があった訳では
無かったのですが、仲の良い友達、妹、ここ数年の間に知り合った仲間が
なぜだか、皆、そういうのが好きな人たちばかりで気付いたら私も夢中になっていました。
完全に卒業したきっかけは聖書。
誰かに勧められたわけでもなく、興味が突然湧いて
夢中になって読み始めるのです。
宗教に対してアレルギーがあったのですが、それは誤解でした。
人間として、こういう生き方をしなければならないという
自分を戒める為には必要な一冊。
ちなみに洗礼を受けた訳では無いのでクリスチャンでは
ありません<(_ _)>
祈りを続けて行くうちに、毒親だった両親との関係が
完全に修復していくのを実感したことで、スピリチュアルの世界への
興味が一気に無くなりました。
そして聖書はスピ系とは
真逆の位置にいることに気付いたのです。
聖書では神が全て。そして神はイエス唯一人。
スピ系では自分が全て。神は自分の中にいる。
聖書では欲望をコントロールさせるために禁忌事項が沢山ある。
スピ系ではとにかく自分の気持ちを大切にする為に欲を満たす事を重視する。
その他にも聖書は親を敬う、他人に親切に。人を赦す。
など、自分ではなく相手に対しての心配りを大切にしています。
そして、私が特に注目したのは禁忌事項。
これらをパッと見た時に、大きな共通点がありませんか?
どれも依存症になりやすい事柄ばかり。
コントロールが出来なくなると幼児虐待、薬物依存症、アルコール依存症など犯罪にも繋がりかねません。
特に、ポルノ(性的な事柄全般)と偶像礼拝は絶対に禁止されています。
浮気に関しては肉体関係が無くとも、相手を意識した時点でそれは罪となると書かれている程です。
人はとても弱く欲深い生き物。
であることを思いださせてくれます。
そんな欲張りな人間が好きな事ばかり、食べたい物ばかり食べて生きていくことが本当に良い事なのか?
聖書は善悪の区別をハッキリと示しているのに対し
スピ系は全ては自分次第なので、そこは曖昧ですよね。。。
これって、ちょっと危険では無いのかな?と
スピ系を卒業して思う事です。
私の友達の中にはキリスト教=潔癖、自由が無さ過ぎる。
というイメージを持っている子もいるんだけれど
無欲で生きる方がよっぽど自由だと私は思うのです。
こうしたい。ああしたい。が無い方が
楽では無いですか?
それよりも世の為人の為に生きる方が
よっぽど真っ当なのでは無いのだろうか。。。
オンラインであれば聖書は無料で
読むことができる。
誰にでも扉は開かれている。
それに対して
スピ系のグッズやセッションは高額で
お金が無いと難しい。
本当にその価値はあるのか。
大昔の日本人はこんな風に考える事すらなく
ただひたすら、毎日を精一杯生きていた。
ポジティブになる必要はあるのか?
自己肯定感を上げる必要も
自分を褒める必要も本当は無いのでは?
潜在意識、顕在意識、全てを複雑に考え、全てを何かに繋げてしまう。
それがスピリチュアルの怖い所だ。
今日本では「自分軸を大切にする」という
ブームが続いているので、スピリチュアルビジネスは
すぐには終わりそうにないけれど
この記事が少しでも誰かの役に立てたら
と思います。