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がんを宣告された日の夜に、散歩をしながら聴いた曲『ワールズエンド・スーパーノヴァ』くるり
がんと宣告された気分
正確に言うと、「おそらくがんです」と言われ、転移の検査を受けた後の気分です。
世界に触っている。
言葉にするとそういう気分でした。
どうやら自分の肺には腫瘤があって、それががんである可能性はどうにも高いようなのでした。
時間が欲しい、何をするでもないけれど。
わたしは正確な結果が出る前の段階で、仕事を休むことにしました。
夜に散歩をしたい。
夜に散歩をしたい、というのは、かねてからの気分でもありました。
2月の夜を、なんとなくふらつく。
あてもなくふらつく、なんてことはなくて、なんとなく道を選んでいて、それはかつて彼女と過ごした公園通りだったりしました。
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自分の人生はなんだったのだろう、と考えたりしました。
そして、耐えがたい低評価がくだされる予感がして、別のことを考えようと気をそらすのでした。
イヤホンをする。
まったくあてのない道を歩くわけではないように、なんとなく、気分の1曲を求めながら。
くるり_ワールズエンド・スーパーノヴァ
初めて聴いたのは大学生の時。
のちに統合失調症と診断され苦しむことになる精神症状の兆候が始まった頃。
当時わたしは寝ることが怖く、そしてお望みの通り寝られなくなった。
夜に包まれたまま、時間から隠れていたかった。
その気分は、何年経ってもわたしの基本的な気分であり続けた。
懐かしいな、と思い聴きはじめた。
間奏部。
上昇するベースラインと循環コード。
それは明らかに、昇る太陽と、去っていく夜の繰り返し、その象徴だった。
ミュージックビデオは夜明けの海を映す。
![](https://assets.st-note.com/img/1680597424113-TXatx1PpaK.jpg?width=1200)
わたしは深夜の路上で、やがてこの夜は終わると思いながら、立ち尽くして聴いた。
詩が入ってくる。
”絶望の果てに希望を見つけたろう”
”いつまでもこのままでいい
それは嘘 間違ってる
重なる夢 重ねる嘘
重なる愛 重なるリズム”
”1.2.3でチルアウト 夜を越え僕ら旅に出る
ドゥルスタンタンスパンパン 僕ビートマシン
ライブステージは 世界の何処だって
ラフラフ&ダンスミュージック
僕らいつも考えて忘れて
どこまでもゆける”
どこまでもいける、なんて鼓舞するときは、どこへもいけなかった日々を悔いているときだってことをわたしは知っている。
こんどこそどこまでもいける、と思って、そしていまだにここにいる。
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ミュージックビデオには、運転席に着きながら走らない車。
駐車場に停車する車。そこはホームでもゴールでもない。
![](https://assets.st-note.com/img/1680597555998-2JJdXHxVHm.jpg?width=1200)
くりかえす日々からの祈り
朝が来て、それは、眠れずに迎えた朝も、寝て起きた朝も、わたしは祈ったことがある。
この人生をやめたい。
またこの人生の続きか。もう、降ろしてくれ。と。
それは、終わらない日々からの祈りだった。
しかし、わたしの日々はそう長く続かないかもしれない。
胸部CTの画像データを見ながら、美貌と迫力の女性医師は、会話のほとんど一行目に「おそらくがんです」と言った。
わたしは、自分ががんであることにではなく、医師の目ぢからにけおされて、「そうですか」と返答した。
医師は、全身を画像診断するPETという検査を受けるようにと、その場で翌日の予約を取り付け、軽い調子でおどけながら傍らの看護師と、書類の確認などしている。
医師の明るさが、わたしの状態の深刻さを包むためなのか、こんなものたいしたことではないという日常の一コマなのか、判断がつかない。
判断がつかないが、PETの意義が、がんの転移の検査であることは理解した。
祈らなくても、終わるよ。
誰とも共有しようのない、終わりの、手触り。
世界に触れている感覚
わたしはPETをすませてからその結果を聞きに行くまでのおよそ10日間、執拗にワールズエンド・スーパーノヴァを再生しました。
その10日間に、わたしは世界に触ったのでした。
世界に触った。
なんともわかりづらい表現でしょうか。
自己陶酔してるつもりはないのです。
なにかいる、その存在感。
説明的に順を追って言い換えると、運に転がされている、そういう感覚からきています。
すでにPETの結果は医師の前にある。
わたしは知らされていないから、転移があるかどうかも、わからない。結果は確定しているのに。
一般的にいう「ステージ」など、状態がどの程度のものなのかはすでに確定している。わたしの肉体の中で。
状態は確定しているのに知ることができないから、わたしは悲観的になったり楽観的になったりさせられる。
おおげさにいうなら、わたしの残り時間は、神の視点において確定しているのでしょう。
そして、それを知ることはできません。
この、全知と無知の差、非対称にさらされて、わたしは、なにかを感じずにはおれなかったのです。
それを、自分の語彙から率直に言い表すなら、運。
意思を超えたなにか。
2重の祈り
”どこへでもいける”
この人生をやめたい
そうつぶやく夜明けに、否応なく昇る太陽、進む時間、繰り返す日々、循環するコード、上昇するベースライン。
”DO BE DO BE DA DA DO”
”ドゥルスタンタンスパンパン”
意味よりも手触りとして、イメージとして、深夜の路上に立ち尽くすわたしのまわりを、日々が循環していく。
ダンスミュージックの単調なリズムが世界を刻み込んでくる。
わたしの日々はもう繰り返さないかもしれない。
それでも、この道を歩いて、いつもの布団で、眠るだろう。
わたしは、もう一度、ワールズエンド・スーパーノヴァを聴きながら、首を振ってベースラインを楽しみながら、帰路についた。
目覚めたら、明日も、天気が良かったらいい。歩いていて気持ちがいいから。
それは、終わるかもしれない日常からの祈り。
ワールズエンド・スーパーノヴァ。
それは2重の祈り。
くりかえす日々からの祈り。
もうくりかえさないかもしれない日々からの祈り。
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