アイドルをやっていた頃の話
をまだ書いたことがない。何かを書きたい朝なので挑戦してみる。
・ 大学3年の頃、アイドルグループのスカウトを受けた。当時所属していたアカペラサークルのステージを偶然見ていた事務所の社長が、人づてに声をかけてくれた。
・ 瞬時に「お断りしよう」と判断した。アイドルという存在は、なんだか苦手だった。自分から最も遠い存在だと思って生きていた。
・ 私がテレビを一番見ていた高校生の頃は、秋元康の全盛期だった。AKB48は「神7」の時代で、制服を着た「かわいい」女の子たちが、甘い声で歌い、キラキラした映像の中で、白い歯を見せ、短いスカートを揺らし、 上目遣いで、笑顔を振りまいていた。
・ 音楽番組などあった翌朝、教室は彼女らの話題でもちきりだった。彼女らの歌う歌詞の一人称は、何故「ぼく」なのだろう、と気になった。少女時代やKARAなど、韓国のガールズグループの彼女たちの姿も記憶の片隅にあるが、私にとっての「アイドル」のイメージは、秋元康によって作られた。そして自分は、この「かわいい」の指し示す範囲に居ないのだなと早々に理解していた。
・ ひときわ目に焼きついている場面がある。なにかの音楽番組で、パフォーマンス中の"あっちゃん"こと前田敦子さんが、片膝をつく振付の際、カメラに抜かれた瞬間、膝から崩れ、転びかけたのだ。太ももをむき出しにした衣装で、カメラの角度も相当きわどかったのを覚えている。普段、完璧な笑顔とパフォーマンスを見せてくれていた「不動のセンター」のミス。翌朝の教室はその話題で持ちきりで、その危ういショットも「かわいい」と絶賛されていた。
・ 話を自分の体験に戻す。私は当時大学のアカペラサークルに所属していたのだが、人づてに「社長がステージでの歌を聞いて、スカウトしたいと言っている。一度会って話したいらしい」と連絡があった。
反射でお断りしようと思ったが、己と最もかけ離れた存在だと思っていた「アイドル」になぜ自分が、という興味もあり、話だけ聞いてみることにした。社長とマネージャーが大学まで出向いてくれた。
・ 初めて会う「アイドルの社長」は「善」を体現したような人だった。それこそ秋元康みたいな人が来るのかと思っていたら、釣り人風のダウンジャケットを着た、背が低く筋肉質で、日焼けした顔にキラキラした瞳の優しい大人だった。地元の有名な企業の社長であった。
・ 社長は、最後の最後まで本当に良い方で、私たちメンバーの気持ちを一番に考えてくれた。褒めて育てるタイプで、常に一人一人を見てくれていた。「親御さんの前で出来ないことは絶対にさせない」というポリシーで、仕事はダンスと歌とMCのみ。ファンとの直接の触れ合い(握手など)は一度もなかった。
・ 彼の言動から「女性」の「若さ」を「消費」しよう、というような下卑た欲望や、性的な眼差しを感じたことは一度もない。スポットライトを当ててあげたい、殻を破る手伝いをしたい、という想いからのスカウトだったと思っている。皆安心して慕っていたし、当時から輝かしく、尊敬するところばかりだったメンバーは今、それぞれの道を見つけてたくましく生きている。
・ 問題だったのは周囲の大人たちだった。照明、音響、レコーディングスタジオの個人オーナー、カメラマン、マネージャー。ぼかして書く。
・まだデビュー前の、レッスンが始まって間もない頃、レコーディングでお世話になっていたスタジオのオーナーであるI氏(当時50代男性)から「宣材用のポートレート写真を撮ってあげる」と呼び出された。何人かのメンバーが来ると聞かされていたのに、当日に行ってみると私一人だった。メンバーに後日確認すると、そもそも彼女らは声をかけられていなかったとのことだった。
・ 撮影は、スタジオ内の防音ルームで行われた。個人経営のスタジオなので、密室どころか、建物の中に二人きりだった。帰りたかったが、帰れる雰囲気では全くなかった。
・ 撮影中「もう少し痩せた方がいいね」「肌荒れてるよ、生活習慣かな」「飛び抜けて美人なわけじゃないから、愛嬌で勝負だね」「歯並びもよくないね」「二重幅が狭い」などと言われ続けた。何と答えれば正解なのかわからず、その間も焚かれ続けるフラッシュが怖くて、笑顔でうなずきながら、レンズを見るので精一杯だった。顔がこわばっていることには自分でも気づいていた。途中からは床の上に敷かれたマットの上に座らされ、上目遣いを要求された。
・ 帰りに「ご飯おごってあげる」と言われ、近くのレストランに連れて行かれた。顔馴染みらしいレストランの主人が、I氏に「若い彼女連れてきたのー?」と声をかければ、I氏は「愛人だよ、愛人」と、楽しげに返答した。
・ ビールを飲み続けていたI氏は、カウンターの隣に座っていた私の手を突然握ってきた。そして「写真撮影っていうのは、セックスに似てるんだよ」「お互いの心をひとつにするものだからね」と言い始めた。その発言がショックすぎて、後は何と言われたか全く覚えていない。
・ 食事が終わってからも、永遠に自慢話を聞かされ続けた。ようやく店を出るとき「今日のごはんは口止め代ね」「今日のことは社長にはないしょだよ」と言われた。こんなときまで、引きつった笑顔で「ごちそうさまでした」を言って、お辞儀するしかできない優等生の自分が嫌だった。店の前で別れてから、泣きながら歩いて帰った。
・ 次のレッスンの帰りに、グループのリーダーにそのことを打ち明けたら、真っ青な顔ですぐに社長のところに連れて行ってくれた。社長も真剣に話を聞いてくれて、I氏との仕事は今後一切しない、と約束してくれた。
・ I氏の代わりにレコーディングを担当することになったK氏(当時40代男性)。身長は私たちと同じくらいで、痩せていて、いつも煙草を吸っている飄々とした風貌の男性だった。おどけた印象の無害そうな人で、話しやすく、「かわいい」となついているメンバーもいた。
・ しばらくして、K氏から「近々みんなでご飯でも行く?」と誘われた。社長にI氏の件を打ち明けた際に、隣で聞いてくれていたのがK氏であった。I氏の一件があってから塞ぎ込みがちだった私を心配して、相談に乗ってくれるとのことだった。社長からの信頼も厚かったこともあり、K氏からの声かけに「この人は信用して良い大人だ」と当時の私は思った。
・ しかし当日はまた二人だった。ドライブと称して夜中の3時まで車中での長話に付き合わされ、人気のない、知らない道を車で連れ回された。挙句、その車中で「最初からデートだと思って声かけたよ」と言われた。そして「Iさんは下手なんだよお。超えちゃいけない線を超えちゃダメなんだよね。もっとうまくやらなくちゃ」と言われた。その時にすべてを理解した。
・ その日は、何事もなく車から降りることができ、そこから徐々に距離を置くことができた。
だが、I氏のことがあった直後だったため、これ以上スタッフを失ってしまうと活動が立ち行かなくなるのではないか、という恐れから社長には最後まで相談できなかった。
今も彼はあの業界で仕事をしているのだろうか。
・ 当時、特にその年代の男性から気に入られ、傷つくことが多かった。何もなかった、と言えばそうかもしれない。今の私であれば一笑に付せるようなことかもしれない。瞬時に怒りをあらわにすることもできるかもしれない。
それでも、当時の私は、毎度ずたずたに傷ついていた。「癒し系」などの定型語で彼らから称されがちだった容姿、即座に怒ることのできない気の弱さ。次第に自分を責めるようになった。
追記
ここまでは2年前(2020年10月)の日記です。続きを書けずにいましたが、ここからは現在の私の言葉で追記します。
この文章を書けるようになったということは、少女時代をどうにか生き抜き、生き延びたということだ。
そして、生き延びることのできなかった可能性があることを、今の私は知っている。
生き延びる最中で傷ついている、かつての私のような無数の彼ら、彼女らが世界中にいることを、今の私は知っている。
私は今、25歳で、ここ数ヶ月はK-POPアイドルのSEVENTEENというグループ(昨年「推すこと」について考えるzineを共同制作した成実さんの勧めでハマってしまった)のことしか考えられないような日々を送っている。
13人いるメンバー、その殆どが自分よりも年下だ。
彼らが見せてくれる景色の美しさに心奪われ、救われながらも、自分が彼らを見つめる眼差しの熱心さに気がつき、怖くなる時がある。
SEVENTEENに出会ったことで、私自身、人生で初めて"年上"の"消費者"の立場になってしまった。
もうすぐ社会人2年目が終わる。後輩もできた。年下の友人もできた。
常に自分自身が誰かを傷つける可能性をもった主体であることを忘れたくない。
推されることは、身体だけでなく心まで切り売りし、赤の他人のまなざしにその評価を投げ出すことだ。
私は欲が深いから、常に正しい推し方ができるような人間ではないと思っている。
私の心をかつて一度殺した彼らのような大人になりたくない。絶対になりたくない。
でも、なる可能性は常にある。なりつつあるのではないか、という恐れもある。
彼らを支えているのは巨大なファンダムであり、私という一ファンと彼らとの距離は遠い。しかし、どんなに遠くても、自らを省みることは常に忘れずにいたい。
「親御さんの前で出来ないことは絶対にさせない」と言い切ってくれた社長のように、正しい年長者になりたい。
生きていてくれてありがとう、生き延びてくれてありがとう。
ありがとう、以外の言葉が、自分の口から彼らに向けて放たれる時、そこに愛は、敬意はあるか。ちゃんと思い至ることのできる大人になりたい。
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