「ふるさと教育」という曖昧性と排他性について②
前回の記事では主に教育現場で用いられている「ふるさと教育」なるものの曖昧性、とくに「ふるさと」「故郷」「郷土」を構成するものが、子どもたち個々人による感受性・個人的な出来事など「主観性」が大きな要素になることを述べた。
今回は「ふるさと教育」が内包する「曖昧性」から「排他性」に視点を移したい。
1.「ふるさと教育」を唱えるのは誰か? -実践主体について-
まず問われるべきは、「ふるさと教育」を声高に叫ぶ主体は誰かという問題である。多くの場合は、行政や学校であり、あるいはその当時の行政の支持者としての一部の住民である場合もあるだろう。
注目すべき共通項は、「ふるさと教育」を強調・提唱する人間の多く(というかほとんど)は、社会的には実際にその「ふるさと」に居住している・あるいは関係している「(半)定住民」であることだ。加えて言えば、彼らの経済的立場も無関係ではないかもしれない。
そのような都合の中で「ふるさと教育」を提唱する「(半)定住民」であるオトナたちは、当然の如く「ふるさと」を美化し、正論として並べ立てる。ここで以下のような問いかけをしてみるのも意味があるだろう。
「それは本音に根ざしたものであるのか?そこには子どもに『なんで?』と問われたとき、少しも狼狽せず語れるほど欺瞞や偽善もないのだろうか?」
2.「ふるさと」は力によって操作も規定もされない
先に「ふるさと」に対する「まなざし」の主観性について書いたので、こんなことはわざわざ項目を立てて書く必要もないのだが・・・。「ふるさと」が主観によって創られる構築物であるのなら、「ONE西宮」が存在しないように、「ONEふるさと」という概念も理論的には存在しない。だからこそ、
「ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふものよしやうらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや(以下略)」[室生犀星,『小景異情』
と室生犀星は詠んだ。ここには「ふるさと」に対する憎悪しかない。
ちなみに僕自身の立場を言えば、現在「ふるさと」で生活の糧を稼いでいるが、たまに聞こえる「我々はファミリー」とか「町内皆家族」とか「家族みたいなもんやん!」いったアホ丸出しの標語めいた言葉には違和感しか感じない。
人間の生活や人生は、ときに社会情勢や個人的な事情に大きく左右される。「ふるさと」に帰るか否か、あるいはこの科学至上主義の時代においても「それは宿命なのか?」と強く自問し、激しく葛藤したまま「ふるさと」で40代を迎えました・・・。という大人も多いはずだ。未だにあがきもがいている人もいるかもしれない。結果的にどうしようもなく夢破れ、「錦を飾る」という死語を自ら再度殺しながら現在に至るという人も少なくないだろう。
もちろん、僕はここで故郷から一歩も出ないという選択の是非や善悪を問うているわけではない、それはそれで限りある人生の生き方であるだろう。
しかし僕個人にとってはそのような選択肢は微塵もなかったので、犀星が詠んだ心情が容赦なく突き刺さってくる。ただし、どれだけ政治や教育が「ふるさと」を賛美したところで、子どもたち個々人によってその場所は経験と主観によるものであって、
「ふるさと」とは、決して「(半)在住民」による政治や教育によって操作され規定されるものではない。
という真理は重要視される必要があると考えるわけである。
3.「ふるさと教育」における排他性について-過度なローカリズムー
歴史的にみれば、そもそも現在で言うところの「ふるさと教育」とは、戦争を想定した戦前における「郷土教育」をその萌芽とする。簡単にいえば各村落において「郷土愛」を共同的な社会認識とするために打ち立てられた「教育」である。その延長線上にあるのが「郷土」から「国民国家」へ、というナショナリズムが中心に据えられていたのは容易に理解できる。じゃなきゃ村八分。
つまり「ふるさと教育」とは、国家(権力)からのトップダウンで命令された「国民形成」の手法という歴史を備え、戦時下における「愛国忠臣」を作り出す「教育」であった。そこでは個々の子どもたちの主観や感受性など無関係・無力化されていたことは現在にも通じる。要するに「ふるさと教育」は今も昔も「集団主義」の枠組みの中から脱し切れていない。
それでもなお「ふるさと教育」を是とする理由はなぜだろうか。その答えは明快というか稚拙なもので、グローバル化・少子高齢化社会を軽く意識した「(半)在住民」による、
「ふるさと教育をカリキュラムとして重視・実践すれば、「ふるさと」に愛着・愛情を覚えた子どもたちが将来的に戻ってきてくれるのでわ」
とか、
「ふるさと教育によって土着的な愛によって繋がれた共同性が生まれ、共通の世界・社会認識を醸成できる」
という根拠がないとうよりも個々の事情を無視したものである。「(半)定住民」であるが故に醸成され語られるエゴでしかない。実際は、前者/後者の両感覚が絡まりつつ、発言者自身はそんなことも理解できないまま「正義」として提唱している。どあほうである。
ではその結果がどのような思想や目線を生む出すのか?いや、現実的に今現在においてもどのような目線が生み出されているか?
一言で言えばそれは、
「ラディカルなローカリズム」「排他的ローカリズム」
である。
具体例として挙げれば、「(半)定住民」にとって「ふるさと」とは、そこに関係する人間は「居住しなければならない」という内規を作り出す。そこで意図されるのは、全国規模の社会現象である人口減少とそれに伴う住民税対策かもしれない。しかしそんなビッグウェーブ・インパクトは「ふるさと教育」の結果としては何の効果もない。だから結局は根拠や要因を覆い隠すほどの感情的側面が強い。
どんな理由であろうが、個々人の主体的な選択を無視して人間を特定の場所に拘束するというのは最悪の暴力である。「(半)定住民」が近代化と同時に国家に専有化されたはずの暴力性を内在化して発現しているという事実は、先に述べた「ふるさと」についての集団主義的な思想を国家ではなく「住民」が代行している(させられている)訳である。しかしその構造に彼らは気づかない。彼ら自身が「正義」や「教育」の名のもとに「居留地」をコツコツと創り上げているのである。
ところで、自分の思考力が浅い人間ほどしばしば法規を持ち出す傾向があるが、もちろん僕はここで憲法を持ち出すつもりはない。
「ふるさと教育」「郷土愛」「ふるさと万歳」と声高に叫ぶ「(半)定住民」が、居住地とは無関係に「ふるさと」に積極的・主体的に関わろうとする人間に対して、居住地が「ふるさと」でないからという一点に集中して執拗に批判のまなざしを向ける。それが今回のテーマ、「ふるさと教育」の排他性である。
問題は、ここに子どもたちは関係ないが、現実・現状として存在する問題である以上、このような事例を入念に集めて精査し、きっちり説明する必要があるだろう。こんな考えの人もいます、でもいい。
以上のように書いてきてひとつ言いたい。
そんな偏見的かつ偏狭な視野による、現代の「居留地政策」が内規的に作用している地域に、一体誰が住みたいと思うのか?
そこに文化だの歴史だの自然だのと決定付けられた「ふるさと」が「正義」として国家権力を後ろ盾に押し付けられる。その行為は、感受と主観で「ふるさと」を創り上げていく子どもたちの「ふるさと」に縛りを入れる以外の何者でもない。
そんなことしなくてもね、良い想い出も嫌な思い出も含めて、こどもたちは大人になっても出自としての「ふるさと」をそれぞれの経験と主観によって心に植え付けられていますよ。ただし、
そこが「世界の中でも輝く場所」か「世界で一番嫌いな場所」か「どうでもいい場所」になるかは、結局のところ当人にしかわからない。
というか、こんなこと・・・人生経験としてわかってんじゃないの?