不眠症浮袋【毎週ショートショートnote】
晩秋の黄昏、神奈川県警鎌倉警察署の取調 室ーー。
4坪の室内中央にスチー ルデスクがあり、山野刑事(四十六歳)は椅子に浅く腰かけ、のけぞるように脚を伸ばしていた。殺人事件容疑者・吉宗卓郎(四十四歳・工務店営業部長)を取り調べている。高橋刑事(三十歳)が隅の小テーブルで調書を記入していた。
吉宗は、実に姿勢がいい。一方の眼を吊りあげ、怒りと苛立ちを隠そうともしない。
「なん人も手にかけて、貴様には人間の心がないのか」山野が唾を大量に飛ばした。
「私は医療行為をしたまでのこと……」.吉宗に悪びれたようすはない。
「だから、どうだと言うのだ」
「疾患を治療するには、病の原因を取り除かねばならん。それを実行したまでだ……」
山野刑事は問うた。「貴様の疾患の原因は何だ?」
「さすが捜査主任だ、隅っこにおいでのヒラの刑事(デカ)さんとは違うようだな」不敵に嗤った。高橋刑事が眉を吊り上げた。掌でバタンと机を叩き立ちあがりながら言った。「ふざけるな!」
「私の睡眠障害は、レム、ノンレム睡眠とはまた別の所に原因をもつ。端的に言って精神的な対人関係によっている。脳神経細胞ふかくマイナス圧迫となっている。これを私の身体と心から浮上させ、
分離させねばならない。苦笑1してしまったよ、幽体離脱するってんだからね」吉宗は、寂しそうに俯いた。
山野捜査主任は、表情を変えず、胸ポケットからmarlboroをとり出し、1本を咥え、箱を振って1本を吉宗にすすめた二本の紫煙が交差して天井にのぼった。
「煙と一緒に吐いちまいなよ、楽になるぜ」暖房の利かぬ取調室に一筋の暖流がゆれたように思えた。吉宗卓郎の卑屈な小鼻のあたりから、低く静かな声が洩れ始めた。部長を務める工務店で長年にわたり確執を続けている小坂常務。五年前にバイセクシャルとして関係をもった石塚義男。そして、子どもはできなかったが、貧乏時代を夫婦として力を合わせながらついに心の契りを結べなかった香澄。三人三様の愛憎を塔のように積み上げ、吉宗卓郎は三つの魂を抹殺し、四角い浮袋に鄭重に埋葬し、己の心身から浮き上げ、不眠の魔術から解き放たれようとした。
三枚の浮袋は、無念を浮力に変えて 日本海の荒波を漂流したのだった。 〈了〉