「4/29第10号」

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 初夏の陽気を感じさせる4月末です。ゴールデンウィークなる大型連休ではありますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
 さて、今週号ではありますが、連休中に書いたものをいくつかご紹介したいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

1.「地域性」を思う

 最近遠くへ出かけることが増えた。大学時代の先輩であり友人である彼と、星景写真を撮りにいくのだが、これが面倒でもあり楽しみでもある。びしゃっとはまったときは、えも言われぬ高揚感がある。その写真はスマートフォンの待受画面にするくらいだ。星空と風景を掛け合わせた星景写真だが、撮影地は実に様々であるも、都会と言うよりは田舎であることが多い。撮影が終了したら、地のものを食べつつ、温泉に入って帰るまでがセットだが、道中でその地域のことについて考えることがある。
 思うに「地域」とはなんだろうか。

ちーいき「地域」英語:region
1.土地の区域。区画された、ある範囲の土地。

精選版日本国語大辞典

 国語辞書にはこのように書かれている。区域のことを指すのがわかりやすいだろうか。その区域はどのように区画されるだろうか。
 小学校から高校まで「社会」という科目がある、私はこの授業が大好きで、5段階評定で5以外取ったことがない。地歴公民などと言われるが、今日の私を形成する重要なものである。そんな「社会」という科目で、「文明は川と共に拓かれる」ということを聞くのではないだろうか。我が国は農耕民族であるといわれ、主力は稲作であるが、稲作は治水が重要であり、川から田畑に導水して、土地を潤していくものである。無論飲み水や生活排水もあるだろう。自然にある資源に人が群がり、そこに集団生活が営まれるようになり、「地域」なるものが形成されたのではないかと推察する。私はよく自治体が運営する図書館へ通っているが、自治体史として資料が保存されているのもあり、近代のころの地域の状況を知ることができるのである。街の郷土館なるものの興味深い所でもある。いずれにしても、その「地域」を知る上で重要な手掛かりとなる。
 山や川で文化が分断されることを思うと、そこに境界線が出来るだけではない、文化風習の違いが大きくなることが考えられる。地域の人員構成や土地建物の状況の他、交通状況や産業だけではなく、医療や社会資源の分布状況も大きくことなるだろう。私の考える「地域性」なるものは、こういった違いから地域課題も個別であると考える。人も地域も個別であり、意図的な調整が必要であると合わせて考えることが出来る。それは即ち「地域」を一緒くたに語ることはできなということではないだろうか。

2.旅先で思うこと

 仕事上平日にものごとが動く(土曜日もまたそうだが)ことが多いが、無理をして連休を取得することにした。大学時代の先輩(友人ともいう)が仕事で関東にきており、地元へ帰任するから運転手で一緒に行かないかと魅力的な誘いを受けて、帰省することとした。旅先では移動時間もありさまざま考える時間が神より与えられたと、そういう言い方もできるのではないかと思うことがある。今回の記事もそんな移動中や宿泊先で書いたものだ。
 帰省するにあたり写真撮影も行う。たくさんの風景や星空を眺めると、自分の考えていることがいかにちっぽけであるか、思い知らされる。また、かつて見た風景と違うこともあれば、今の立場だからこそ見える風景もあることを思い知らされるばかりだ。それは驚きと発見の連続であるとも言える。我々の旅に対するコンセプトは、平時はよく働き、休日には旅に出て地のものを食べて、写真を撮り、心身を整えるというものである。これがなかなか面白い。
 今回の帰省は、私が運転という労役を請け負うことで、宿泊や帰りの新幹線代を報酬として受けるというものである。我が友人はこれでよいのだと、気前よくしてくれる。こんな聖書の御言葉がある。

箴言 11章24節
"気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書の箴言とはいうならば知恵である。2項対立で書かれており、こうすれば良いがこうすれば悪い、といったものである。彼はまさにこれを実践しているともいえる。私も“正当な支払いを惜しんで”いることが多いのか、より貧しさをますというものである。別な機会にでも掘り下げてみたい。
 話が脱線してしまったのだが、いずれにしても旅は面白い発見の連続である。何より友人が“福祉の人”ではなく“一般人”であって、その視点から語られるものは、非常に興味深いものであり示唆に富んでいる。その時間は“人と話している”というものと、“私は生きてこの世にいる”と実感するものだ。聖霊の充満を感じるばかりだ。
 そんな旅がもうすぐ終わる。次は6月に北海道で日本キリスト教社会福祉学会である。教会の兄弟姉妹とは少し違うが、いずれにしても兄弟姉妹である。神は生きている。そして私も神の御計画のもとにいかされているだ。
※「4/23第9号:3.故郷という地域」も参考にされたし。

3.十数年ぶりの主日礼拝

 郷里を離れて早13年が経った。ちょうど東北大震災の頃に、私は北海道への出向を命ぜられた。それから上京するのだが、上京して2年間は100名以上教会員のいる教会にて、礼拝を守っていた。その教会は単立教会であるが、世代もさまざまであって、実に活気あるものであり、私も教会での奉仕に加えられたのである。その教会には、我が地元の教会にもいた兄弟姉妹がおり、私を快く自宅へ招いてくださったのである。敬虔なクリスチャンであると一言では言い表すことのできない、キリストの香りがする方々であった。兄弟姉妹との親しい交わりもあったが、私は教会を離れることになる。私の中の聖霊が些か馴染まなかったともいえる。数年間私は信仰か離れたと言って良いだろう。
 社会福祉領域へ足を踏み入れ、ある方(神が遣わされたすばらしい先生)より木原活信(2015)「弱さの向こうにあるもの」いのちのことば社.をご恵贈くださったのであるが、そこにはキリスト教と社会福祉の関係や、聖書の御言葉と社会福祉の実践が事細かく紡ぎ出されており、自らクリスチャンであると名乗るようになったのである。2022年春の頃だった。私の聖霊が燃え上がり、20年前の信仰に対する情熱の復活を感じたのである。私はすぐに牧師へ連絡をとり、証をしたのである。牧師とは細々とメールや電話でやり取りしていたが、まるで神と出会ったかのような私は、証せねばならないこと、そして牧師から教わったことは今なお生きていると言わねばならぬという、衝動に駆られたことを今も覚えている。
 色々あって、ようやく信仰の原点とも言える我が教会へ、そして主日礼拝を守ることができたのである。実に感無量だ。そして教会での礼拝で神との交わりの時をもつのだが、強い神の臨在を感じるのである。教会で礼拝を守ることの喜びというものが湧き起こってくる。牧師以外の兄弟姉妹とは十数年ぶりの再会である。ひとりひとりに声をかけ、地上での再会を喜ぶ。黙想後祈りをしてから賛美が始まり、メッセージ(説教ともいう)をして、献金をしてから祝祷となる。その後は軽食をとりながら兄弟姉妹との交わりをして、聖書研究会となる。10名いかない小さな群れである。しかしそれぞれが信仰を以て神との交わりをされているのがよくわかるというものである。今回私はお客さんであり、何か奉仕をしなければならないというわけではない。だから礼拝に集中することができたと言える。
 最後に、自己紹介をしたのだが、その時“ソーシャルワーカー”という仕事を端的に説明しなければならないが、かななか難しいものである。ただ社会福祉とキリスト教の関係を説明すると、兄弟姉妹の反応も変わってくる。礼拝を守ることで、クリスチャンとしてのマインドを取り戻すような、そんな印象がある。神は私を導いていると、確信を持った礼拝であった。

4.次回に向けて

 さて、色々と書き散らしたので、これくらいで筆を置こうと思う。
 4月末に帰省することができたが、ここで多くの知見を得たとも言える。今回はその内容の一部を紹介できたと言えなくもない。東京や京都で主日礼拝を守れるところがあれば、そうしたいなと思うばかり。
 次回は何を書き散らそうか、悩むばかりである。

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