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小説 メディカル・ファイナンス~「病気でお金をお貸しします」と女は言った。前代未聞のマネーライフが始まる!

 病院からの帰り、最寄りの駅まで杖をついて歩いていると、淡いグリーンのジャケットを着こなした大柄の女に声をかけられた。
 そこは神田川にかかった橋の上で、汚水の臭いがわずかにしたが、すぅと化粧のあまい香りに変わった。疲れた身体に梅雨冷がいっそう深く感じられた。
「松崎さま、恐縮ですが、ちょっとよろしいでしょうか。たいへんお役にたつお話でございます」
 女は慣れた手つきで二の腕をささえると、せわしなく改札とは異なる方向へ歩いた。駅前商店街の端にあるカフェに有無をいわせず入った。テーブルをはさんで向き合い、はじめて女の顔を見た。美人といって差しつかえない華やぎをもっている。たおやかでありながら、りりしい。
「申し訳ございません。わたくしは、財団法人セブン・メディカルの原口彩香と申します。東先生からご紹介いただきました。……突然ですが松崎さまは、ご自身のご病気をわたくしども
に〈質入れ〉なさるおつもりはございませんか」
しばらく時間が止まった。彼女が何を言いたいのかまるで理解できなかった。女は、私の度をこえた間抜け顔に呆れたのか、咳ばらいをひとつしてから話をつづけた。
「わたくしどもは医療専門の質屋でございます。もちろんお金はご用立ていたします。わたくしどもが病気を担保にお金をお貸しできるのは、金銭を支払ってまで病気を必要とする方または企業や団体が存在するからです」
 女は上目遣いにこちらを見て唇を尖らせた。バッグから取りだしたタブレットを操作し、「こちらが概要です、ご覧ください」とテーブルに置いた。
 ――セブン・メディカルの直接の顧客は、医療関連研究機関、大学(研究部門・附属病院)、公的・民間総合病院が三本柱です。これらの機関が直接、病気(Sick Wear)を貸し出す(レンタルする)先は、二つのタイプに分かれます。
 Aタイプは低所得者自分の身体を病気が冒すスペースとして、金銭と交換に貸し出す極めて高いリスクを負う人たち。国家機密事業であるため、治療は無償となります。ただし、かなり危険度の高い医療実験も拒むことはできません。人生に絶望している人が多い。
 対してBタイプは高額所得者、ビップな方々です。例えば、国家事業の贈収賄などの事件が発生し、その渦中にいる政治家もしくは高級官僚などが国会喚問に応じなければならないとします。そんなとき役立つのが急病の発症や緊急入院です。仮に〝過敏性大腸症候群〟だとして、
自己病であろうが他人病であろうが、実際に身体に病気が巣食っていれば、当該人物お抱えの
医師に限らず、世界中のどの医師が診察しても、事実として病に冒されているのであり、どこからも糾弾されはしません。
 なお、AB両タイプとも、研究機関・大学とエンドユーザーとのコーディネート業務はセブン・メディカルが代行いたします。根本的に異なるのは金銭の流れです。Aはお金を借りられますが、Bは代金を支払わなくてはなりません。
 ことが国家特殊重要機密に属するだけに漏洩には最大限の注意が払われています――。タブレットの液晶画面からはこのような信じがたい内容が読み取れた。
 ブルーライトのせいか眼の奥が線香花火が弾けるように痛んだ。女はその様子を見定め、長いつけ睫毛の眼をしばたたかせた。
「みんな医学の進歩、発展のためよ。動物実験、人体実験、医学の世界だって競争社会、誰よりも早く新たな治療法を完成したもの勝ちです。Medical Marketing Strategy(医療統括市場戦略)でも、やっぱりアメリカ、ロシア、中国が主導権争いを繰り広げているわ」
 口腔にたまった唾液を飲みこんだ。脳内の神経が風に吹かれ迷走を始めたみたいだ。目の前に差しだされた現実の善悪の判断もできそうになかった。病気が身体から抜けさえすれば、自由になれる、一瞬の快楽が手に入る、とだけ考えられた。もちろん、融資限度額百万円というのも魅力だった。
「新薬をつくるときには、ちゃんと治験があるのでしょう? だいいち、自分の命を売ってる
ようなものでしょ、これじゃ」
 女の左の小鼻がぴくっと膨らんだ。
「ご存じよねぇ、日本でも戦後長いこと、自分の血をお金に換えて生活していた貧しい人たちがいました。売血が大手を振って行われていたのです」
 私はただ茫然として女の黒くつややかな睫毛を見つめるばかりだった。腹の底に肝心要の
疑問『肉体のなかからパーキンソン病の病だけを抜き取ることが可能なのか?』がとぐろを巻いているのを意識しながら。敬愛する東誠一郎先生は脳神経内科の名医だが、S大学附属病院には外科の優秀な医師も多いと聞く。何の心配もない。
 いずれにしても私は、人生の歓びを奪う病気から自由になれる、大金が手に入る、この二点によって結論を出した。
 
 一週間後、私はwebでセブン・メディカルへの会員登録を済ませた。一時間もしないうちに登録承認とお礼のメールが届いた。そして〈病摘出手術〉の日程が二〇二一年八月十五日に決定したと伝えてきた。肋骨の内側を虫でも這うような不安を覚えたが、腹をくくるしかなかった。手術日が終戦記念日と重なったのは単なる偶然だと思うことにした。
 当日、彩香さんは真っ赤なマツダCX-5を駆って私のおんぼろマンションに迎えに現れた。頬を紅潮させ、小鼻をわずかに膨張させて。
 快調に飛ばし中央自動車道に入ると、アイマスクを付けさせられた。ついた場所は八王子の山の方らしい。
 彩香さんに腕を支えられ、しばらく歩いた。
「契約室ナンバー6、原口彩香」
 彼女のヴォイス・キーで三つのドアを開け、さらに奥へ入った。アイマスクを外され、まわりの情景がいっきょに広がった。楕円球体のドーム空間は巨大な熱帯植物園だった。しかも、よく見ると内側にはサイコロ状の六面が透明な立方体の部屋がいくつもある。一辺の長さはおよそ二十メートル、ドーム全体の大きさは見当もつかない。
「ずいぶん個性的な建物ですね」
 彩香さんのほうは見ずに呟くように言った。そこへ
「ここは先代の理事長のいわば生と死のクリエイティブなんだよ」
と聞き覚えのあるだみ声がひびいた。振りかえると東誠一郎先生の診察室では見たことのない笑顔があった。おまけに真っ赤なハイビスカスをデザイン化したアロハシャツなんか着こみ、おしゃれである。
「建物の話は手術が済んでからの話さ。まずは全身麻酔一八時間、注射」
「東先生、眠る前に一つだけ質問させてください。身体から病気のみを摘出するテクノロジーとは、いったいどんなものですか?」
 聞いても理解できないだろうとは思ったが、古希を迎えても、なお好奇心はむずむずしていた。
「うーん。コンピューターで生命を設計し、それに基づいて現実に生命を創ってしまうのが合成生物学です。単純にいえば、これを逆工程で進行させ、風力をかけることで病気を分離します。松崎さん、僕を信じなさい」
 予備室で看護師の手によって全身の体毛が気もちの悪いくらいなめらかに剃りあげられ、さらにていねいに清拭された。手術室中央のベッドにあおむけに横たわった。頭が枕に乗ると、脳裡で記憶のドライブレコーダーがプレイバックしはじめた。
 ――自分でも信じられなかった。優柔不断を絵に描いたような男である私が人生の一大事を悩みもせず喚きもせず決断できたことが不思議でならなかった。パーキンソン病という厄介な疾患を背負って六年。月一回の診察のたびに、手足の震え、筋肉のこわばりに加え、ふらつきから始まり、やれ頻尿だ、便秘だ、やれ腰が痛いだのと、こらえ性もなく訴える。それでいて薬を増やすタイミングは極力遅くしてほしいと、わがままを通す。
 日々の生活でも、服を着るのも、風呂に入るのも面倒だしひっくり返りそうで怖い。
「パーキンソン病は『死に至らない病』だから絶望してはダメ。じっくり治療しましょう」というのが東先生の十八番(おはこ)だけれど。自由がやっぱり欲しい。
 私の全身は隅から隅までCTスキャンされ、立体設計図ができあがる。それを現実の肉体に重ね、レーザー光線と超微細風力のハイブリッドメスを駆使して、病巣を剥離していく。健康な筋肉や血管を傷つけてはならない。外科医の力量が問われる。
 点滴によって麻酔薬が注入された。眠りの階段を下りていく、1,2,3,4……。
 十六時間後、私の意識はゆっくりと目覚めた。まだ身体のあちこちは夢の露天風呂にでも浸かっているらしい。
 東先生が白衣に着替えてやってきて、
「〈質入れ〉のための〈病摘出手術〉は大成功だ。あなたはもう文句なしの健康人だよ。外科の先生にもちゃんとアシストしていただいたから、ご心配なく」
と親指を立て人懐っこさそうに笑った。
 
『健康身体復活・社会復帰順応トレーニング』という長ったらしい名称の二週間入院が始まった。
 最初の二日間は安静のためベッドから出るのを禁じられた。三日目の朝六時、目覚ましのブザーが鳴るかならないかのうちに、ベッドから飛び起きた。この瞬間、自分は生まれ変わったのだと悟った。病気にかかる六年前のように、気もちよく目覚め、ふらつきもせず朝の空気で胸中の汚れも苛立ちも吹き飛ばしてしまう――そんな誰もが経験するありきたりの心地よさとは天と地ほども差があるのだ。
 透明な立方体の向こうには、南の島の生命の息吹あふれる植物たちの深いグリーンや目を刺すイエロー、燃えさかるレッド――不喰(ふくい)芋(いも)、蘇鉄、ハマナタマメ、アダンの実や葉が天空をめざし繁っている。
 両腕を天に突きだすように伸びをし、肩甲骨を回転させる。身体の細部にまで潤滑油がいきとどいていて気もちいい。
『Aia(エアー)』をタッチすると換気口から、潮の香りを含んだ温かな風が流れてきた。
 八王子にいるなんてとても思えない。どこか南の島に旅しているみたいだ。食事は三食ともハムや肉を添えたサラダが中心となる。グアバなどのジュースも選ぶことができ、南国気分がより高まる。
 午前中の二時間はリハビリに取り組む。理学療法士がパーキンソン病が抜けた後の身体を、専門家の視点からケアしてくれた。体重は6キロやせた。身体全体として十歳は若返った気がする。昔ほどではないが、うまい酒が呑めるようにもなってきた。かえって難病にかかる前によくあった胃の痛みが復活して弱っている。
 規則正しい生活、患者同士のコミュニケーションなど、細やかな配慮もなされている。なかでも『楽園』と名づけられた空間は、こころとからだを癒す最上級の施設だった。病気から自由になった人たちから「いちばんしたいことは何?」とアンケート調査した結果にもとづいて作られているので利用者の欲求を満たしてくれる。
 1位は恋愛、2位は旅行、3位がスポーツ、4位がグルメ、5位は趣味。2位だけ、女性は孫など家族とのコミュニケーションを深める、となっている。それぞれを楽しませてくれるスタッフ・機能を揃えている。無趣味な野暮天の私は、恋愛と旅行を選んだ。
 ドーム内の天空にあるにある『Di(ディーアイ)・BAR(バー)』(出愛バー)には、幾度か足を運んだ。男も女も、みな病み上がりである。目的はひとつだから、欲望を満たすには手っ取り早い。しかし、恋の駆け引きというものが楽しめないから、心は欲求不満に陥りがちだ。乳がんを摘出した四十二歳のご婦人がくしくも言ったように
「楽しい時間は過ごせたけれど、決して好きにはなれないわね」
というのが誰もが抱く本音のようだ。むろん愛も生まれない。
 ところが、ある日この本音をうち砕くような“恋のさや当て”を実践するはめになった。午後、スケッチブックと色鉛筆をもって熱帯植物園を散歩した。奄美の自然といえば、南の琳派・田中一村があまりに有名だ。下手の横好き、私もいたずら心で深い緑をこの手で描いてみたくなったのだ。枇榔(びろう)の木と風にそよぐ葉を軽いタッチで描いた。
 午後三時から開いている『Di・BAR』に立ち寄った。カウンターでバーボンの水割りを飲んだ。ピスタチオナッツをつまみながら先ほど描いたスケッチを眺めて悦に入って
いた。その時、後ろを通りがかった女性がふらついて危うく倒れそうになった。私が胴を
支えた。スケッチブックが手元を離れ、カウンター上を滑った。
「あっ、すみません。」
「大丈夫ですか。どうなさいました?」
 女性はカウンターに手をついて姿勢を正すと、スケッチブックをじっと見つめた。
「とてもすてき」
「とんでもない。お恥ずかしい」
「申し訳ございません。わたくし、高野奈菜と申します。絵をちょっと拝見させていただいてよろしいでしょうか」
 スポットライトが設置されたテーブルに席を移動し、あらためてブックをみせた。奈菜さんは四日前に急性骨髄性白血病の摘出手術を行った患者であった。四十代半ばに見える。ぽっちゃりとした丸顔が若々しい。
「ここは奄美大島の植物園ですってね。きれいに描けているわね」
「奄美には田中一村という画家がいます。私、ファンでしてね。スケッチは別に真似していないです。あっさりと描いています」
「田中一村ならわたくしも名前くらい知っています。でも、あなたの絵もかろやかで」
「私、松崎秀和といいます、よろしくお願いします。パーキンソン病を質入れしました」
「来月、高校卒業三十周年記念で、むかし上演した『シンデレラ』を当時の配役のまま再演することになりまして。わたくし主人公なのですが、白血病の症状があまりに激しくて練習もできなくて、仕方なく」
 奈菜さんの症状は、息切れや動悸、倦怠感から始まって、腹部の張り、痛み、頭痛、腰痛、関節痛と全身に及んでいたらしい。それに較べれば、私の〈病質入れ〉は彼女ほど切羽詰まっていなかったので口を濁した。
 私たちはすっかり意気投合した。カシスオレンジを口に運ぶ中年のシンデレラもドキドキするほど素敵だった。
 しかし、ここからが厄介だった。林琢磨と名乗る六十歳そこそこの小太りの男が登場したのである。タクシー会社の常務取締役を務めているらしいが、ずいぶんと横柄な物言いをする男だ。
「高野さん、わしと待ち合わせたわけだろうに。何しとるんじゃ」
「昨日、そこまで明確にお話してはいませんわ」
「何だ、その絵は。早くわしの部屋へ行こう」
 私は黙って様子をうかがっていた。男はいきなりスケッチブックを手に取るや床にたたきつけた。さらに私の胸倉をごつい手で締めあげた。
「く、苦しい。放してくれ」
 職員が駆けつけ、なんとか大事にいたらずにすんだ。
 その夜、私たちは自然に結ばれた。
 ところで、オプションの遊興費について、私自身も気になるところである。手術・入院費用は無料なのは当然として、こちらは借りたお金からきちんと天引きされる。
 ちなみに私が借りたのは百万円。三か月間、月利一・二五%、支払利息額三七五〇〇円、返済総額一〇三七五〇〇円となる。
 国家事業だけに利息は相場よりも低いと思われる。
 
 数日後、東先生が「特別往診」と称して訪れた際に訊ねてみた。
「この建物は〈奄美熱帯植物園〉としても機能しているのですか」
「いや、公開はしていません。あくまで風間家の私的な所有物件です。先代の理事長は戦時中、海軍予備学生を志願し、最終的に震洋特攻隊に配属され、奄美大島・加計呂麻島に赴く。八月一三日出撃命令を受けながら、敵艦隊が見えないため発進できず。一五日は即時待機のまま敗戦を迎えたそうだ」
 東先生は椅子に腰かけたまま深呼吸し姿勢を正した。
「まさに生と死のぎりぎりのせめぎ合いだ。先代は戦後、己が死へ船出したかもしれない加計呂麻島を訪れ、自分は質屋だが何か平和のために出来ることはないかを考えた。それが〈病の質入れ〉を生み出すきっかけになった。奄美の植物の生命力が特攻隊の命を救ったと悟ったのだ。本部ビルを建てる際、『奄美、いのちの風』をコンセプトにしたらしい」
「〈病の質入れ〉の医療面で東先生がご協力なさったんですね」
「先代の理事長自身パーキンソン病でね。セカンドオピニオンを求めて僕の所にいらしたのが最初だよ」
 東先生がふと何かを思いだしたように遠くをぼんやり眺める目をした。
「この建物をラグビーボールみたいな楕円球体に造ったのも理由があるんだよ。それは楕円の中心点が二つだからなんだ。つまり生と死。人間の宿命だ。現理事長はさらに発展させて、〈生きる炎〉と〈病〉と少しシフトさせて、炎をより燃え立たせるために適度の風を送りこむことが必要だと考えたんだ。さらにラグビーボール型建物を斜めに立てることで、人間が生きる上で欠かせない場として、地下・地上・天空を明確にしたんだ」
「それで、ここでは生命力あふれる植物を育てた、奄美の心地よい風がいつも吹いている
のですね」
「奄美の空気を取り寄せる費用も馬鹿にならない」
 私の頬が自然に緩んだ。東先生も目を細めていた。
 退院の日、最終チェックが行われた。手足の震えなし、筋固縮なし、ふらつきなし、歩行障害なし、頻尿なし……。背筋を伸ばしアイマスクを付けて車に乗った。
 
 ひと月あまりが過ぎた。
 この間、私はしょっちゅう笑顔でいられたような気がする。年老いた事実は取り消すことはできないが、パーキンソン病というやっかいな疾病から逃れられたことは人生最大の快挙に思えた。
 まず、もう三年もあっていない娘に五十万円をおくった。最後まで迷ったが、父親らしいことを何ひとつしてやれなかった罪滅ぼしのつもりで決断した。思い入れもそれほどなかったので『幸せになってほしい』とだけ添えた。
 いちばん楽しめたのは、やっぱりギリシア旅行だ。高校時代ソクラテスやエピクロスといった哲学者にちょっとはまってしまい、さまざまな遺跡やエーゲ海に憧れていた。人生や生と死について素朴な理論を語る哲学者たちが好きだった。世界の美しさを明かすかのような陽射し、潮の香りを運ぶ風、島々をめぐり、私は生きかえった。
 セブン・メディカルの本部建物の影響で、次は奄美を訪ねたいとも思い始めていた。
 男の楽しみの方は歳のせいもあり、なかなかうまくいかなかった。原口彩香さんに頼みこみ『楽園』に出入りできるようにしてもらった。何度か通ううちに、偶然、彩香さんに会った。病を脱ぎ捨て健康な男として彼女の前に立った私の胸中で、欲望に火がつこうとしたとき、『Di・BAR』で知り合った五十代の社長夫人が教えてくれた。
「彩香さんは男性なのよ。ペニスは処理済みらしいわ。でもほんとに奇麗よね。東先生とは同性婚同然の関係らしいわ」
 心のなかで拍手を送った。先生もやるじゃないか。敬愛の度がさらに深まった。
 私はすっかり健常者になりきっていた。杖もいらないし、電車の優先席で申し訳なさそうな顔をする必要もない。横断歩道の途中で信号が赤に変わっても、身軽に走って渡れる。
 
 残暑も薄れ、台風によって被害の発生することも少なくない九月がやってきた。東北地方で大きな災害が発生した翌日の朝、原田彩香さんからLINEが入った。
 ――N県知事の吉村博が土砂くずれに巻きこまれ亡くなりました。パーキンソン病と闘
 いながら県議をつづけ、当選した人。
 ――もしかしてわたしの〈Sick Wear〉を着てた人?
 食道を鷲づかみされたみたいな衝撃だった。
 ――私の病気はどうなってしまうのでしょうか。
 ――至急調査してあらためて連絡するわ。
 頭のなかが太陽を直接見たときのように真っ白だ。外は、今にも雨が降りだしそう。
 摘出手術から間もなく三か月になる。年金から少しずつ貯めて利息だけでも払い、さらに三か月延長しようと考えていた矢先だった。『質草の紛失・消滅―預かり主の場合』規約に何と書かれていたか、もう覚えていない。両手がこきざみに震えだした。パーキンソン病はすべて摘出したはずなのに。
 居ても立ってもいられず、とにかくS大学附属病院、脳神経内科に出向き、東先生に会おうと決めた。夕刻六時近く、先生の診察がやっと終わり、お会いできた。医師の意思決定はすばやく明快だった。
「〈Sick Wear〉を着た人が死亡した場合の病気そのものの生存率は0・2%です。病は摘出手術を終えても病根は残っている。こいつは病気本体がどこで消滅しようが、その三時間後から急激な繁殖・成長をはじめる。その前に病根の成長力を抑制ないし消滅させなければなりません」
「また手術するのですか」
「いや。病根は絶えず移動している。さらに分裂を繰り返し増えている可能性も高い。身体を切開するのは無駄だ」
「じゃ、どうやって?」
 私生来の臆病が体内で渦を巻いてきた。声が震えはじめている。
「あなたには全裸で清潔な体になっていただき、立ったままの姿勢で毎分2000回転していただく。そこに風速毎秒20mの風を吹きつける。風温度は29℃」
 十五分前に彩香さんから「十七時四十三分、吉村博の身体全機能停止が確認された」と連絡が入ったという。
「急ごう」東先生の掛け声とともに、私たちは病院からタクシーに乗り、八王子のセブン・メディカル本部をめざした。二時間三十五分後、私は体毛を剃られ清拭され、回転盤の上に立たされた。点滴により麻酔薬が注入された。私は唇をかんだ。こういう成り行きは小指の先ほども想定していなかった。
(私の決断はほんとうに正しかったのだろうか?)
 すべての疑問符が、大群をなして空を行く渡り鳥のように、この単純な問いへ収斂していく。日常生活もままならず、面倒で、厄介な難病ではあった。しかし、最近ではIPS細胞を活用した治療法や新薬の開発もいろいろ試みられている。私はやはりこらえ性のない愚かな男なのか。思慮分別にかけていたのだろうか。
 金の使い道にしても、十二歳の時に別れて以来、二十年に数回しか会ったことのない娘のために私のとった行動は価値を持ちえたのか。己の命を賭して手術をし、いま再び危険な目に合っている。泣き言はいうつもりはない。それでも、納得のいかない思いがカプセルに詰められて身体のどこかを浮遊している。
 身体の力がとろけだし眠くなる。身体がしずかに回転をはじめる。なまあたたかい南の風が全身の皮膚を包みこむ。目蓋が閉じられる。風が熱が皮膚をくぐって体内に入ってくる。足もとの回転速度がじょじょに速くなる。
 東先生の言葉が風にのって流れてくる。
「摘出した病が他人の体内で停止、もしくは質流れした場合、患者の体内に残された病根が短期間に再発し急激な病状悪化を招かないよう抑制処理をした際の成功率は、データによれば一八%。神は人間よりも病原体のほうを強く創ったようだ」

 私にはもうなにも理解できない。それでも身体のずぅと奥の方から、私はどこへ行きたかったのだろうか、と訊ねる声がする。耳を澄ますと、引きずりこまれるように私はすでに眠りはじめている。         〈了〉                        


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