お誕生日、おめでとうございます!*周囲への感謝を示すのが自分の誕生日という母に思うこと*
今日は母の誕生日。戌年のさそり座。
色々重なって、直接お祝いにいけない。とりあえずメッセージだけ、朝いちばんに送信しておいた。やっぱり顔出した方が良いかな。車出せば夕方少しは顔見れるかな?
遠く離れているわけでもないが、すぐご近所に住んでいるわけでもない、中途半端な距離感の実家。
その実家に私の両親は夫婦二人で暮らしている。
今日は母の誕生日であり、なぜか久しぶりにnoteに取組にはよいテーマと思った。
母との関りを、少し振り返ってみようと思う。
思い返してみると、何年目だろう。お誕生日のお祝いに食事にでかけると、「お誕生日は周囲に感謝をする日だから」と言って、逆にごちそうになるようになったのは。
それに味をしめて、お誕生日以外にも何かと理由をつけては子供と押しか
け、ここ数年私のちょい贅沢の場となった。
父や妹たちがいないときには、母の様々な愚痴や文句を「大変ねぇ~!」と聞きながら、パフェやケーキを堪能する。
話を聞くことを商売にしているのでしょう?なんて言われると、変にスイッチが入ってしまう。いやいや、親子のたわいない会話で良いのだ。
結局私は母の話にうなづき、美味しそうに食べて気持ち良くお礼を言うだけだけれど、それなりに母も楽しく過ごせてくれていたように思っていた。
そんな母がスマホデビューして、ショートメッセージ、メール、LINEやらできるようになると、直接会わなくても文字でのやり取りが増えた。その場では言えなかった思いをとうとうと綴るようになる。
書いていると思い出すのだろう、半世紀以上も前のことさえ、ありありとまさに今目の前で起こっているかのように綴られる。
特に書いている時間帯がいけない。大抵夜だ。やまぬ後悔と反省の嵐。
そうなると、申し訳ないけれどもだいぶ重たく感じるようになり、本当に申し訳ないけれども、面倒になってしまった。
自分で綴った文章が、自分を傷つけることに繋がらないように、と願いながら、再度、距離感、関係のバランスが取れるようになってきたのは本当に最近だ。
そんな良いところも、悪いところも間近で見てきて、母を通してみる世界をベースに私は成長しました。母の元から離れて、私独自の解釈を世界に対してしてみるようになればなるほど、とても生意気だけど、批判的にもなったりして、かわいくない娘だったと思う。(継続中か?)
「母のようにはなりたくない!」言いたくはないけれど、思わず思ってしまう一瞬がないという人は、いるだろうか。
そして私は、そのような嫌な一面をいつか自分自身に見ることになり、愕然とする。やはり血は争えないな~、いやいや幼年期からの学習の結果か?
そして思うのです。
ああ万事考えた結果の行動だったのですね、お母さん。最善の方法では確かになかったかもしれないけれど、次善の策を必死に考えて対応してくれていた。私たち(妹もいるので)のために。
全く同じ立場ではないし、当時の母よりもだいぶ年を重ねている、今思います。
「子供達には迷惑かけた。悪かったねぇ。」
「私がもっとしっかりしていればねぇ。」
もう私も、そんな言葉を真に受けなくなったよ。
後悔の言葉は現在と未来のお母さんにとって、祝福とはならない、逆に呪いのように苦しめてしまうのではないか。この言葉を取り除いて、今後の人生を幸せに過ごしてもらうために、出来ることを取り組んでいきます。
最善、最高を目指したいけど、息長く続けるためにも力を抜いて、それも真剣に次善の策をかまし続けていきますね、だから長生きしてください。
お誕生日おめでとう!
高山明人さん、お母さま、素敵なお写真お借りしました。ありがとうございました。お誕生日を彷彿とさせるような画像をお借りできないかと思っていたけれども、目に留まったのはこちらのお犬様でした。愛くるしいお顔立ちに、心がホッとします。