懐疑心と期待のギャップ

『財務諸表監査における「職業的懐疑心」』では、現代監査の起源を荘園会計に求めている。信頼できる召使いを監査人と任命し、監査人がその他召使いの作成した会計報告を監査したのである。

この構造が、初期の株式会社でも用いられた。1844年会社法において、任意規定ではあるが、株主が監査人を任命し監査させたのである。1856年には会社の費用負担によって、監査人を補佐する会計士を雇うことが認められる。その後、グラスゴー・シティ銀行の破綻を受けて、1879年に監査を受けることが義務付けられる。

このように、監査の起源は、「理論的根拠は、プリンシパルが資産を託した者の忠実性を想定することができず、それゆえ、その保証を求めた」(同署P.19)ことに由来するのである。

そして、このことが、監査人の職業的懐疑心を決める、とする。すなわち、監査人は株主に委任されて監査を行っている以上、プリンシパルの求めるものがその水準となる。現代監査にもこれが当てはまる。「株主(およびその他の利害関係者)が監査人に聞いてほしいと期待するものは何で監査人にどのような問題に取り組んでもらいたいと期待しているのか、そして、どのような証拠を必要としているのか」(同書P.20)を求められている。

懐疑心の発揮は、株主の期待に沿う事でもあるということだ。

しかし、私としてはひとつ疑問がある。株主の期待に沿うことが懐疑心の発揮なのだとしたら、監査の水準は株主の期待がその最下限となるわけで、株主との期待のギャップは生じえないのではないだろうか、と。株主の期待(と思われるもの)と実際の期待が違っているから、このようなことが起こるわけで、ならば、株主の期待に沿えていないとしたら、懐疑心を発揮できていない、ということになりやしないだろうか、という疑問が湧くのである。

期待のギャップは裁判になると問題となってきたけれど、現在に於いては、裁判において負けないようにする、ということよりも会計士への世間の評価がリスクになるのではないか、と山口利昭は書いている(『法の世界から見た「会計監査」』P.6)。企業のリスク管理が裁判で負けないからステークホルダーからの企業評価に対するリスクが大きな関心事となっているように、会計士もそれがリスクになるのではないか。

確かに、その意味で、上場会社登録制度は「コンプライアンス重視」というステークホルダーの評価への対応でもある。

プリンシパルの期待に沿うこと、つまり株主への期待に沿う監査を行うことが懐疑心の発揮であるならば、株主の求める作業量と監査人の実際の作業量が等しくある、もしくは上回っている、という説明をいかにするのか、そうして期待のギャップが解消されることになる。山口利昭は監査人が説明をする必要性が生じてきている、としている。

Nidecの分配可能額を誤った件について、「会社は監査人がやらなかった」という雰囲気だったが、ツイッターの会計士アカウントでは、「そんなものは見ないから(会社が当然やるものだ)」という反応だった。

監査法人がやるんでしょ?と言うのであれば、やらなければならない。それが、プリンシパルと監査人の関係から導かれるものであろう。そうであるならば、いかにしてその水準を維持するのか。そのあたりが問題になるのかもしれない。

調書を作る、という検査や裁判に対応することに加えて、監査人自身での発信が求められるのだろう。これも、守秘義務との絡みが出てくるから、事務所としてのコンプライアンスに問題は無い、という喧伝になるのだろう。

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