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小説 見返り美人に戀して

         日本美術の名作を観ようと上野まで出かけ、うっかり恋におちた。
 快晴に恵まれた初夏の連休の初日である。博物館の周りには、ゆりの木をはじめ巨樹が多い。ここちよい風が胸のうちをはき、淡いみどりの香りをのこした。
 古稀をむかえた男の、四十年ぶりの快挙とたたえられるべきか。世の中の酸いも甘いもかみ分けるはずの男がなんと軽薄な、となじられるべきか。いずれにせよ、「人生100年時代」と、かまびすしい昨今、「七十歳はまだまだ鼻たれ小僧」の意気込みで、深い空を満席のホールにみたて、口笛を鳴らし、恋の苦々しさでも歌ってみるか。

 女は展示会場にいた。
 場内は仏像から絵画、蒔絵小物まで、日本古来の美術を鑑賞する多くの観客でごった返していた。ほんのり薄暗い照明のもと、人の流れに従って進んだ。
 私は、脳神経系の疾患によって脚が不自由で、歩くには杖の助けがいる。「人の邪魔にならぬよう、危なくないよう」注意を怠らず、美術品に鑑賞の眼を注いだ。
 展示も最終章を残すのみとなり、足腰に疲れがたまり、痛みはじめた頃だった。
 左耳朶のうらに、ごく微小な電子音にも似た刺激をいくつか受けた。反射的に振り返ると、「見返り美人」と目があった。おぼろげながら何かを訴えようとする目だと思った。描かれていない左目に会いたい。居ても立っても居られない願望だった。近づいて女の顔を見ると、やわらかそうな頬のふくらみが、一途な若さを語りかけていた。
「うーむ、これは……」唾液がたまるばかりで、言葉が見つからなかった。胸のうちで風もないのにうねる波が、何十年も味わったことのない「ときめき」を思いださせた。
『見返り美人図』は、浮世絵の大家、菱川師宣の肉筆による美人画の名作である。展示会場の一角で、振袖の緋色と帯の青丹が、陽炎のように燃えている。うつくしい妖気にこらえきれず目を閉じた。めまいがとまらない。
 若い男女が行きかう元禄江戸の町並み。気に入った女を見つければ、後ろ姿に男は熱い視線をはなつ。応えて見返す女の視線にも湯気が立つ。粋な男とすれ違えば、ときめく女ごころ。ふり返り男を見つめる姿態もなまめかしく、言葉がかよえばなお熱く、恋の駆けひきはいつの世も火遊び、焦がしこがされ、燃えあがる。
 古稀を迎えた我が身にも、女への思いは残り火のようにくすぶっている。そのあたりを見返り美人は見抜いて、視線を投げてきたのかもしれない。とすれば、私はからかわれているのか。やはり恋は気がかりの連続だ。一瞬も気が抜けない。
 ふと、突拍子もない疑問が湧いた。
 ひときわあざやかな緋色の綸子をまとった若い女は、浮世絵のなかで生きているのか、死んでいるのか、または眠っているのか。どちらにしても、じっと動かないでいることは、生き物にとって最大の屈辱だ。大きな謎に思えた。
 ふらり、よろめいた。引き潮に揺られて流されていくように、意識がとろけていく。
 ・・・…二の腕あたりを突かれて目が覚めた。いつの間にか休憩用ソファで、うたた寝をしていたようだ。短い夢の名残りか、まぶたの裏を木の葉が一枚流れた。
「ちょっと。みっともないわよ」棘のある声音に聞き覚えがあった。ともに来館し、別行動で鑑賞していた妻の絢子だった。「へんな夢でも見ていたんでしょ、ニヤついちゃって。風邪ひいてグダグダいっても、知らないから」と言い捨て、観客の流れに戻っていった。
 反論するのも面倒だった。「夢ではないよ」単純な事実を、腹の底に落とした。

 ひと月が過ぎた。
 この年の六月、東日本は異例の暑さがつづき、本格的な夏の到来かと思わせる日が多かった。気が滅入るどころか、嫌気がさす日々の連続だった。
 加えて胸には、見返り美人が棲みついた。「会いたい」「抱きしめたい」と望むたびに、女郎蜘蛛があらわれ尻から糸を吐いては巣をはる。「やめてくれ」と何千回叫ぼうと、彼女はしょせん浮世絵の中。手の施しようがない。
 いつの間にか雌から少し離れた糸に、その体長の半分にも満たない雄蜘蛛が、交接の機会を狙ってぶらさがっている。「これが、あんたの生きる姿だよ」と突きつけられるこちらもつらい。つらいが治らぬ恋の病。歯がゆい、じれったい。会えば治りもするものを。
 脚が元気だったころ、カメラをぶら下げて、よく里山や自然公園を歩いたものである。ここ数年は一眼レフもとんと出番が訪れず、さみしそうにしている。たまには磨いてやるか、とドライケースから取り出してはみたものの、「最近あなたが愛しているのは写真ではない。今やりたいことに集中しなさい」と拒まれた。さびしい限りだ。 
 ことしの梅雨は、異例の速さで明けるらしい。空はこちらの苛立ちを察してか、どの雲も膨れっ面を隠しもしない。
 ある日の午後。視界の端を扇形の葉影が一枚ふわりと舞った。うすく黄色い印象が残った。小腹を満たそうと一階のリビングに下りたとき、妻の絢子がつぶやいた。
「遅ればせながら私たち夫婦も、リセットする時期にきたのかしら」
 ソファの横に折りたたみ机とノートパソコンをおき、自然観察会のあとの整理、学習に余念がない。
「えっ、なんだって?」左耳の高音域が聞こえにくいのをよいことに、とぼけてみせてか
ら、お茶をいれた。
彼女と気もちよく会話しようと思ったら、コツがいる。なにか困りごとがあるなら、助
け舟のひとつでも出そうという老婆心は、怪我のもとだ。
「ああ、忙しいのよ。話しかけないで」
 声音に角が生えてくる。ここで、君が先に話しかけたんだぞ、などと言おうものなら、
「あなたは自分の好きなことだけやっていれば済むでしょうけど。わたしは、掃除、洗濯、食事の面倒と、人の分まで働いている。ああ、とにかく時間がないのよ」
と、私が家事から逃避している事実にむけて、罵倒が連射される。
 結婚して四十一年、日用品一つ買うにしても、贅沢をはじく暮らしのなかで、ひとり娘を育て嫁がせた。学生時代から機転が利かず、社会にでて何とか糊口をしのげるようになってからも、金儲けには縁遠かった。そんな私にしては、上出来の人生ではないか。むろん、大きな口を叩こうとは思わない。夫婦の今ある暮らしのかたちの大半は、絢子が身の丈に合った目標を定め、忍耐強く働くことで実現してきたものだ。
 彼女は、生きていくうえでの度胸が、私より何倍も据わっているようだ。幼少の頃、父親は出稼ぎをせざるをえない、宮城の米作り農家の出だと聞いてはいるが、彼女の人格形成にどこまでかかわっているか、軽率には言えない。ただ、私が中学生のとき、母親の働きぶりを見て、「僕とは人間の出来が違う」と感じたように、いま、妻にたいして同じことを言っても、あながち間違いではないだろう。
 定年ののち三年を勤め、印刷会社を退職した。ところが、翌年、神経伝達物資の減少により身体を動かしづらくなる患いにつかまった。パーキンソン病である。手足が震える、身体のいたるところが強張る。さらに、頻尿、めまい、さまざまな睡眠障害。とくに私の場合、幻視、幻覚の症状が頻繁にあらわれる。死と直結する疾患ではないが、なかなか厄介な相手だ。

「ごめん、ごめん」絢子の背中に、春の陽射しに浮かれたような声をかけた。「よく聞こえなかった。いま話したいのか、時間は大丈夫か。一昨日、話したやつだろ」
「ねぇ、康介。あなた、どうしたいの?」絢子がふり返り、細い声をだした。「わたしたち夫婦のリセット。初期化よ、わかってるくせに。再出発、別居、離婚なの? まさかの心中かしら。メニューは豊富だけど」
 絢子の口調は、じょじょに輪郭をはっきりさせた。たぶん私を見つめて話したのだろう。でも、私はあえて脇をむいていた。視線はぶつかっていない。
 こめかみのあたりに、しびれが走った。
 私は、読み違えていたかもしれない。この件はこれまでも幾度か話し合ったが、ふたりの行き着く先は一駅だとばかり思い込んでいた。心にも、身体にも、最もダメージの少ないであろう「再出発」。離婚届も、別居報告もいらない。しかし、彼女のお気に入りは別の路線らしい。
 生きていくうえでこんな場面がもっとも苦手だ。
 ふたりの意思が合意に達していようがいまいが、結果に行き違いがわずかでもあれば、歯がゆいのはもちろん、唐突に切なくなる。
「僕が提案した再出発では納得できないようだね。ファイナルアンサーは何?」
「ええ、わたしも考えたわ。高齢離婚でいちばんに問題になるのは、やはりお金よね。世の中で話題になるのは、生活の質。標準以上に保つには、お金はいくらあっても足りない。でも、わたしには自信があるわ。生活の質をぎりぎりまで下げて暮らすのは、得意科目よ。それに、宮城の実家のお世話になろうと思っているの」
 絢子の声に込められていた力が、急に弱まったように感じられ、しずかに視線をあげた。
パソコンの液晶画面のブルーライトに疲れたのか、目じりに指をあてている。ふと腕を下げたとき、眉間あたりを盗み見た。瞳がうるんでいた。
 椅子に腰かけていたけれど、ブラウス姿であったけれど、絢子の姿態は見返り美人そのものだった。しかし心のありようは、たおやかさよりもりりしさが勝っていた。いや老いた今、それらは拮抗し合っていたのかもしれない。深めに呼吸した彼女の次の言葉を待った。
「わかってると思うけど、私は康介のことが嫌になったわけでは決してない。平均寿命でいえば、あと十年は生きられる。第二の人生を意義あるものにするために、やりたいことと、やりたくないことが、はっきり見えてきたの」
「そうか」おだやかに一言いうのが精いっぱいだった。あらためて妻を見ると、レースのカーテンを背景に、横顔があわく陰っていた。庭のサルビアに一対の蝶が飛んできて、しばしたわむれて去っていった。レースに映った蝶のすばやい動きと、妻のゆっくり頷く横顔が、影絵となって瞼に残った。
「宮城の兄さんとこは被災地域ではないけど、放射線や津波の被害を受けたエリアに近いわ。野草や生き物について、調査の幅が広がると思うの。それと欲ばりかもしれないけど、短歌も勉強してみたいし」と絢子は、椅子に腰かけたまま天井を仰いだ。さらに首をまわしながら続けた。
「食べること、着るもの、暮らしの道具、洗濯などについて、あなたと言い争うのは、もうごめん被りたいの。あなただって、くたくたでしょう」
「わかった。梅雨が明けたら、離婚届をだそう」舌先がなめらかすぎるようにも感じられた。だが、雨降って地固めようと思えば、私たち夫婦にとって、理性にも感性にもかなう選択肢は、これ以外には考えられそうになかった。
 絢子がしゃくりあげる音を小さくしようとするのか、口元をおさえた。私もそっと鼻水
をすすった。
 胸にすまう女郎蜘蛛がジュルジュルと音になりそうでならない肉ずれを伴って、脳裡に移動し、脱皮する。はじけるような肌、若々しく艶めかしい肢体、紛うことなく見返り美人。あの女が、桜桃を思わせる唇、涼やかな瞳で誘惑する。欲情する私、髪の先から足の指先まで。こわばる筋肉、震える筋肉。恋する女に向かって全力疾走したいが、下半身は病のしもべ、「動け」の指示を無視しているのか、聞こえないのか。ひと呼吸おいて半歩すすむのが精いっぱいである。
 
 パーキンソン病の治療には、身体を動かすことが欠かせない。放っておけば次第に動けなくなる。私は月に一度病院に通うほか週に二日、午前中だけ通所リハビリテーションの世話になっている。器具を使った運動、理学療法士による個別リハビリ、集団体操などを行なう。送迎用ミニバンで自宅に戻るのは十二時半ごろ。妻が不在と分かっていても、玄関に入れば「ただいま」と声をかけるのが習いだ。ところが、その日に限って妙な胸騒ぎがしたせいか、喉は声を出ししぶった。
 うんっと鼻に空気を送りこみ、杖を傘立てにさした。壁に手をついて、しゃがみ、指を添えて靴を脱いだ。
「やれやれ」と日常の基本動作さえ億劫に感じる自分に愛想をつかした。「よいこらしょ」と身体をかたむけて右足を上り框にのせた。その時だった。
「お帰りなさいまし」若い女性の声が狭い廊下にひびいた。可憐ながら礼節をわきまえた娘のように思われた。
 どこから現れたのか、身長二十センチにも満たない女の人形が、腰を振るように近づいてきた。古稀にして初めて遭遇した珍事。目が点になるとはこのことか。
 ちぃーん。脳裡の中枢で、おりんに似た音が鳴りわたった。私はすべてを察した。
 種明かしは簡単だった。
「いらっしゃいませ、私は佐山康介と申します。よろしく……」
 挨拶もそこそこにリビングルームのフローリングに投げ出されていた美術展図録『日本美術 名作の謎』を開いてみた。
「やっぱりだ」予感が的中して声が上ずった。横座りのまま動いていないのに、立ち眩みが襲ってきた。天井の四隅がぐにゃりとめくれ、部屋がゆっくりと一回転した。
 菱川師宣筆『見返り美人図』は、総金地の背景だけが描かれていた。主人公の女が白く型抜きされていたわけではない。小間物屋とか甘味処とかで道草でも食っているかのように自然に、見返り美人は留守であった。
 今、彼女はなんと私の目の前で神妙な顔をして座っている。いや、立っている。図録に掲載された絵の大きさそのままの身長で。まばたきをしている。唇が半開きになって確かに呼吸している。人形でも、ロボットでもない。小さいながら間違いなく生身の人間だ。彼女に恋した男としては、ひと安心である。第二の人生に花を咲かせられるのか、この老いぼれに。
 見返り美人が私のもとにやってきた。三百年、十一万日の時空を超えて、元禄女が袖、裾ひるがえし駆けてくる。目指すは、千葉県K市緑風町の佐山家宅。幻のような現実だ。
 お百度参りもせず、星に願いもかけず。それでも、お天道様は見ていてくださったのか。見返り美人の化身、女郎蜘蛛にわが胸を貸した、そのご褒美か。脳裡で脱皮までさせたのが気に入られたのか。熱っぽいな、と思ったら、古稀の身心に思春期が憑依している。集中力が深く鋭くなり、不安と期待がやけに膨らみ、はち切れんばかりだ。
 一休さんのとんち話『屏風の虎』が思い浮かんだ。あれは、誰も屏風から虎を追い出せはしないという現実が、面白さを担保していたはず。ところがどうだ、「見返り美人」は常識を超えて、二次元の世界から三次元にトランスポートしている。魔法の力でも借りない限り、無理な芸当だ。いや、待て。私と見返り美人の愛の力が、時空の奇蹟を起こさぬと誰がいえよう。しかも私には、憑依したての思春期の力という隠し玉さえある。
 
 女に昼食をすすめたが、食欲はないというので、自分の分だけを用意した。冷凍ホウレンソウを解凍し卵と炒め、カップ焼きそばに混ぜただけ。トマトを丸まるごと一個たいらげ一息ついた。
 ダイニングテーブルで私と女は向かい合った。
「わたくし、名を、美緒と申します。宮平神仏具店の娘でございました」
 しっかりとした口調だった。その顔は粉っぽく、蒼白かった。気になっていた左目を見ると、心もち右目より円く大きかったが、とりたてて魅力的なものはなかった。当てが外れたという思いは否めなかった。怯えているのか、鼻をひくひくと歪めている。リスみたいだと思った。そこが可愛いかった。あばたもえくぼ、とは言え、実にお気楽な爺である、私も。若いころから変わっていないとつくづく思う。年寄りはやっぱり頑固なのか。
 驚いたことに、身長が時間の経過とともに徐々に伸びていた。すでに八十センチほどに成長している。正直、恐ろしかった。神か魔女のしわざに違いない。背筋が凍えた。それでも彼女の態度に変化は見られなかった。物事に動じない心の訓練あるいは躾がしっかりと出来ているようだった。
 私は、血圧が高いので少し胸が苦しいと、すぐに手首で脈を確かめるのが癖になっている。右手が素早く動いた。心臓に異変が生じたか。と思いきや、健やかな脈拍である。最近、胸が苦しかったのは、臓器の不調ではなく、恋心のいたずらではないのか。わが老いぼれ精神よ、話をややこしくするな。老後は単純明快に生きるに限る。女への下心はあいかわらず満潮の勢いである。それでいて、恋いこがれていた女と、互いの瞳に映る自分の姿を識別できる距離にいながら、興奮や情欲が沸騰してこないのが、納得いかなかった。小さなかけらさえ噴出しないのだ。
 失礼かとも思ったが、年齢を訊ねてみた。
「十六になるところでございます」
「若いですね」素直な驚きだった。二十歳前後だろうと思っていたからだ。
 美緒さんは、ふてくされたように左頬をふくらませ、私を睨んだ。レースのカーテンの隙間からさしこんだ午後の光に、きつく眉をしかめ、きっぱりと反論した。
「十七までにお嫁に行くようせかされます。十八になったら、もう年増呼ばわりです」
 よっこらしょ、と私は立ちあがり、窓のレースのカーテンを整え、遮光カーテンをきちんとセットしてから、蛍光灯をつけた。
「大店の娘として不自由なく暮らしていました。そこへうれしいことに、薬種問屋菊味堂の若旦那からお輿入れの申し出があり……。お話はとんとん拍子に進んでまいりました。ところが……」
 若旦那の仙太郎という男が、とんだ遊び人で、小悪党だった。吉原遊郭にこしらえた借金を、美緒さんを差しだすことで帳消しにしようとした。しかし、これはあくまで計りごとの枕。本当の狙いは宮平神仏具店の身代を乗っ取ること。大坂の神仏具店を取りまとめる大店が、さる武家の庇護をえて、大坂、江戸にまたがる神仏具店組合の再編成を企むという大掛かりな悪事だったらしい。まずは宮平のお店の評判を落とすのが目的だったようだ。この店の主人、つまり美緒さんのお父っつぁんが、顔の広い菱川師宣先生に相談をした。先生は以前から親交のあった町奉行配下の与力にすべてを話した。与力は、武家が絡むという事情を考慮し、世に知られぬ方法で事件の首謀者を成敗した――。
 話し終えると、彼女は荒い息を鎮めるかのように唇をかみしめた。目に涙が滲んでいた。
「ごめんなさい。お恥ずかしいところをお見せしてしまって」
 緋色綸子地の振袖の端をぎゅっと握りしめた手指のあまりの小ささに、私は息が詰まりそうだった。手の甲の皺が歳の割に多く、皮膚の色合いも茶が濃いようなのが気になった。
「わたくしは、この一件で、人が信じられなくなりました。人が信じて近づく人をだます。けっして赦されることではありません。そんな世の中のいろんなことが悲しすぎて。無性に腹立たしくて、絵の中でじっとしていられなくなったのです。それに、嫁入りの年齢を迎えて、これからの自分を見つめるにはいい機会だとも思いました。佐山様、ご迷惑おかけします」
 ふと美緒さんが立ち上がって伸びをした。
「ああ、気持ちいい。これで背丈が元に戻ったわ」
 立ち姿から察するに、身長は一四〇から一五〇センチ程度まで伸びていた。江戸時代の日本人は、現代人より小さかったと聞く。こんなものか。
 美緒さんが椅子に腰かけようとした時だった。振袖の先が、テーブルのうえのコップを倒した。
「あぶないっ」妙に高い声が私の喉ではじけた。
テーブルがゆれた。コップが転げ、麦茶がこぼれた。緋色の綸子の袖が濡れた、黒く染みた。
 キッチン・カウンターの端におかれたティッシュペーパーを三、四枚ぬいて彼女に近よった。
「やめて。触れないで」
 私の肩と腰から力が抜けた。江戸時代の女性が三百年後の今、何を考えているか、見当がつかなかった。ティッシュでテーブルの上を拭くしかなかった。あとで聞くと、「元禄時代のものと、ずっと先の時代の物を混ぜてしまうと、取り返しのつかないことになるかもしれないと、恐かった」と、きわめて真っ当な答えだったので、胸を撫でおろした。
 表は、梅雨が明けたばかりの晴天である。だが脳裡には、晩秋の風が吹く。扇のかたちをした黄葉がひとひら、ふたひら流れた。
 いつの間に帰宅したのか、背後に絢子が立っていた。
「おや、まあ、とんでもない。女房の留守を見計らって、女を連れこむなんて。康介さん、いつからエッチな爺さんに化けたんだかねぇ」
 妻の言葉は相変わらず尖ってカヤの葉先、思い当たる節があれば、胸になお痛い。
美緒さんも、浮世絵のなかにいるときは、しなをつくり、艶っぽさを演出していたと思
われる。しかし図録から脱け出て、今目の前にいる生身の彼女はまるっきり違う。自然体で、しぐさも心の動きも、考え方も、より柔軟で好感がもてる。
 美緒さんは、裕福な商家の娘であるが、驕ったところがなく、話し好きだ。元禄の人や町の様子をあれこれ話した。私と絢子は、とりわけ美緒さんの身の上話に引きこまれた。
 絢子は美緒さんの出現をまるで予定されていたかのように受け入れ、冷静だった。初対面の儀礼的な挨拶を済ませたあとも、見返り美人への興味は尽きないようで、おしゃべりを重ねた。ときどき耳に口を寄せ、ひそひそ話したり。すっかり意気投合している。

 その夜、ささやかな歓迎の席をもうけた。といっても、スーパーで刺身の盛合せと天ぷらを少々買い、私のたっての希望でコンビニのおでんを何個か追加した程度である。絢子が手作りしたのは、野菜サラダぐらいだが、私に不満はない。
「康介、やっぱり展示会場で妙なこと、したんでしょ。でなきゃ、こんな魔法みたいなこと、起こりゃしないわよ」と絢子が?油ドレッシングのかかったトマトを頬ばりながら言った。
「そりゃあ、美緒さんの後ろ髪に熱い視線を、体力の許す限り、浴びせたよ。でも、それは男なら誰だってやっていることでしょう」
「ご心配なく。ご主人様を選んだのは、本当に熱心に、真剣な思いでわたくしを見つめてくださったからにすぎません。佐山様の熱い視線に心を射抜かれました」
「私は、見返り美人に見染められたと思っていたけれど、本当は私の方こそポスターであなたの姿を一瞥した時から恋におちていたのかも知れない。女房の前でこんなこと言うのは、恥ずかしいような、申しわけないような……」
「江戸の世では、男と女のあれこれは、おふた方の時代より、ずっとおおらかです。お付き合いしたいときは、男が女に恋文を書いて渡す。寺社参りやお祭りで、お楽しみをしたい女が見つかったら、お尻をつねるっていうやり方もあります」
 美緒さんは、自慢げに歯を見せた。 
「つねられて、痛いところが、いい気もち。そりゃあ、いい」
「下品なこと言わないでくださいな。平成の恥ですよ」
「大丈夫ですよ、御寮さん。元禄は、今の時代よりずっとやりたい放題。長屋の人たちな
んか、閨のことでもずっと開けっぴろげです。いきいきしていたわ。川柳も盛んですし」
「でも、武家は結婚などに関しても、堅苦しかったと聞いたけれど……あっ、美緒さん、お刺身召しあがって」
「花婿と花嫁さんのほとんどの男と女が、婚礼の日に初めて顏を合わせていたようです。武士の世界では、結婚は、家と家とがするもの。息子と娘の思いなんか、無視されてしまいます」
「人間、いつの世も、日々生きていかなくちゃならないものね。それで今、私たちに問題になっているのは、夫婦の終わらせ方なんですよ」
「そうなの。行きはよいよい、帰りはこわい。四十年も夫婦をやってたなんて。とうてい信じられないでしょ」
「想像もできません。まだ嫁入りもしていませんので」
 美緒さんがお猪口いっぱいを呑み干した。
「以前、かか様に教えていただいたことがあります。妻から言い出す離縁はけっこう多いらしい。女は離縁されても、不名誉ではありません。ところが、長屋に住み、日銭を稼いで暮らす男は、ひとたび離縁されると、次の縁談はなかなか訪れないようです。元禄時代の江戸は、男の人にくらべ女の人が圧倒的に少なかったせいもあって」
 私たち夫婦が知りたかった熟年離婚や高齢離婚は、江戸時代にはありえないことのようだった。なんせ当時、平均寿命は三十から四十歳とずいぶん短かったらしいので。
 また、江戸時代と言えば、「三行半」が男の権利として知られているが、美緒さんの話しぶりはずいぶんとニュアンスが異なっていた。
「ただ書面をたたきつければ離縁できたわけではありません。結納金を全額返さなくてはならないとか、きびしい制約もありました」
 美緒さんは、話の合間にお酒をちびりちびりやりながら、マグロの赤身をつまんでいた。
 ふたりの女性とひとつテーブルを囲んでいると、なぜか母さんのことが思いだされた。妻の絢子は結婚前から母、芳江と似ているといわれていた。うりざね顔で心もち歯並びが前傾し上あごが少し膨らんでいる。わずかにツンッとしている。対して美緒さんはどちらかといえば、お多福系の顔で、親しみやすい。
 実家で暮らしているとき、私の心を動かしたのは、決まってお多福系の女性だった。ところが結婚となると、母に似た女性を選んだ。マザコンと呼ばれても返す言葉を持っていない。
 私だって自分が世間の常識からいささかずれてしまっているのではないかと、訝しむこともないではない。目の前の妻、絢子への気もち、思い、手繰りよせて言ってしまえば「愛のようなもの」がそれだ。手を伸ばせば触れる位置にいる人に、どうしても私は固執できないでいる。それが歯がゆい。
 私と別れないでほしい。と、単刀直入に言えれば、どれだけ胸のつかえが取れることだろう。しかし、声帯は拒んでいる。意地でも発語してやるものかと。彼を恨んでもはじまらない。その背後で隠れもせず、「愛のようなもの」を自在に操ろうとする、いけすかない
野郎がいる。名前を尋ねたこともない。
 そいつが、半ば強引に私のたましいを砲丸投げよろしく、首の根元から大空へ力任せに放るものだから、たまらない。放物線を描いて空を飛び、ドスンッと地上に尻餅をついた。
 そこは、鎌倉、円覚寺――。
 私と絢子は、結婚した翌年の一月、最後の日曜日、ここを訪れた。
 ひとつ屋根の下に暮らしはじめて、ほぼ一年が経っていたが、子どもはまだ授かっていなかった。そんな背景もあったのかもしれない。
 今この瞬間に、ふたりがここにあるという単純な事実だけがつくりだす、傷つきやすい時間という宝石。その生まじめな優しさに促され出かけたように記憶している。
 この日、絢子は普段着感覚の絣の着物を選んだ。彼女の心に、どれだけさやかな変化があったというのか。着物姿を見るのは、結婚式いらいだった。うつくしい、と単純に感動できる自分が小気味よかった。私は自分が男であることを意識した。満たされている自分を感じた。記憶の片隅で、二十年近くもむかしの母の和服姿が歩いていく。小学生だった昭和三十三年前後、お出かけ着として和服を活用する女性はけっこういて、、母も授業参観や、デパートに買い物に行く時などに、よく着物を着ていた。懐かしい光景だ。
 きっと私は、少年のようなまなざしで、幾度も瞬きをしながら、わが妻を眺めていたに違いない。
 円覚寺の山門をくぐり、ふたりは仏殿までやってきた。ここには当寺のご本尊「宝冠釈迦如来坐像」が祀られている。中をのぞいたが、坐像が本来醸し出すという、慈悲と気品、さらに剛にもふれる気の流れは、私の視線では捉えられなかった。当方に雑念多く、また幸せにのぼせていたせいか、ただ気怠いものとしか認識できなかった。まだご本尊に興味があるらしく仏殿をのぞく絢子から離れ、階段を下りた。
 バッグからカメラを取り出し、絞りf3.5、シャッター速度を125分の1秒に設定した。思わず「絢子さん」と呼びかけ、彼女が「えっ?」と振り返った瞬間、慎重にシャッターを押した。
「後ろから撮るなんて、嫌な人ね」と、彼女は口をとがらせた。
「見返り美人みたいで、きっと素敵だよ」と、私は受け流した。
「それ、浮世絵じゃないの。好きじゃないわ」
 ここで、話を切りあげた。明日にでもプリントを見れば、彼女も納得するだろうと思ったからだ。
 しかし翌日、出来上がったプリントを見ても、絢子はいい顔をしなかった。
「きれいに撮れているじゃないか。江戸時代には、このポーズ、このアングルが、女をいちばん美しく見せるといわれていたらしいよ」
 付け焼刃の知識を披露すると、彼女はつまらなそうに宙を見上げて、
「じぶんを美しく見せることだけが、女の使命じゃないわよ」
と、蓮っ葉な言い方をした。
「なんだか、恐いなぁ。使命なんて、言われた日には、へらへらしてられない」
「女の感情も精神も、人それぞれ。ねちこいだとか、さっぱりしているだとか……。そこらに転がっているようなパターンで片がつくんだったら、女も楽な商売だけれど」
「へえぇ。男には、おんなのその生きる実感が、どうしてもつかめないんだよな」
「だよねぇ、女は、どのおとこの子どもを産むかを、選択し、決断する。……女はやっぱり、覚悟じゃないかしら」
 私も、絢子も、爪の先まで若かったのだと思う。ふたりが結婚して一年目の会話だ。絢子二十五歳、私が二十八歳。若気の至りとはいえ、面倒くさいカップルであったことは間違いない。家庭をもって一年ぐらいは、見栄を精いっぱい張って「美貌や料理の腕前で結婚相手を選びたくなかった」などと豪語していたが、古稀を目前にしてみれば、「妻に、おんぶにだっこ」――これに勝るいい回しはないのではないか。
 私の家庭生活をかえりみて、亡くなった大正九年生まれの父とどこが違う? 家事や育児にしたって、手伝ったとはいえ、つまみ食いの域をでていない。近年、増えているとかいう「イクメン」諸氏には、評判通りなら、理屈抜きで頭が下がる。
 詰まるところ、私たち夫婦にとって円覚寺は人生の始発点なのだ、と自分では思っている。美緒さんとの初めてのデートは円覚寺にしたい、と言ったとき、絢子は、頭に血をのぼらせて反対した。彼女にとっても大切にしておきたい場所であることを祈る。

 数え年七十歳、世のため人のために、まともなことも成就できぬまま、古稀を迎えた。
 世の男どもがどうあれ、私の心身には、未だ女への欲望が木蔦のように絡まっている。夫婦の営みについては、二十年近く前すでに家内持込厳禁が宣告された。
「ああ、もう。面倒なことは、たくさん。みんな外で処理してちょうだい」と。
 財産はなし、美男にあらず、若さもない。そんな爺が、恋人をつくれる場所など、そうそうありはしない。今回の恋は、「棚から牡丹餅」ではあるが、身に染みて貴重な恋愛なのである。早急にプラトニックの先へ行かねばならない。
 デートの候補地として、美緒さんは住んでいた東日本橋の三百年後の姿を見たいといった。私は、ディズニーシーはどうだろう、と思った。いくら野暮な私でも、結婚後、妻以外の女性といく度かデートしたが、初めての行き先はたいていディズニーのテーマパークだった。しかし考えてみれば、彼女は日本美術界の、いや世界的にも「有名人」だ。江戸時代の浮世絵の主人公「見返り美人」は、道ゆく人たちの視線の餌食となるだろう。美緒さんは、通行人に見つかり、スマホのカメラで撮影されまくる。SNSにアップロードされ、たちまち炎上するだろう。ああ、考えるだけでも、おぞましい。
「繁華街に出るのは無理だな。夜、適当な時に、その辺の公園でも散歩しよう」丸まった背を伸ばしてからつづけた。「ところで、美緒さんは近松門左衛門の人形浄瑠璃を知っていますか」
「はい、存じております。ずいぶんと人気でしたから。でも、残念なことに、見たことはないんです」
「よし、決めた」私は思わず手を打っていた。「人形浄瑠璃を人間が演じる芝居を観よう」
「どこかに出かけるのですか?」
「大丈夫。どこにも行かない。この家に居ながらにして、動く画が楽しめるんだ。進化した科学技術のおかげでね。しかも、近松作の『曽根崎心中』だよ」
 絵から抜け出た美緒さんとは、きょう会ったばかりである。早々に男女の仲になってしまいたい欲求はあるが、ちっぽけな分別が働いた。老いた男が踏まえるべき儀式として、さらに婚姻を解消するであろう絢子への「けじめ」として、たった一日でもよいから美緒さんとの交渉を延ばしたい思いも強かった。
 ふたりは、ソファに並んで腰をおろしていた。
「明後日はどうだろう。来られるかい。泊まれるかな」
 美緒さんの左のうなじにそっと手首を添えた。耳朶の愛らしい肉の弾力を親指と中指の腹に感じながら、くちびるを重ねると、舌が踊った。彼女の息づかいが、じょじょに荒くなっていくのが腕に感じられた。それだけで幸せだった。私は節度をもって、先へは進まず、美緒をいつものように美術展図録『日本美術 名作の謎』に帰した。
 二日後、朝早く絢子は二泊の予定で自然観察会の研修に出かけた。私は動画配信で映画をレンタルした。午後早めに美緒がやって来た。
 私と美緒は、肩を並べて『曽根崎心中』を鑑賞した。途中、ポップコーンをつまみに緑茶を飲んだ。
 大坂蜆川の遊郭の遊女、お初と、醤油屋の手代、徳兵衛の恋の物語である。徳兵衛は、親友に金を貸すが、だまされ、返してもらえない。社会的信用も何もかも丸つぶれだ。「男の意地のため」死ぬことを決意する。お初も、恋する女の意地を貫くため、死を心に誓う。
「ふたりいっしょに、見事に、立派に、死んで、恋の手本になることじゃ」徳兵衛とお初は、心中へと追い込まれていく。
 美緒は、初め動画の素晴らしさに感動していたが、徳兵衛が誤解のため町衆に痛めつけられる当たりのシーンから、からだが震え、ときおりしゃくりあげるようになった。私の左手の指が彼女の二の腕の肉をつかんだ。硬めの真綿のようにここちよい。
「恋ってなんと残酷で、恐ろしいものなのだろう」彼女に聞こえるか聞こえないかの音量で呟いた。
 徳兵衛が小刀でお初の喉もとを刺す場面では、私も涙をこらえることができなかった。
 しかし一方で恋が、生きることのおどろおどろしい闇の情念として捉えられては、日々の生活にとって辛すぎるのではないか。そんなふうにも思えた。恋は、南国はのぞまぬ、晴天の折り隣近所の縁側もしくは窓辺に遠慮がちにできる陽だまり、猫もまどろむ小スペースが適所なのではないか。だが、不完全な人間のすること、時に常軌をいっした禍禍しい情念の火の海に身を投じるのも、人間ならではの弱さなのだろう。
 映画を見終えた時ふたりは、月も見えない曇天の夜空のした、近くの風の丘公園の小高い山のてっぺんで、立ったまま抱擁していた。腕のなかで美緒は、鼓動を速め、胸に灯った火をさらに大きく、熱くしようとするかのように私の身体にしがみついた。遠目から見たら、私たちは山の神に供えられた石塔のようだったろう。
 幻視は間もなくリアルの世界に溶けて消えた。
 美緒は、実際に起こった心中が瓦版に掲載されたのを読んだことがあるらしい。それだけに、身につまされる話題として心穏やかではいられないようだった。ときおり、片方の口角をあげ片目をつぶり、世の中を受け入れることに反発する意思表示を試みていた。
「気分はどう?」彼女の心に波をたてぬよう穏やかに訊いた。
「……康介さま。徳兵衛がお初に惚れたように、あなたもわたくしを、命をかけて恋してくださいますか」
 しまった。と、思ったときには遅かった。ふたり並んでソファに座り、肩を抱いていた。左手の中指と薬指が美緒の二の腕の肉を撫でている。愛撫する指先がふいに病による震えに変わった。恥ずかしさでこめかみが火照った。
 老い先短いこの命、元禄から来た女に捧げられるのか。舌先三寸、その場をしのいでも、
男と女の性の責任は後から追いかけてくる。むろん趣味や余暇で恋したわけではないが。
 美緒が私の目をみた。一瞬視線を合わせてすぐに外し、何ごともなかったかのように立ち上がった。庭に面した窓に近づいた。私も杖を突いて立ち上がり、そばに寄った。
「あなたは、卑怯よ」ガラスに映った顔を見て額にかかった髪をなおした。左の目尻がいくぶん吊り上がっていた。
「私は歳とった病気もちだ。浅瀬でなくては頭も働かない。深く考えることには向かない」
「自分をごまかして、他人と接していこうなんて、とんでもないわ。あなたは何も考えられないといいながら、周りの役割をちゃんとわかっている。その上で利用しているのです。相手には丸見え」
 私は観念した。江戸元禄の女がこれほど人間を見る目をもっているとは予想だにしていなかった。しかも、十六、七歳だという。過熱した頭をすこし冷ましたかった。
「少し外の空気でも吸おうか」と、いまの私にできうる限りの軽さをイメージして誘った。
「着るものはどうするの。この振袖じゃまずいのでしょ」
「ああ、飾り棚の横に風呂敷包がある。その中に、むかし、子どもが着ていたものがあるはずだ。絢子に頼んでおいたから」
 いまにも降ってきそうな曇り空である。大きめの傘を美緒に持たせ、近くの風の丘公園に向かった。

 私の歩幅は、ふつうの大人の三分の一ほどしかない。公園まで十五分かかった。美緒は、十メートル位先に行くと、止まり、振り返って私を待っていてくれた。着ていたのが、二十年も前のピンクのトレーナーとベージュの短いパンツだったから、見返り美人とは似ても似つかぬスタイルだった。しかし私への気づかいは、痛いほどうれしかった。
 黄昏が近づいていた。あたりには誰もいない。小さな山の頂に、私と彼女が抱き合って立っていた。先ほどはっきりと見た幻視の残像だろうか。首を振って映像を消した。私の動作を見ていたのか、美緒が近づいてきた。
「どうかしたのですか」と、正面から私を見つめた。
「どうにもしないよ」吹きだしてしまった。 
 可愛いけれど、しもぶくれの顔がピンクのトレーナーとまるで似合っていなかった。肩から前身頃にかけて大きなたたみ皺が目についた。ナフタリンの匂いが一瞬ただよい、すぐに風にさらわれていった。
「美緒があまりにキュートだったから、おかしくって。ごめんなさい」
「キュートって?」
「可愛いってことです」と私が口をとがらせると、彼女は舌先を口角あたりでのぞかせ、首をかしげた。
 つづいて吹いた生温かい風が、美緒の首をなで、私の喉をさすった。冷えてきたように感じられる夕暮れ、風のマフラーが私たちを結んだのだと思った。
「図らずも、世の中の地獄を見せつけられてしまいましたね」と、彼女を一人の大人として尊重する話し方をした。
「人の〝慾〟というのが、いちばん怖ろしいです」と答えた彼女の瞳が潤んでいる。怨みの涙だろうか。「盗賊、火つけ、人殺し……、なにをとってもお金が絡んでいるんですもの。いっとき、わたくしは、世のなかを呪って、何もかもが嫌になった時期もありました」
「大店のお嬢さんとして、蝶よ花よと、大切に育てられたんでしょうね。で、感覚も繊細になられて・・・…」
「実は、わたくし最近、長屋に住む、あるお上さんと親しくなりました。ご亭主は行商で」と美緒さんは、まるで幼子が大好きな菓子をよけいにもらった時のように、身体が自然に上下していた。「長屋のおかみさんたちの元気って、尋常じゃないのよ」
 歳は十八、乳飲み子を育てるのに忙しい三人家族。亭主は、野菜を天秤棒で担いで行商する俸手振。こんな庶民が月に二十日強働けばそこそこの生活ができたらしい。銭湯は毎日、週に一度は床屋に行ったという。
「わたくし、そんなお上さんたちのかいがいしい生き方に、心を動かされました。井戸端で亭主や子どもへの愚痴や不平不満を吐きだして、喜怒哀楽の釣り合いを保っているのです。女も男も、人に譲れない意地をもっています」
 美緒さんは、ジャングルジムの一番手前の青く塗られたポールをにぎり、頭を下げて一歩内側に入った。厚い雨雲に覆われた空に、首を差し出すようにさらし、天を仰いだ。
「ねえ、康介さま。わたくし何歳に見えます?」
 寒気が脊髄をずるずると下って行った。確か初対面の時に訊いているはずだ。ふたたび訊ねるなんて。きっと何かある、と踏んで、私は逃げることにした。
「もう、陽もほとんど落ちたね。君の美しい顔も、暗くてよく見えない……」と、目をしばたたいた。
「そう。あなたが悪いのではないわ。さ、帰りましょう」とジャングルジムから出てきた。
 帰り道、犬を散歩させる人に何人か出会った。犬が小便をすると、そそくさとペットボトルから水をかけ、その場を足早に去った。顔を盗み見ると、いちように暗紫色ののっぺらぼうだった。その瞬間「動揺した」という言葉さえ思いだせなかった。
 歩きながら美緒がしきりに目配せをしてくる。私は彼女の横にぴったり寄り添って歩いた。今はほとんどが散ってしまったが、先週まで黄色い花を咲かせていたモッコウバラのある場所まで来たときだった。ちょうど街灯の堅い光に愛嬌のある鼻が浮かびあがった。
「わたくし罰(ばち)が当たったのかも知れません」
「藪から棒に、どうかしましたか?」胸を刺す、針の痛みがあった。何かドジを踏んだか。額に手を当てようと思ったが、遠慮した。
「ほら、腕を見てください。こんなにかさかさ」
「だいぶ荒れてるねぇ。うちに帰ったら軟膏を塗ってあげるよ」
「いえ、そうでなくて……。折り入って、お話し申しあげたいことが……」
 街灯に照らされた彼女の手が目の前にあった。十六歳の手にしては、荒れすぎているのは一目瞭然。ところどころ一本の鰹節のような色合いの厚い皮膚が、手から腕、首に至るまで鎧のように張り付いていた。

 それ以後、美緒と私の距離を沈黙が支配した。
 家に帰る道すがらも、戻ってからも、軽口などもってのほかという意思を、私はもちろん美緒も抱いていたようだ。彼女には先に風呂に入ってもらい、私は、夕食の支度にかかった。冷凍の鯵の干物と、冷や奴、おしんこ、野菜サラダといったところである。客の好みに合わせるなど、思いもよらなかった。 
 湯上りの彼女には、冷えた日本酒をととのえ、私が入浴するのを待っていてもらうことにした。
 やっと私がテーブルに着くと、彼女は酌をしてくれた。目のまわりがほんのり桜色に染まっている。私がぐい呑みを干すと、美緒がこわばった口調で話しはじめた。
「ああ。わたくしの決断は間違っていたのでしょうか」と、しばらく目を閉じた。
 顎をあげるや、わたしの瞳をこちらが辛くなるほど見つめた。次の瞬間、浴衣の片袖をすばやく脱いだ。思わず顔をそむけ目を閉じた。脳裡に、白くつややかな脂の乗った胸、なまめかしい肩が、湯でほどよく温まり、艶っぽい女らしさが、白桃の彩りをつれて匂いたつ。
 ところが、目を開けると、現実は、空想とはまるで異なっていた。
「なんてことだ」思わず口を突いてでた。
 胸も肩も背中も皮膚は荒れはて、老い衰えて苦しそうでさえある。ひどい箇所では、石灰岩のように灰色になってしまっている。
「美緒さん、これはいったい、どういうわけなんだろう?」私の体の芯が震えはじめた。確かに、しみ、しわ、かさぶた、がさつきが、ひどい。湯舟にもかなり多くの皮膚のかすが浮いていたので、気になってはいたのだが。
「神様にご相談もして、考えました。たくさん考えました」と美緒は、ふきんを手にして、なみだをぬぐった。
 彼女の心は、混乱していたに違いない。目を吊り上げ懸命に話すのだが、文脈をなさない。彼女が言いたかったことは、私が理解できた限り、おおむね次のようなことだ。
「縁談をめぐって、にんげんの醜い部分をいやというほど見せつけられました。江戸元禄の世から逃げたい――ずっと考えていたことです。康介さまの恋心にあふれた視線をあびたからこそ、実行する決心がつきました。当時、美術品の裏社会には、取り決めがあったようです。

    《書画等内人物及物品所作置目》
絵画等に描かれし人物及び物品は、原則その特定の姿形を変化せしめること、まかりならぬ。
但し衆への公開がなされぬ場合は、一時的にその姿形を解き、休息するはお咎めなし。取調べ等お上からの呼び出しの類も例外とする。
なお、世間を騒がす大罪として死罪相当を科すのは、以下の事例なり。
 属する絵画、像、器等より脱出を図り、現在、未来の人間社会にて活動すること。その際、時間経過等による美術品の損傷等の変貌は、当該事件を起こすに何等か関与した者の責とする。

 わたくしが犯した罪は、時間の錯乱と言えるでしょう。なにせ、およそ三百年もの時間を超えて、平成の世に来てしまったのですから」
 美緒の話は、つっかえながら、思いだしながらで聞き取りにくかった。私は、耳に全神経を集中させ、拙いながら想像の翼をひろげ、どうにか意味をつかむことができた。彼女の鼻梁の両わきに、涙が細く流れていた。
 彼女の顔にむけた視線が、そのまま張り付いた。目が強い力で牽引し、外せない。思春期ならではの肌の質感や表情の綾に滲んでいた初々しさが、ささいな刺激でたちまち弾けとんでしまいそうだった。はじめての体験に対する、過度の好奇心と不安、その平衡感覚が保たれていれば、私は何一つ企むことなく未来に拍手を送る。しかし今、美緒の表情は、新しい体験への幻滅と怖れが絡み合い、皮膚が震えているではないか。高齢者がすべてそうとは断言できないが、美緒はただただ、老いのつらさに堪えているだけのように見えた。
 遠い過去の記憶がよみがえる。
 まだ小学校に入る前の頃、近所の女の子と遊ぶ機会が多かった。縄とび、おままごと、まりつき、そして男の子も交えて缶蹴り。ほとんどの遊びをやり終えると、舗装された道路に蝋石で絵を描いた。小と大のマルをたてに重ねて描き、つなげるとお多福顔ができあがる。下半分のマルを塗りつぶす。それから目と口を半円型に描きこんだ。
 笑っている顔を描いたつもりなのに、どうしても泣き顔になってしまう。口を「への字」に描くから笑い顔にならない。私が皆に責められて泣きだすと、目がかすんで、蝋石の絵も涙を流した後のお化けみたいな顔になる。塗りつぶした部分は、白濁し、ときに黄色味がかかる。石の粉がとても汚らしかった。美緒の顔はそれに似ている――。
 私は泣いた、心の中で歯がみしながら。胸のなかの女郎蜘蛛は姿を消している。体の小さい雄蜘蛛が手持無沙汰のようすで頭を下にして糸を揺らしている。雌はすでに美緒の胸に移動して、暴れはじめているのか。
「美緒の胸をしずめてください、康介さま」と、下唇を膨らませた。テーブルの上で私の拳骨を両方の手のひらで包んだ。
 初めてのベッドインのために室内も寝具も、多少はこざっぱりとしたいと考えていた。しかし、いざ、その時を迎えると、私の関心は、少し先の恐怖の予感に引きずられていた。毛布のうえに並んで横になった。心臓の鼓動がいくぶん早くなったようだ。でも、それは性の営みへの期待感からくるものではなかった。
 はじめに恐怖に堪えられず、ことばを声にすることに救いを求めたのは、美緒だった。
「ああ。わたくしは、元禄随一の町娘か、雄を食らう女郎蜘蛛なのか。いずれにしても老いて衰えていく・・…時間を超えて、惚れた、腫れたの、どこが悪い」
「何やらつらい二人だけれど、ともにこの世にあるうちは、同じ夢をみて、微笑むも良し、涙するも良し」
 右手が彼女の指に触れた。小指をそっと握った。全身が痙攣したように感じられ、深呼吸をして気分をいれかえた。
「美緒、きみは夜眠れない時とか、どうしてる?」と、私は棒読み口調でいった。
「そうね,ずうっとむかし子どものころ、仏壇をつくる工房を訪ねたのです。そこで、わたくしが見たものは、宝物の山。たくさんの金箔が引き出しに入っていて、仏壇の内壁や収納小箱に貼り付けられていきました。わくわくしました。あんなにきれいに輝くものなんて、あれ以後、お目にかかったことはありません」身体を私の肩のほうに向けかえた。「眠れない時、金箔一枚、金箔二枚、金箔三枚……。こんなふうにして眠ったわ。なつかしい・・・…」
「とてもいい思い出だね。人は、そうやって、ひとつずつ世界を理解していく。すてきな呪文があれば、怖ろしい未来だって逃げていくさ」
 美緒が脚で毛布を蹴りながら、ずりっずりっと身体を上にあげてきた。私の左肩に頭をあずけて言った。
「康介さま。あなたが怖れている、先の世のできごとは何でしょうか」
「もちろんパーキンソン病のことだよ」彼女の背の下に腕をいれて肩を抱いた。「今はそれほど辛いわけではないけど、これから症状が進行したり悪化すると、もっと難しい治療が必要になる。神さま次第ってやつさ。闘っていかなくっちゃ。好き嫌い言ってられない」
 私はこの日、美緒と契りを結ぼうと考えていた。絢子はすでに夫の婚姻外の性交渉は望むところだと宣言している。口先と心の襞に齟齬のないことを祈るばかりだ。
 美緒が絵の中の女であろうが、知り合ってから日が浅かろうが、私は彼女を愛していると自信を持って言える。真心を尽くし、丁寧に、やさしく愛撫に努めた。彼女も真剣に応えてくれた。
 だが、結果は、徒労と呼ぶしかない切なさのうちに幕を閉じた。
 室内を常夜灯よりも少し明るくした。美緒の薄茶色に荒れたうなじに、汗がふたすじ流れていた。私は舌でそっとすくってから、潤いを欠いた皮膚に唇をつけたまま「ありがとう」と囁いた。彼女は、人差し指をしゃぶり、唾液で私の肩甲骨に「ありがとう」と印した。つづいて細く開いた唇から「わ、た、く、し、も」と音がもれ、肌に意味を刻んだ。
 美緒の誇りのためにも話しておこう。彼女の荒れてなお艶めかしい身体に、生殖のための器官は用意されていなかった。その経過や意味を知ろうとしても虚しいだろうと勝手に思い込んだ。飾り気のない事実として受け入れるしかないと覚悟した。
「話しづらいことを言わなくちゃならないね」
「…………」彼女の胸の鼓動が聞こえた。やけにこもった音だったが、とくに気になる変容は感じられなかった。
「男と女の交わる部分が、ふさがっている。前からなのかい」と、彼女の裸の肩を掌でさすった。
 次の瞬間、ベッドをきしませて美緒が上半身を起こした。
「うそよ、うそよ! とんでもないわ。康介さま、こんなこと初めてよ。助けてください」
声が震えている、かすれている。「あっ、皮膚がたるんで蓋になっている」
 美緒は理性を失ったかのように見えた。胸をはだけたまま、自らの手で股間をまさぐっ
て確かめた。
「時間錯乱の罪の罰かも知れない。それにしても酷すぎやしないかしら。康介さま、ごめんなさい。赦してちょうだい」
 美緒が髪をかき乱した。長い黒髪が踊るように揺れた。
 しばらくの間、ふたりは身動きしなかった。美緒がまどろみから覚めたように目を開けた。
「で、康介さまは夜眠れない時、どうなさっているの」もうたずねても意味のないことのようにも思えた。
 私は大きなため息をついてから答えた。
「十年ほどまえから里山を歩いて野草を観察したり、写真に撮ったりしていた。そのうち自分の好きな野草が出来てくる、それを呟き続けるんだ。なんかお経みたいだけれど、効果は結構あるみたいだよ」
「実際にやってみてもらえませんか」
 私の唇の下方に彼女の額の生え際があった。そこへ向けて遠い昔を懐かしむように、野の花、野草の名前を連呼し始めた。彼女のために子守唄を歌うように。
「春は、タチツボスミレ、ブタナ、オニタビラコ、ハハコグサ、ハルジオン、距という小さなしっぽにまたがれば燕になって飛んでいく、セリバヒエンソウ」
「夏は、ヤブガラシ、ヘラオオバコ、ホタルブクロ、地下でつながるドクダミどこまでが家族かな、ヒルザキツキミソウ月に負けずに美しく」
「秋冬は、ヌスビトハギ、クズ、ミズヒキ、チカラシバ、小花を泡立つようにあつめて大ぶりの綺麗を支える、セイタカアワダチソウ」

 その夜、私たちは、閨をともにすることはなかった。
 美緒は幾重もの失意を身にまとい、八十歳といっても違和感のない、痩せてしなびた身体を引きずるように元禄江戸へ旅立った。
 図録のなかの『見返り美人図』は総金地の背景だけが印刷されていた。二十センチほどに小さくなった美緒が近づくと、帯の結び目が描かれるあたりが横に五センチほど音もなく切り裂かれた。うつくしい切り口だが、刃物は見当たらない。美緒は切り口の上方に尻餅をつくと、蝋石色のひび割れた踵を印刷紙の切れ目に上手に差し入れた。
 さらに腰を左右に動かしながら図録の頁にじょじょに入っていった。月明かりに照らされた底なし沼にひきずりこまれる人を彷彿とさせた。身体が紙の中に収まると、いったん膨らむが、すぐに平坦に戻る。同時に印刷が美しく復元されている。顎のあたりまで紙のなかに収まったとき、彼女は「はっ」と小さく叫び、目を円くした。そして、耳を澄ましてやっと聞こえるほどの声でささやいた。
「ごめんなさい。本当は、わたくし、絢子さまにお願いされたのです。康介さまに愛される女になってください、と」
 私の髪の毛の先から足の指先までが、一瞬にしてがらんどうになり、凍りついた。夢でない、とだけ意識できた。
「美緒、待ってくれ。もっと詳しく聞かせてくれ」と思わず美緒の小さな顔に触れた。
「それはかなわぬ願い。今日のわたくしのお出かけは、これで打ち止め。書物のなかで脚を強く引く者がいます」と美緒は、鼻をリスのように歪ませ、眉間のしわでつらさを訴える。流行の髪形「吹き前髪」が紙のなかに消えると、紙の切れ目はすーっと閉じ、切れた痕を残さなかった。

 数日後の深夜。強い尿意に追い立てられ、目が覚めた。
あたりは暗い。私は確かに自分のベッドで眠った。ここは私の部屋以外ではない、と確たる信念を腹に、全身に覆いかぶさる闇をぼんやり見た。膀胱は歯をくいしばって耐えている。すると、暗黒の底から立ちあがってくるものがある。脳内がいかれたのか。闇の中、網膜に映し出されたのは、螺旋階段の途中の居住空間であり、加えて「バベルの塔」とか「紫禁城角楼」のような、美しい外観が二重写しに聳えている。これらは私が密かに望みつつ叶わなかった「むなしい高み」を象徴しているのだろうか。
 トイレにいかねばならない、漏れそうだ。
 エアコンのタイマーは切れていたが、まだほんのりと温い。右手でベッドの端を確かめた。腰をかがめ、つかまりながら後ろに回り込めば、トイレに通じるドアがあるはずだ。
 身も心も支配しようとする脳神経の疾患は、当たり前の立ち姿を許してくれない。前かがみ、前のめり、そして左右によろめいて。罰を課してくるようでさえある。畢竟、杖がかかせない。自分でも意識しないうちに、罪を重ねてきたのだろうか。
 真っ暗闇では杖は使えないから、伝い歩きとなる。だんだん目が慣れてきた時、ベッドの角を曲がりきる手前で、見たこともない扉が出現した。アカンサスの葉と蔓を文様化したアンティーク調の扉だ。迷いなく手前に開けた。だいぶ明るい。裸足のまま狭い部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。一畳の押入のようだ。
 目の前の白っぽい壁にうつくしい縦皺がより、波のようにうねりはじめた。そのうち、粘土みたいに身をくねらせ、膨らみだした。ピチ、ぺチと、カップスープをかき混ぜるスプーンと似た音が聞こえる。〈ひとのかたち〉がより鮮明になってきた。背は低く、一五〇センチほどの女性か。
「康ちゃん、お願いがあるのよ」
 聞き覚えのある、よわよわしい声、母さんの澄んだ声だ。でも、本当にそうなのか。自信はない。デスマスクみたいに浮き上がっている顏は、母さんとは似ても似つかない。
「こんなところで、どうしたっていうんだよ」  
 私は状況がよく把握できなかった。それでいてあせってもいない、不思議な心と体の交差する感覚だった。
 母さんと思われる半立体像は、私の思いに気づいた風もなく、こう話した。
「絢子さんに逢ったら、伝えといておくれ。あんたはもう鬼籍に入った人間なんだよ。お骨もこの寺院墓地の納骨室に入っている。ふらふらしてないで、たまには、戻っておいでって。・・・…私が病院で亡くなった時、絢子さんは本当によくやってくれたのにねぇ」
 言葉は淀んだ空気に溶けていき、半立体像は壁の内側にとろけていった。
「あっ」とも「ほっ」とも聞こえる音が、咽喉から零れ落ちた。まぎれもなく私の部屋がそこにあった。明るくなったわけではない。夜中の住宅街の明るさを、遮光カーテンがさえぎっている。それだけのことだ。薄闇よりも心もち深い闇である。それでも、ベッドから机、書棚まで、それぞれの輪郭の濃淡が立ちあがっている。自分の部屋なのだから、当然といえば当然ではあるのだが。
 絢子は鬼籍に入った人間だ――ことばが靄か霧のようなものに包まれて、頭の中で渦を巻いていた。
 私は慣れた順路でトイレに入り、洋式便器に腰をおろし小便をした。そして、ふたたび布団にもぐりこみ、浅い眠りに落ちていった。
 
 小一時間も経っただろうか、再び目が覚めた。手すりにつかまり、ゆっくり階下へ降りていった。まぶたの裏で公孫樹の黄色い葉が風に流された。リビングルームで絢子がパソコンに向かっていた。
「どこへいってたんだ、一週間も」 
「研修旅行って言ってあるはずよ。それより、あなた。あれはどうしたの? 梅雨はとっくに明けたわよ」
 忘れてはいない。夫婦関係をしっかりと解消させることを約束した。あれから二週間も経ったのか。日常の生活時間の脚は、記憶の蓄積スピードよりも速いらしい。二階の絢子の部屋から、聞こえるはずもないのに、風に煽られる公孫樹の枝や葉のなぶられるような呻きが低く響いてくる。
 ふと視線をはずした間に絢子は消えた。
 彼女には、ぜひ訊ねておかねばならないことがある。
 二階に上がり、彼女の部屋のドアを押した。風のせいか、すこし押し戻された。室内はまるで夕立だった。公孫樹の扇形をした黄葉は、そこに立つ人をただ苛つかせようとするためだけに降っているみたいだった。葉擦れの音が耳にいたい。ギンナン特有の臭さはないが、葉が熟した緑の濃い香りが息苦しかった。私はたちまち全身を黄色い枯葉で簀巻きにされた。いつの間に上がってきたのか。窓際の簡易ベッドの上に絢子が横たわっている。
 妙な芝居は止めようじゃないか――怒鳴りたい気もちだった。だが大声は出ず、呟きがしたたった。
「おれが悪かった。離婚届は責任もって用意するよ」
「あら、ひっかかっちゃったわね。康介もお人好しよ。悪人にはなれっこない」布団の上で正座をした絢子が言った。「私はとっくにあの世の人間。死んでしまった人間と、結婚も離婚もできっこないわ」
「しかし、君はそれを隠していた」それ以上の言葉は腹にとどめた。
 はらり、はらり……。公孫樹の黄葉が頭や肩、腿、布団や床にたえ間なく降ってくる。すでに掌の厚さほどに重なり積もっている。葉は一枚いちまい切れ込みや色の付き方が異なっていて、生き方にこだわりが感じられ、微笑ましかった。急に風が強くなり、縦横に吹き、渦まいて舞いあがり、黄一色の吹雪の様相となった。
 次の瞬間、私はあざやかに記憶をとり戻した。目に力が入った。
「康介。目がメジロになってるわよ。よく見ると、けっこうかわいいね」
「こんな時に、おちょくらないでくれ」吐きすてるように言った。
 黄葉のイメージは、まぎれもなく昨年師走二日、絢子が飲酒運転の乗用車に轢かれ、運び込まれた救命救急病院での光景ではないか。
 連絡を受けて駆けつけた私は、救命治療室に隣接した廊下で『手術中』と表示された赤い電光表示板を眉間が痛くなるほど見つめ、手術の成功を祈っていた。
 治療室と逆の壁の向こうには、公孫樹の並木があった。
 「十二月二日午前七時三十八分、佐山絢子さん、ご臨終です」
 生の消滅を宣言する言葉が耳を震わせた。恐いというより、記憶の底に淀む、ひんやりとした羞恥の感覚に近かった。アコーディオンカーテンのいく列もの隙間から、舞いあがり降りそそぐ公孫樹の黄葉が何千枚も顔を覗かせていた。まるで市民マラソンのスタート時、選手たちの決意と高揚がスターターピストルの合図とともに、いっせいに飛びだすように、建物のなかへ黄色い扇形の枯葉の濁流が流れ込んだ。
 妄想なら、幻覚なら、みんな消えてしまえ。
 
 忸怩たる思いのなかで、私は精神の弱さを糾弾した。妻を愛していたからこそ、心の傷は深く、一時的な記憶の喪失を招いたのだろうか。
 しばらくして絢子が立ちあがったので、すかさず声をかけた。
「君は、美緒に〝康介の恋人になってあげて〟と頼んだそうじゃないか。一体どういうつもりなんだ」
 私は、絢子の顔をまともには見られなかった。暮らしの面倒をすべて見てもらい、女まで世話してもらっていたとなれば、男の、いや人間としての矜持などどこへやら、顔に赤面とか鉄面皮でも貼り付けないことには街を歩くことさえできない。
「あら、そのお話。みんな、愛する旦那様のためよ」
 自信たっぷりの蓮っ葉な口調が小憎らしかった。
「『見返り美人図』なんて名画と君が関係しているってこと自体、ふしぎな事件じゃないか」
「きちっと話すから、仏壇の前で待っていて」
 低価格の建売住宅に備わった五・七畳の和室は、いつの間にか物置として重宝している。
その一角にだいぶ古くなった仏壇がひっそりと佇む。香炉、花立、燭台といった仏具もそろっている。残念ながら、清掃、手入れが行き届いていない。おりんの黄金が黒ずみ、あたりに侘しさを漂わせる。
 父と母ふたりの戒名が並ぶ幅の広い位牌。隣のもう一基が絢子のものだ。
「自然絢照信女」声に出さず戒名を読んだ。
 絢子がふすまを開けて、和室に入ってきた。
「お待たせ。さっ、何から話しましょうか」
「〝愛する旦那様〟という言い方は、亭主関白にも友達夫婦にもなれなかった僕に対する当てつけかい」
「あら、絶好調ね。ずいぶん、勘がよくなったこと」と絢子は、涼しげな表情を崩さずに言った。
「まあ僕なりに一所懸命やったんだけれど、ね」と私なりにはぐらかしてみたものの、絢子の返答はそっけない。
「人間何ごとも結果よ。分かっているわよね」
「美緒を巻きこんで、私に恋人を作らせる大芝居をうったのは、どんな魂胆があったの?」
「初めにお断りしておくけれど、美緒さんはあなたと知り合って二回目には、本気で恋したのよ」横座りの姿勢で畳の目を見つめていた絢子が、仏壇に視線を向けた。「彼女と出会ったのは本当に偶然だったの」
「ラッキーな偶然もたまにはあるもんな」こんどは呆れてみせた。
「天上で私は道に迷ってしまって。やっと《三途の川》にたどり着いた時、集中豪雨で川は氾濫、橋は決壊していて、三つある渡し場のうち《参場》だけが、二時間後くらいには流れも落ち着いて渡れるだろうということだった。わたしは待つことにしたの。なんせ四十年もの間、人生のとても大切なものを待ち続けたのだもの。慣れているわ。待合室は、川の氾濫が静まるのを待つ人々でごった返していた。頭の中には〝これだからあの世に行くのは嫌なのよ。めんどくさいし体も心もくたくた〟なんて愚痴でいっぱい。ここでわたしは冗談を言います。〝康介、助けてぇ〟と」
「前置つきのジョークですか。それこそ、冗談もいい加減にしてほしいな」
 私たちは、いったい何をしているのだろう。若かった日の二人の思いが寄り添ったり、磁石の同極同士いきなり反発しあったり。しかし、いま求められているのは「絢子から美緒へ」愛の行き先を変更すること。あ、目頭が熱い。
 絢子は、心もち顎をあげて目を閉じた。待合室にうごめく大勢の人、小降りになったが、永遠に続きそうな雨の音、雨に濡れた暗い色の衣服などの一部始終を思いだそうとしたらしい。
「待合室はだいぶ広かったけれど、ふるいにかけるまでもなく、隅の方にいた美緒さんの姿は、いちばんに目に飛び込んできたわ。燃えるような緋色の綸子の振り袖姿は、ひと月
前に美術展で観たばかりだもの、忘れようがなかったし。二時間の待ち時間を、見返り美人と過ごせると思うと、わくわくしたわ。〝すみません、すみません〟と頭をさげながら、待ち人たちが作った列のわきを進んだ」
《三途の川》の渡し場《参場》の待合室は広いだけでなく、人が整然と並んで待つことのできる設備が整っていたという。絢子は、三列目を回ったとき〝わたしは雌鶏、ここは養鶏場〟と天の声を聞いた。「卵を産むだけの一生も、捨てたものでもないかも」ふと、そんな気もした。
 しかし、決められた自分のスペースから一歩も動けず、誰もが同じ目的のためだけに、じっと待っている。これは生き物のあり方ではない。産卵機と化した鶏に希望も絶望もないように、《三途の川》が渡れるようになるのを待つ死者も同じだと絢子は思ったようだ。さらに、此岸での豪雨災害による死者が、次々にやってくる。せつないが、堪えなければならない人間の宿命だと自らを納得させた。
「美緒さんの隣に席を見つけて瞳を見たの。安心したわ。まだまだ希望の潤いが残っている。世界がたとえどんな状況になっても、生き物が「いっしょに生きる」ことの大切さを世の中に発信できる人だと思えたわ。特に〝わたくしは自分の運命ほど怨んだものはありません〟という真っすぐな言葉が、運命から少しでも遠ざかりたい気もちが伝わってきて好ましかった。嫁入りに適した歳の今が、生き方を変えるチャンスだというのも説得力があったわ。わたしはひらめいて〝平成の世にあなたをトランスポートします。そのかわり、あなたに恋している康介の気もちを受け入れてあげて〟と条件を出した。康介の生き方まで変える絶好のチャンスだと思ったの。苦労したわよ、いろいろと」
「いやはや。僕は、すっかり君の掌のうえで踊らされていたってわけだ」
「かえって良かったのよ。あなたは恋に悶々とし、愛のときめきを復活させた。観ていて四十年前を思い出しちゃった。惚れ直したわよ。もちろん嘘だけど」
 絢子の会話には、生きている人間誰もがもつ人肌の熱が欠けているようにも思われた。
「ところで、美緒さんはどうして《三途の川》などに出向いたんだろう」心に引っかかっていた疑問を尋ねた。
「彼女は、運命に逆らって、絵画の世界をぬけでた。当時、絵画に描かれた人物が逃げ出す事件が相次いだらしくて。お上はなぜか、その手の罪人や容疑者を、まず冥界に送りこみ取調を行なった後、この世にもどし、判決など次の処理を行なうというややこしい方法を採用したらしいの。美緒さんがあの世行きの舟を待っていたのは、そんなわけがあったのよ」
「ふーん。絵画の中で生きる登場人物は、この世では死者として位置づけられたのか、当時は」どこか釈然としない思いも残ったが、日々悩まされている残尿感に似て、いま重箱の隅をつつくような真似をしても、対処療法でしかないだろう。根本的解決には至らないだろうと思われ、深追いはしなかった。
 この世の人ではないらしい絢子の、嘘か真かわからぬ話を、頷きながら神妙な眼差しで聞いていた。仏壇に置かれたおりんが高く澄んだ悲鳴をあげた。「来たわ。聞こえる」と絢子が首筋を震わせた。「おかあさまから。お叱りのメッセージよ、きっと」
 しばらく前から絢子は喋りながらじぃっと仏壇を見つめていた。母さんと連絡をとっていたのだろうか。しかし、先方からの音声は聞こえない。絢子の耳、あるいは脳にだけ届いているのか。
「はい、お母さん、わかりました。康介さんをおもちゃには致しません。お墓にも頻繁に戻るようにいたします」どういう仕組みかわからないが、絢子は仏壇に向かって緊張気味に話しながら頭を何度も下げている。
 そのうち彼女は口を閉じ、正座をして俯いた。神妙に頷いている。母さんのお小言を聞かされているのだろう。
 十分くらい経ったろうか、彼女は脚を伸ばし、仏壇に背を向けると、
「自分のお骨を収めた場所が永遠の場所だというけど、今どき、嫁いだ先のお墓に入る女なんているのかしら。私、樹木葬でよかったのになぁ」
と、すっかり普段着の物言いになっている。
 絢子の言葉には本音が滲んでいると思った。慣例に則った埋葬方式を選んだ私への不満も込められているに違いなかった。

 おかげで、朝の空をおおう屈託のない水色を映して、こちらの気分もさやかだった。
 朝刊を開くと、一瞬にして咽喉が凍てついた。
 
   見返り美人、老衰死か?
  
  29日午後2時30分ごろ、東京国立博物館で
  収蔵物定期点検の際、菱川師宣筆『見返り美人図』
  の身体が異常にやせ細り、肌や着物の色合いも
  ひどく劣化しているのが発見された。専門家でないと
  難しい高度な修復技術が悪用されたものと推定。
  警視庁では犯行の実態究明と捜査を急ぐ。
          
 この記事が表紙になるように分厚い新聞を畳みなおし、テーブルに置いた。玄関で杖を握ったが、一瞬迷い、傘立てに戻した。軽く腰を伸ばしてからドアを開け、いつものコースを散歩にでた。
 おびただしい数の扇形をした黄葉が、思い思いに舞いながら降ってくる。そのなかを杖もつかず、揺れながら一歩いっぽ跛行していく。葉の流れのかなたに、緋色の振袖の女がときおり現れた。振り返るが、こちらに気づくふうもなく足早に横断歩道を渡り、消えてしまう。視線は目標を見失いさみしい限りだが、逃げるように去った女が美緒であることだけでも確かめたかった。追いかけようとしたが、脚はすくんで動かない。
 葉擦れの音に交じり、女たちのあっけらかんとした笑い声が、背後から追いかけてきた。
                                    (了)

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