バカにしたものではない”商人道”の精神性とその重要性。
おはようございます。
(昨夜書きました。)
夜のしじまの中で、暗闇の庭に向かってキーボードを打っています。
雨が降って、庭の池に水が滴り落ちると、コポコポといい音がします。
木々や草たちに落ちてくる雨粒も、風の様に葉擦れを揺らしています。
以前、「おいしい水」と言う、ボサノヴァのコンピレーション・アルバ
ムを買いました。
ですが、あまりいい感じに聞こえず、お蔵入り。その後、売ったか捨て
たかしてしまいました。
何故、あまり聴かなかったのかと言うと…?
お目当てだったギター演奏による弾き語りではなく、
ストリングスが前面に押し出されている様な、歌モノでもなく、ギター
演奏も入っていない。。。
そんなコンピレーションで、更に言えば、お好みの演奏家や、作曲家。
もしくは、楽曲にも精通しておらず、
聞きどころが、全くと言っていいほどの『皆無』だったからです。
いい感じに聞こえず。の理由とは、音楽性と言う主軸”のみ”ではなかっ
たのですね。
かたや、私が好きな楽曲と言えば、『魂のこもった』感のある歌。
例えば、古い人ならば、”河島英五さん”の様な男臭い歌や、
はたまた、河口京悟さんの様な、おしゃれでありながら、聞きやすく、
含蓄のある歌。
そんな歌を歌うシンガーが好きなのです。
私が河島英五さんの深い魅力に気づいたのが、『酒と泪と男と女』と言
う曲でした。
確か、どこかのコミュニティに行った時に、カラオケの時間でたまたま
耳にしたのが始まりだったはずです。
…なんとなく、”カリスマ”的な位置にいるのが納得の行くような、魅力
のある歌。
そして、河口恭吾さんの魅力に気づいたのが、
『スキマスイッチの、”常田さん”」が、ピアノや編曲・作曲で参加し
た、『未来色プロポーズ』と言うアルバムを買って聞いた時でした。
その頃にはもう、弾き語りのライブを始めていたのですが、
とても愛情深い歌詞に感嘆を漏らしたものです。
河島さんの歌の方で、一番心に残ったのが以下の一説でした。
”また一つ 女の方が 偉く 思えて来た
まあ一つ 男の 狡さが 見えて来た
俺は 男 なき通すなんて 出来ないよ
今夜も 酒を 煽って 眠ってしまうのさ”
と言うものです。
男は酒に溺れて悩みから逃げるけれど、
女は涙を流し切って忘れる…。
”向き合い方が全然違う”
そんな『人間としての強さが、男と女の違い」として表現されていまし
たが、その中枢にあるのは、
『やはり、人間とは生きる上で悩みがあるもの。
そこにある感情の揺れを、分かってあげてほしい』
そんな河島さんの優しさを感じたのが、私が感じた魅力の所以でした
河島さんの歌は、この様に、どこか、人間の人間らしさの礼賛の様な歌
ばかりだった。そんな印象を持っています。
そして、川口恭吾さんですが、
その後も聴き漁っていくうちにわかった事がありました。
それは、どちらかと言うと、
『いい男が女性側に歌い聴かせる歌』
そんなテーマがある様に思います。
唯一、『会社を辞めて旅に出よう』と言う歌以外は…。
ただ、この他にもある例外の曲も併せて、女性向けとしか思えない歌の
全てを聴いていると…
そこにも、何処か『有機的』なテーマがあるのが分かります。
川口さんのことも、本当には理解出来ないし、
個人的な領域のことは知りません。
しかし、ただ単純に聴いていると、
ただの商業的ソング。みたいな、
風化してそれで終わり。一過性のだけのもの。
見たいな感じがしないのです。
…昨日でしたか、近くのセブン・イレブンに行くと、
近くの地域のパン屋の小冊子が売っていました。
中身を見てみると、知っているパン屋があれこれ載っていました。
その中の一つを詳しく見て見ます。
一番気になったのが”サスティナブル”の、一文字でした。
…関連して、音楽的なことをもう一つ書くとすると、、、
エレキ・ギターに搭載されている機能のうち、
ごく一部のギターには、”サスティナー”と言う装置が付いているものが
あります。”サステイン”つまり、”sustain”
これは、『持続する』と言う意味が有ります。
弦をピックや指で弾くと、ピーンと音が鳴りますが、
普通は一定の短い時間で振動が止まってしまいます。
しかし、エレキ・ギターに限っては、音がそのままなり続ける装置をつ
ける事が可能で、ピックを持ったり、弾く指のある(右利き仕様なら
ば)右手のある方の手のひらの腹をうまく使わないと、
弦の残響音が残りすぎて非常に扱いが難しい代わりに、
自由自在に弾きこなせる様になると、すこぶる表現の幅が広がります。
で、響きが持続する様にしてくれるのが”サスティナー”という訳です。
サスティナーの様に、持続性のある店。
これを目指しているのが、このパン屋さん。
持続性が有る。って、どんな状態だろうか?
と、考えます。
響きが途切れない様にする。
と言う工夫だろうか?と、ギターを例に取ると、思いますね。
”途切れない”。と言う時、本当は何が大切なのでしょうか?
それは、◯◯が大切だから、□□する。と言った、小手先の事では無い
ように思うのです。
結構陥りがちですが、ここには”本当のこと”は無いと思います。
小さい頃を思い浮かべて欲しいのです。
『あの頃』。一体、何が幸せでしたか?
そして、その幸せにとって、最も大切な事って、何だったでしょう
か???
心が壁を作ってしまっても、是非。思い出して欲しいのです。
そこには、その人しか。つまり、私やあなたしか知らない領域があっ
て、その一番真ん中にあるものだけを、どうにか追い求めて頑張ってき
たあなたがいますよね。
その”何か”。その何かを、純粋に追い求めていたら、
凄く。辛い事が有りませんでしたか?
泣いて忘れるだけでは済まないぐらい傷として残る様な事が有りました
よね?
もし、あなたが。
そんな小さなパン屋さんを建てて、その中で、そこにくるお客さんと一
緒に。
その”大切なもの”を追いかけ続けて、しかも、それがお客さんに、
とっても喜ばれるとしたら?どれだけ嬉しいでしょう。
その時、
”よーし!また明日からも頑張るか!!”と、奮起して、回転数上げて頑
張りたくなりますよね。
こんな風に。”持続性”がある。としたら、、、
とてもシンプルな話です。
ただ、「自分が」「本当にただそれだけで」「頑張れる何か」を、「エ
ネルギー源や資材として」「頑張り続けられる」そして、その結果、
「周りも」「自分も」与えて、喜ばれ、喜ばれて、与えられ。。。
それだけあれば、いつでもどこでも、失敗しても成功しても。
自分の力とみんなの力を以って、お店をいつまでも絶やす事なく続けら
れますよね。
つまり、サスティナブルと言うのは、
小手先”だけ”でなく。そこに”思い”も載っていて、
さらにいうと、それもまた、誰かの思いと共鳴し、お互いに支え合って
いる環境をそのお店や社会が伝え続けている状態だと言えな
いでしょうか?
そのお店に初めて電話した後、LINEでフレンド登録がありました。
最初はあまりにも強引過ぎる様な気がしました。
でも、そこに”サスティナブル”な、経営方針があるならば。と、
少しそのパン屋さんの経営を見直して見たくなりました。
自家製酵母とベーグルが売りで、
菓子パンの様な安易なものは売っていませんでした。
そして、お子さんが生まれたばかりとの事も聞いていて、
駐車場も狭く、店内も狭小と言う感じ。
地域密着の経営で、その小さなガレージでお祭りもしていると言う話も
していました。
ただ、気になったのが、子守をする奥さんがとても暗そうなのと、店内
に入ると、店主が全く出てきません。そして、呼んで見て初めて出てき
てくれました。
パンは、食べてみると、その近くにある商業施設のフランスのブレッド
ファクトリーに比べても余り美味しくありませんでした。
そこで、色々と考えて見ます。
そもそも、ここで言う”サスティナブル”の重要性とは、何でしょうか?
自分”が”中心なのか?
それとも、他人”も”・自分”も”なのか?
それとも、他人”が”なのか?
私が勉強したところによると、
江戸時代。豪商と言う名前にそぐわない様な道徳経営を推進したにも関
わらず、飢饉や、大震災が有れば、稼いで貯蓄した備蓄やお金の蓄えな
どを一気に放出し、その為だけに利潤を追求する。と言う商人の在り方
を貫き通した人々がいたそうです。
勿論。これは、「商人が意地汚い性(さが)を持っている」。と言う、
「士農工商」の最後にようやく名前が一文字出てくる、「商」の立場の
人たちが、武士道と同じくらい、しっかりした精神性を持とう。
とした。と言う経緯がありますから、
今の様に、商人としてお金を稼ぐことが当たり前の世界とはまた、話は
別かも知れません。
しかし、震災と言えば、
『東日本大震災』の時、いち早く事の重大性を察知し、支援物資を届け
た人たちがいましたよね。
芸人さんに多かった気がします。
笑いを届ける。とか、エンターテイメントをする。
そんな人たちが、一体どの様な気持ちで、不遇の時代を乗り越えてき
て、目の前のお客さんを笑わせているのか?と言うことを感じざるを得
ないものです。
その上で、、、
例え、お金をたくさん稼いでいる芸人さんだったとは言え、
なけなしのお金を、トラックに積んで東京からはるばる東北まで駆けつ
けてきてくれた人もいたのです。
そこに、、、
『商人(あきんど)根性」って、
心の中は確かに見えないけれど、
本当に、有ったんでしょうか?
例え有ったとしても、それはどのくらいの度合いなのでしょうか?
人は、結局。
自分の見たい様にしか見ていません。
その時、見たいから。
と、言う理由で、邪推をする。もしくは、夢物語の様な側面だけ見る。
と言う事は、果たして、
支援物資を届けている人と、
与えられて助かった人たち。
この、両社と言う当事者の双方にとって、
どれだけの恩恵があるのでしょうか?
傍からやっかみを言うのは、仕方ないでしょう。
きっと、何か願いが叶わないなどの根拠があるはずです。
でも、そのおかげで、支援物資のありがたみだけでなく、
その際にどうにか心を持ち上げた人の心まで萎えさせてしまうとした
ら。。。
その時に、このパン屋さんの事を思います。
確かに、ぶしつけとしか言いようのない接客と接遇ですが、
確かに、この経営で回っているし、小さなパン屋さんなのに、
もう何年も潰れていません。
持続経営の中で大切なことが見えて来ますよね。
どこまでスケールを広げるのか?
自分に無理な範囲のことや、
スケールを広げた際に、自分に蓋をする様な事は、
このパン屋さんも、芸人さんも、
行なっていない。と言う事が分かります。
自分らしくない事を、殊更気取ってしまうと、
それは、あくまで。
自分を飾るための道具として、目の前の人を扱う。か、
捌く。見たいな発想になってしまいます。
人を愛する。とか、
人との距離を大切にして、相手を大切に扱う。
と言う様な発想と似ている様な気がします。
最大の問題は、
『相手が喜んでくれた場合、感謝を心から思えるのか?」
と言う事でしょう。
つまり、経営ならば、「感謝の対価に見合う報酬を与えたくなる相手な
のか?」
支援物資だとしても、「本当に必要なものを、気疲れしている時に、気
疲れすらも癒す要件を果たした上で届け、伝えてくれている
のか?」
…それだけが大事なのだ。とわかるはずです。
実は、このところ、色々と分かり始めて来た事が沢山ありました。
その中には、とても信じられないレベルのことまで、見い出すことに成
功はしたのですが、『知る』と言う事によって、『何が大切なのか?』
分かりにくくなっていました。
知るのは、きっと。
自分の本質的体験を支える為だった。と、気づくのです。
本質的体験の為に「知る」としても、それも、
「自らの体験の本質」を『知る』為である。と、間違い無く言えると思
います。
その結果、枠を必要以上に満たさず、乱さず、
枠の中を空っぽにもせず、
本当の体験的欲求は満たされるのだ。と、そう思います。
その時に、『サスティナブル』な経営は成り立つのでしょう。
精神性が大事なのか?それとも、日常の平和が大事なのか?
それとも、全く違うストーリーがそこにあるのか?
それはその人それぞれが、独自で追求する事だと思います。
でも、そこにある”その(醸し出される)雰囲気”のお陰で、どこまでも
助かり、嬉しく思う人はいるはずです。
テクニックで、それを作り出したりも可能でしょう。
でも、結局は。
その体験の原初体験から今に至るまで、
自分の体験を体験しているのは自分ですし、
かと言って、他人がいなければ、そこまでたどり着けません。
受け取り、貯めたものを分け与え、
そこから得たものを更に純質化し、渡し、受け取り。。。
それこそが、サスティナブルな経営の根本なのでしょう。
いかがでしたでしょうか?
風化しない(サステインが長い)。と言う一節からすれば、
わたし的には、「有機的であり、意味深い(道徳性がある)」と言う事
が見出せます。
その時、他人だけが、となると、自分に嘘をつくことになりますね。
自分が大切だ。もまた、誰かのためになるモチベーションでしょう。
そして、その二つが揃ってこそ、
持続性は生まれ、つまり、
喜びに満ちた人生と職業活動になるのだ。と、そう気づくのです。
何でもいいなりになるぐらい、成人君主になろうとしても、
そもそも、いいなり。と言う状態がどこから来るのかがよく見えていな
い場合もありますし、かと言って、徳を積むぞ!の根源にあるのが、
どんな意識の集合から生まれ来るものなのか?も、とても大事です。
そして、その中間の状態も大事ですが、
それだけでもの足りる人ばかりなのかと言うと、違いますね。
自分の意識は、自分らしくカスタマイズして、
その人生の今の位置に置いた方が、
おそらくは、本当の意味で周りの人たちの役に立つのだと思います。
勿論、その為にも。
『棲み分け』はどうしても必要になって来るでしょう。
全く違う属性の人たちで、うまくやっていくのも学びにはなりますが、
本当に0か100かぐらいの違いがあったならば、
うまくやるどころの話ではないのかも知れません。
本当に大好きならば、一緒にいることも大切ですが、
不特定多数ならば、そこにどれほどの愛情と情念を注げるのか?
は、その人の性質にもよる。と、言えます。
自分が、一番嘘のない状態でい続けて、
そこにいる相手とどのように付き合っていくのか?
それこそが、
「愛する工夫」であり、
「練習が必要」な要件である。
そう感じます。
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