小料理屋《すみ多》〜さよならそしてありがとう
旅するスーパースター、蕎麦宗です。
蕎麦宗の場所は、伊豆は三島の本町にある《銀座通り》という古くからの小道で、江戸時代には突き当りの先に徳川慶喜の御殿があって、今は石垣の一部と町名にその名を残している。
とはいえ本当に銀座があった訳ではなく、この石垣の横を流れる四宮川の窪地に、かつてあった銀座会館という映画館の名残で、この通りの名が付いたという話を年配のお客さんから聞いたのはもう18年も前のことだ。
そんな歴史ある通りゆえか、この通りには古くから商う人が集まり、草履屋や呉服屋は時代の流れで消えたけれど、三島で1番の焼肉屋《東海苑》さんのように創業50年をゆうに越える名店をはじめ、いまだに多くの飲食店が立ち並ぶ。
その一つが表題の《すみ多》さんで、移転前を含めて57年の歴史に幕を閉じる張り紙を見かけたことに思い馳せて、この記事を書いている。
以前、【小料理屋《すみ多》〜】に書いたように、女将さんは蕎麦宗の常連にして大のファン!と公言してくださっていた。僕も一杯やりにたまに立ち寄った。その記事はこちら↓
『歳とるとね。病気自慢と 誰それさんが亡くなったって話ばかりで暗いのよ!だから、蕎麦宗さんの話を聞くと元気が貰えるの』
そう話していた《すみ多》さんも*傘寿近いのに、はつらつとして元気そのものだった。しかし、残念ながら寄る年波には勝てず、ご病気での入院にて閉店されたようだ。
先だって、そのすみ多さんの息子さんが、とあるモノを持って訪ねて下さった。なんでも、店じまいの片付けをしているらしく、
『これは、蕎麦宗さんの大事なものなんじゃないかと思って…』
と、手にするパネルをよこす。それは今となっては懐かしい、4年前に出場した台湾KOM2019に出場した際の新聞記事とゼッケンプレートだった。
あの時、すみ多の女将さんもクラファンした上に、新聞記事を切り抜いて店に飾り応援してくれた。その返礼に、あの【AMANDA】に付けていたゼッケンプレートをあげたという事情を息子さんが知る由もなく、戻ってきたのは懐かしくもあるけれど、少々切なくて涙腺が緩みかける。
聞けば、末期の膵臓ガンだという。入院されたまま、おそらくもう戻ってくることはないだろう。
ふと、仕入れ帰りの店先でかわした挨拶の、《すみ多》の女将さんの会釈と笑顔が浮かんだ。ロードバイクと電動アシストのママチャリがすれ違う、三島銀座通りにあったあの日常は、いつか昔日。もう戻らない残酷な時の流れは、ごくありふれた人生の営み。
そんな《老い》と《死》という、人が決して避けることが出来ない《苦》に触れた時、僕はいつも自身に問いかける。
『お前は悔いなく、しっかりと生きているか』
《すみ多》さん、永い間お疲れ様でした。そして、色々と商売を教わりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
よし、ガンバラナシませう。
追記: この記事をupした翌日、7月19日に永眠されたとのこと。残念です。ご冥福をお祈りします。
*傘寿…長寿を祝う80歳の別称
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