発想の転換!を子供達から学ぶ
旅するスーパースター、蕎麦宗です。
先だってのこと。偶然、同日同時間に蕎麦宗に横浜国立大学時代のゼミ関係者が来店してくれた。
1人は村瀬さんといって、和歌山大学の教授を勤めている先輩。【正解だらけの車選び】その4話・その5話の【浜のカローラFX編】に出てきたので、古くからの蕎麦宗note読者には覚えがあるかも知れない。良かったらこちらの記事を先にどうぞ!↓
その村瀬さんが前日に予約してくれて、13:00くらいの来店となった。
その朝もう1人から予約の連絡が入った。【浜のカローラFX】に書いたように、落合研究室((体育心理学)では毎週火曜日の夕方から、ゼミという名の飲み会、いや勉強会があった。
落合教授を中心に、僕のような学部生や大学院生の村瀬さんはもちろん、OB・現職の教職員など様々な方々が集まり、雑談や議論に花が咲くとても有意義な時間だった。
そこへ来ていた藤田耕平先生はインターンシップで大学に学びに来ていた中学校教員(当時)。ギター片手に弾き語りを披露する一方、横浜市内の荒れた中学校を再生する漢気溢れる熱血教師だった。
その藤田先生が、その朝に予約連絡をくれたのだった。
おっと、これは面白い。30年以上前にゼミ室で繰り広げられた光景そのままが、まもなく閉店する蕎麦宗で再現される。奇遇にも鉢合うこととなる二人には、敢えて誰とは知らせずに、『面白い人に会うと思いますよ!』とだけ伝えた。
予定の時間より少し早く来た村瀬さんには、せっかくだからと少し待ってもらって、そこへ現れたのは藤田先生。
『おおお〜藤田先生!』
『おお〜村ちやん!久しぶりだなぁ、何年ぶりだろ?!』
と、興奮するお二人。期せずして同窓会のようになった2人は、暫くの間、昔話に花を咲かせていた。
その後、奥様の横浜へ里帰りから途中下車してくれた村瀬さん夫妻は、和歌山へと帰って行った。他のお客さんも引けたので、僕も一杯やることにした。
藤田先生とは落合教授の退官パーティ以来だから、14年ほど振りになるだろうか。
いくつかの中学校の校長を勤め上げて退職した後、長年の夢だったバンド活動に打ち込み、自身で作詞作曲を手掛けてCDデビューまで果たしている。だから、【ポンタ…】さんのスティック眺めて話した時なんかは、子供のように喜んでいた。
『バンド名の《わいふぁいせっと》は
、ファンだったハイファイセットからなんだ!村上ポンタ秀一!ひと頃居たんだよ!あのグループに!!』
そんな風に興奮して語る姿は大学時代とちっとも変わらなかった。
『先生、相変わらずパワフルですね〜』
そう伝えると、
『それだけが取り柄だからねぇ』
と謙遜するが、他にも、中学生への部活動外部顧問としてバレーボールを教え、某大学にて教鞭もとっているようだ。
なので、齢67歳となっても相変わらず発想は柔軟で、
『東京都立は未だにツーブロック禁止とか言ってるんだよ!校則なんて無くせ』
って、旧態依然な学校に物申しているよう。興味深い話が盛り沢山だったので紹介したいところだけど、一番グッと来た話を一つだけ語るとしよう。
例えば横浜の鶴見区・中区など、都市部の地区では移民が増え、その子息が学校によっては全校生徒の1/3を占める程だという。国籍も中国や東南アジア諸国・中南米からと様々で、日本語でのコミュニケーションが難点になっているようだ。
国は、中学生年代も、英語に加えてフランス語やドイツ語など第二外国語の必修化を始めんとしている昨今。ところが、その子供達はほぼ非英語圏の出身。ただでさえ苦しんでいる日本語学習こそ充足するべき。と、課外授業で補習をしているようだ。
そこへ日本人の中学生達が現れて一緒に勉強すると言い出したらしい。しかも、
『私達が、彼等の言葉を覚えた方が速い。その方がみんな友達になれるでしょ!』
と、スペイン語・ポルトガル語・中国語・タガログ語…etcを学ぶ事を提案したというのだ。
『発想がさ、柔軟だよね、子供たちからまた学ばされたよ』
そう話してくれた藤田先生も、まだまだやりたい事も沢山あって、バンド活動も次のフェイズを迎えているようだ。
『山川君みたいにさ、転身するには潔く手放さないとダメなんだよなー』
なんて言ってくれるけど、15歳の年齢差は、僕が学生だったあの頃からちっとも埋まっていない。今だに、子供達や僕からも学ぼうとする姿勢には、リスペクトしかない。
さて、人生50年も生きてると、頭も心も頑なになるモノ。僕も、藤田先生や子供達を見習って、よりもっと柔軟な発想ができるようになろう。
さぁ、ガンハラナシませう!
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