運転童貞
幸か不幸かどうなのか、東京の下町で生まれ育った僕は、自宅から行きたいところにそれほど時間も手間もかけずに行くことができた。
新宿や、東京駅、上野、羽田空港にも行きやすかったから旅行に出るときは便利だったし、オタクである僕にとってオアシスである秋葉原が近かったこと、そして、東京ヤクルトスワローズファンの僕にとっての聖地、神宮球場に行きやすかったことは本当に良かった。
これらは間違いなく少年期、青年期の僕にとって幸せなことだった。
では、最初に言った"幸か不幸か"の不幸の部分とは何なのか。おじさんとなった今、思うことは沢山あるし、環境が違ったなら後悔はもう少し小さかったのかなと考えなくもない。
大学に入学したとき、地方からやってきた友人たちは一人暮らしをしていて、彼らの家に遊びに行って飲んでいると、よく郷土愛について聞かせてくれた。
まず、これが驚きだった。少なくとも僕の周りの東京出身者たちは下町ということもあるだろうが、だいたい地元について語るときは自虐的だった。
内容はだいたい治安について。スリ・ひったくりが多いとか、酔っ払いが多いとか、「月曜から夜ふかし」に出てくるような変な人が多いとか、ヤンキーが多いとか。深夜のファミレスやドンキホーテは、よく絡まれるので行かないほうがいいとか…。
生まれ育った場所について、あれが美味いとか、人が優しいとか、こんな観光名所があるなどと誇らしげに語る地元の友人はいなかった。
大学の友人たちは故郷の話が一段落すると、「早く帰りたいな」とか「地元の奴ら元気にしてるかな」と懐かしみ、分かる者同士顔を見合わせていた。
僕はといえば、地元の友達なんて数日前に会ったし、今から帰る家には両親も愛犬もいる。何も感慨深いものがなくて、ものすごく自分がつまらない奴に思えた。
今も毎年年末に、帰省が楽しみと嬉しそうに話す人を見ると、ローカルバスを乗り継いで一時間ちょいで実家に帰れてしまうことが、なんだか虚しく感じることがある。
そして、どこにでも気軽に行けるからというのをいい事に、やらかした一番大きな失敗は車の免許を取らなかったこと。
車に興味がなかったわけではないが、電車が苦だったわけでもないので、"必要になればいつかは取るだろう"と思っているうちに時は流れまくってしまった。
周りの人はだいたい、「今からでも取ればいいじゃん」と言うのだが、自意識過剰な僕は若者に混ざって講習を受けたり、年下の教官に怒られたりするのを想像するだけで腰が重くて…、というか心が折れて、アラフォーとなった今も車の運転をしたことは一度もない。
母にしつこく言われたことを素直に聞いていればよかった。
「乗る乗らないはいいから、とりあえず時間がある学生のうちに取っときなさい」
取っておけば、顔写真付きの身分証明書がなくて困ることはなかっただろう。今や海外旅行なんてほぼ行かないのに、有効期限10年のパスポートに更新する必要もなかった。ケータイショップで変更手続きなどをするときに、保険証に合わせて公共料金の領収書なんかを出すこともなかった。
何よりいい年したオッサンが免許証ではなく保険証を出すのは恥ずかしいし、電気代やガス代がやけに安いのがバレるのも恥ずかしかった…。
乗るか乗らないかなんて置いといて、あれば便利なのだから取っておけばよかった。母が言った通りだった…。
今年は、いろいろなことが変化した。変わらざるを得なかったということも多々あるが、後にあの時の変化が有効だったと皆が思える日が来ればいいなと本当に思う。
僕の義兄はほぼテレワークにシフトし、最後に出社したのは随分前になるという。家で働くことにも大分慣れてきて、姪っ子と甥っ子も平日の昼間にパパが家に居ることに抵抗を感じなくなったそうだ。
先日発表され大きな話題となったドコモの新料金プランについて調べてみると、新規契約、ナンバーポータビリティ、プラン変更手続きも店舗に行かずWEBでできるようになるみたいだ。
対面がどんどん減り、押印やサインをする機会は減ってきている。身分証明書の提示は今後どうなっていくのか…。
若者の車離れが大きくなっていて、"買うより借りる"みたいなCMをよく見るようになった。
今までずっと身分証明書の王様として君臨してきた運転免許証。「全く乗らないからゴールド免許なんだよね」と自虐気味に笑う人でも毎度更新に行っている。乗らなくても、ないと困るという人もいるからだろう。
そんな王様に代わるものが、今後出てくるのかどうなのか。
とにかく、
時代は変わっても、免許証を証明書として使わない時代が来たとしても、「運転ができます」という証明はあったほうがいいのは間違いない。
それもできるだけ早くに取っておいたほうがいい。「要普通免許」に何度となく跳ね返されたオジサンは強くそう思います。未成年のうちに取得した友人の何人かは、親御さんが費用を出してくれたというケースもあったので。
好きな男性の仕草といえば、"車の運転でバックをするとき"というのが不動の一位だった。今はどうなのか知らないけれど、僕の青春時代はずっとそうだった。
ならば、十代の内に免許を取って、カッコ良く車庫入れなんかしていたら僕の青春時代はもう少し華やかなものになっていたのだろうか…?
いやいや、まず乗ってくれる女の子がいたのかどうかだ。
隣に誰もいなければお話にならない。
そういえば、昔々、彼女が運転する車に乗ったことがある。バックをするとき、彼女は助手席のほうに格好良く腕をまわしてきた。
その瞬間、「なるほどな」と納得した。
好きな仕草第一位、誰にも言ったことはないがあれは確かにグッとくるものがあった…。