堕天するアイドル ~虚構性を失いゆく中で~
ツイッターで、AKBの彼氏がいたことがバレてしまった人(名前は忘れました)について、「(ガチ恋しているから)推しに恋人がいたことがショックなのではなく、神聖化している推しが堕天したことがショックなのだ」ということを書いている人がいました。つまり、好きな人に恋人がいたから憤っているのではなく、女神が実は人間だった、ということに憤っているのだ、ということでしょう。
それを見て、推しに関する階層として、
というものを考えてみました。右へ行くほど、神聖化・非日常性が高くなっていきます。
メイド・コンカフェ嬢がアイドルになるには、一段神聖化する必要がある、つまり、昇天する必要がある。だから、そこには大きなハードルがある。逆に、アイドルがメイド・コンカフェ嬢になる、堕天するのは比較的楽なわけです。だから、メイド・コンカフェ嬢としてアイドルが務めるのは比較的難しくない。
こうした考えは、メイドからアイドルになった人や、アイドルがキャストとして働くコルダを見ていて思っていることでもあります。
そして、コルダが閉店する、となって、ああ、逆に、お客の側も同じように感覚が違うのかもしれない、ということを考えるようになりました。しらみねさんが、えまさんに対して、「アイドルは少し違う」と言っていたのと似ているかもしれません。
僕にとって、メイド・コンカフェ嬢からアイドルになった人は、どことなく、「こんなこともできるなんてすごいね!」という感覚があります。言い方は悪いですが、お遊戯会のような感覚です。コンサートやライブに行く、というより、お遊戯会、子ども過ぎる表現ですね、発表会の方がいいかもしれない、発表会を見に行っている感覚になるのです。
だから、どこかに、がんばれ!と思うところがある。
メイド・コンカフェ嬢として出会ったために、非日常になり切れないところがある。だから、アイドル現場という非日常に昇天したら、そこに嘘くささが出てしまう。アイドルもメイド・コンカフェ嬢はフィクションですが、どこか「リアルの空気」がある。この、「リアルの空気」の混ざり方が、アイドルは少ない。だから、フィクションをフィクションとして考えることが出来る。メイド・コンカフェ嬢はフィクションではあるものの、全体として「リアルの空気」を纏っている。だから、どこか、日常と続いたところにある。日常の隠れ家としてのメイド喫茶論というものが、この辺りから続いているわけです。アイドルは隠れ家ではなく、日常を忘れるための、ディズニーランドのような、夢の世界です。
でも、昔はもっとフィクションだったと思うのです。SNSなどが出てきて、よりつながりやすくなったことで、アイドルも日常へと降りてきている。AKBグループの握手会は、降天であり、彼女たちが神聖さをまとったまま、我々一般人のもとへ降りてきてくれているわけです。神の顕現。ありがたやありがたや。
そうした、日常へ降りることとは別に、日常を見せ過ぎてしまうことによる堕天がある。恋愛という生々しさは、まさにそれに当たるわけです。今回、AKBの人が報道されたことに対して、リーダー?の人が「恋愛禁止のルールを見直さないといけないかもしれない」といったことを書いています。これは、降天し過ぎて、アイドルは神聖さを保てなくなっている、ということを示しているのかもしれない。
アイドルによっては、メイド・コンカフェ嬢をしてはいけない、という規則があるようです。これも、神聖化を穢されてはならぬ、というささやかな抵抗でもあるわけです。
アイドルの恋愛禁止は人権の制限である、という人がいます。そういう問題ではない。人権という社会の問題ではなく、アイドルという虚構性を維持するための、アイドルの神聖さを維持するための、ある種の宗教的な決まり事なわけです。人権なんていう、人間の世界の話ではなく、神々の世界の話なのですから、人間の話なんてしては論点がずれた話になる。
しかし、まあ、そうした虚構性は崩壊しかかっている。虚構の中だけでは生きられなくなっている。より「リアルの空気」の混じった、現実感のあるアイドル像が広がって、アイドルは堕天せざるをえなくなった。だから、その意味で、最初の図を少し改めないといけないかもしれない。
古典的なアイドルたりえず、堕天して、現代のアイドルはより我々に近くなった。偶像ではいられなくなった。虚構性の失われた世界で、いかにして虚構性を保っていられるか。アイドルの現代的難しさはここにあるのかもしれない。それは、インターネットという、誰とでも、どこでも、いつでも、繋がれてしまう社会における、繋がり過ぎている弊害なのではないかと思う。テレビという、創作の世界から逸脱して、インターネット、特にSNSという日常の延長戦に降りてくることで、アイドルは日常的になり、フィクションたりえなくなった。
現代的アイドルは、ある意味で、カリスマに近くなっているのかもしれない。カリスマは、人間が神の領域に上っていったものとして捉えられる。人間と神の境界が曖昧になる、というのは、ギリシャ神話でもあるようだ。だから、古典的なアイドルが現代的アイドルへ堕天して、未来に、さらに堕天してより一般人となっていっても仕方ないのかもしれない。
それでも。
アイドルは神聖なものであると、僕は言いたい。
堕天したとしても、彼女たちは神であり天使であるのだ、と。
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