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自らの内面を覗き見る行為?

 



私は映画が好きだ。
猛烈に好きだ。
どれくらい好きかって言ったら1ヶ月に50本観るくらい好きだ。

まぁ、映画が好きな人なんてこの世の中にごまんと居るわけだから。



 なぜ、私が映画を観るのか。
なぜ、映画が好きなのか。
映画を通して自らは何を得ているのか、その行為に対する意味は何かを考える。

共感できるものもあれば、それは違う、時間を返せと腹立たしくなるもの、モヤモヤと混沌とした気分で終わってしまうもの、涙が止まらないものがある。

その日の自分やその1日に応じて描きたい私たちは種類やストーリーを選ぶ。

例えば、ある日に社会への不毛な憎悪や混沌とした非言語的で非論理的な狂気を感じれば「タクシードライバー」や「LEON」が観たくなる。

心躍り、家族の幸せな愛情を感じたければ「オーバーボード」や「アバウトタイム〜愛おしい時間について〜」、「ライフイズビューティフル」が観たくなる。

パリに芸術を感じたい時は「ミッドナイトインパリ」に手を伸ばす。

笑い飛ばしたい何も考えたくない時は「ダーティグランパ」が観たい。

自分の脳内想像や予測を超えた裏切りを感じたい時は「ピエロがお前を嘲笑う」や「ハイドアンドシーク」、「ファイトクラブ」を何度も観る。「スクランブル」や「ベイビードライバー」なんかのスカッとカーアクションもいい。

たまには金儲け思考のただの大衆映画もいい。

内容のないただの共感を促す今の世代が湧くストーリーも悪くないかもしれない。

 ときたま疲れる時がある。

他者の作り上げた自我イメージを保ち続け、関わる人によって変化が必要なこの世界に、自分の理性や作り上げた笑顔が不必要な時間を渇望する。

その日によって、自分がなりたい自分に、虚像に、そして気分によって、違う世界を、たった数時間の旅行と誰か1人分の人生を歩んでいきたいとふと思う。
映画に手が伸びる瞬間だ。

自分の中で表現しきれなくなった自分像や感情や、内面、そして社会への無限の憎しみを他力本願とし、自分の感情が動くのを客観的に見てみたいという単純な興味ではないだろうか。

 映画を観るという行為は、自分が全て経験することが不可能なものを、監督や、製作側に託したそのストーリーや登場人物に自分が選択し、自分が投射されることによって臨場感によって感情が動かされる。

最後に納得できる結論が出て欲しいわけではない。

ただ笑える、悲しい疑似体験が楽しいわけではない。心が動かされる事を楽しんでいるのだ。

 父が言った。

「もし自分が今こうしたら、こんな卑劣な事をしたら、この衝動を現実に起こしたら、と想像したことはないかい?」

その言葉に人間には、ある一つの区部でしかないが簡単に3種類あると思える。

まず1つ目は、想像さえもしない人。

2つ目は想像し、瞬間的に心臓の鼓動が早まり意識が飛ぶが、自分の中の理性や抑制装置が働く人。

3つ目は、想像力をそのまま現実にする人。


適当なまでに自分の事を重ね合わせていた。
私は2つ目と3つ目の境界線の人間ではないかと思える。
もしかしたら、ここに映画を好む理由が示唆されているのかもしれない。

 愛する家族や、友人、バイト先で見せる自分ではない、学生としての顔ではなく、誰かの何かではなく、どこかに所属する自分ではない、社会と対峙する自分の内部の狂気や無慈悲な感覚、研ぎ澄まされた欲望に忠実な自己。

理性的な思考や振りまく笑顔や気遣いを一切排除した研ぎ澄まされた自己。

そして監督の描く極ありふれた卓越した登場人物に自分が選択できなかった、しなかった結論を、判断を託す。

自我イメージを超えたその人生をスクリーン越しに上から覗き込む。
いろいろな結論を考え、想像し、作り出していく。

 またあの映画がみたいと思う行為や、同じ映画を何度も見る作品がある。
より深く、ふとあの感情を呼び戻したいと思う。
忘れたくないものを隠して改めて探し当てる。

あぁ、こんなものを隠してたのか、そして新しいその瞬間をまたそっと隠しておく。

次の自分に会えるように。
頭の中で再生され続ける記憶やその一部や感情を、時間のかかるアート作品や感想文ではなく、瞬間に保存しておける唯一の方法といっても過言ではない。

視聴本数が増えるにつれ、お気に入りの監督も自分の中で確立され始める。

自らの内面との共通部分や感化される瞬間、一瞬の境界線突破、細部に描かれる細やかな気遣いへの感動、想像を超えた完成度の中の欠落に執拗に好意が芽生えるのだ。

彼らにしか感じ得ないものの欠片であれ、意図的に隠蔽された内部をほんの少しだけ共有できる意思疎通の時間である。

きっとその時間が私にとてつもない安心感を与えている。

何か映画のその先に自分を描き、紡いでいく。

理解不能な社会組織の闇の犠牲者である自らを覗き込む、そのものの行為だ。

斎戒沐浴として果たされるこの行為に快楽を覚え、娯楽とする。
英語のqは、英単語として成り立つ時にuが後ろにつかないと成り立たない。
独り立ちできないのだ。

そんな風に当たり前に存在している少し面白い発見のように私も誰かに自分の逸脱した部分を密かな自己表現として発信していきたいと望んでいるのだろうか。


 きっとこの文章も、卒業論文も、更新され続ける脳内での記憶との葛藤や議論の中で自らが導き出す何か形のないものを言葉にするが、これから先も毎日書き足し、毎日書き換えていきたいと思うのだろう。

しかし、今の等身大の自分の脳内の全てを表現することは不可能だが、その欠片でも誰かに共有できたらと思う。

意図的に隠蔽された内部をほんの少しだけ誰かに伝えておきたいと、自分が消えないように作品にする。


ほんの少しだけ。
ほんの少しだけオリジナルで多くの傍観者が何の気なしに手を伸ばせる作品。


この映画がまた見たいと思う、あの感情と同じではないだろうか。




なーんて、たまには意味あるような無いようなことも、かいてみたりして


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