僕等はみんな、差別する(車椅子と差別意識)
(https://twitter.com/s_maco_/status/1768853817779765278より引用)
(https://twitter.com/s_maco_/status/1768962331621663154より引用)
この話、認識に完全にずれがあるんですよね。
なので健常者の立場で書いておきます。
まず最初に健常者の側から見ると、車いすに限らず障碍を持つ人が不自由なのは分かります。
程度は想像するしかないですけどね。
そして、恐らくほとんどの人は程度の差はあれ何らかの手助けができればな、と思ってるでしょう。
例えば車いすを押すとか、目が見えない人の誘導をするとか。
そしてそれは
100%善意の手助け
です。
善意で手伝ったんだけど……それでも、細やかに見返りは欲しい。
それは金銭とかではもちろんなくて、ありがとうの一言で十分です。
少し手を貸す。
ありがとうと言われる。
助けられた側は助かり、手助けした側は少しいいことをした気分の良さを得る。
ハッピーエンドです。
でも要はその感謝を言いたくないんですよね。
何処で見たのか覚えてませんが、そう言う風に日常的に感謝を強いられる者の気にもなれ、という御意見を見たことがあります。
健常者にできることが自分たちに同じようにできないのは差別だ、とかだっけかな。
ここが認識のずれ。
健常者側は何かすることを善意の手助けだと思っている。
障碍者(この括りも大きすぎるけど、すくなくともインフルエンサーとかそう言う人は)やるのが当然だと思っている。
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健常者の立場から続けます。
まず大前提として、健常者側が手助けするのは善意です。当たり前ではありません。
ここは恐らく絶対に動かない。
政治的にお正しい皆様は
意識が低い劣等ネトウヨめ、正しいアップデートをしろ!善意だという気持ちを捨てろ!やって当たり前だ!衰退国ヘルジャパン!
と言うでしょうけど、そんな風に有難いお説教を受けて、ハイそうですか、と従う人間はまずいません。
断言します。絶対に居ませんよ。
なぜかと言えば、人には自由意志があるからです。
どこの誰ともしらない有象無象の偉そうな御高説に従う理由もないし、拒否する自由もあるからです。
此処を変えたければ、それこそ学校で「健常者は生まれながらにして『恵まれているという原罪』を背負った罪人であり、周囲の障碍者に奉仕する義務がある」と言う感じで教育するしかないですね。
各学校に障碍児を入学させて、世話をクラス全員でするとかどうですか?
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というかですね、一つ他にも通じる重要なことを描きますが
赤の他人への手助けは当たり前ではない
です。
これは誰であっても誰に対してもそうです。
たとえそれが5分の道案内であってもね。
善意なのだから感謝されなそうな相手には当然近づきたくないわけです。当たり前ですよ。
だって障碍者と言っても他人ですもの。助ける側だって選ぶ権利があります。
こんな不快な思いをした!社長と話し合いたい!とSNSで吊し上げを始める人の手伝いなんてしたくないです。
だって運んでる途中で何か不手際があって怪我をさせたり、それこそ不本意な態度をみせただけで、私は傷つけられた!差別だァ!とか言って吊し上げしそうじゃないですか。
(https://twitter.com/kusa_kanagawa/status/1769167569775398920より引用)
別に車椅子の人は迷惑をかけているとをわきまえて平身低頭せよ、などとは誰も思っていません。ていうか、自分の出来る範囲で手助けする人の方が多分多いと思いますよ。
ただ、手助けが当たり前だとは思わないでほしい、と言う話です。
いやね、別にいいです。
こういう見解に、お前達は人権意識が後進的なネトウヨだ、アップデートしろ、と言うのは構わない。
やって当たり前だ、感謝なんてなんでする必要があるんだ、と言うのも構わない。
この辺りを分かって貰わなくてもいいですけど。
分ろうが分かるまいが、健常者は奴隷ではないので命令に従う理由はないし、あなた方の「正しい」思想に従う理由もないという点は留意すべきです。
私たちは被害者、お前達は加害者!特権を享受していることを自覚して自主的に行動しろ!それは当然なんだから感謝など求めるな厚かましい!というのは自由ですが、そんなこと言われて素直に聞く人なんてまずいませんよ。
感謝の言葉が減れば減るほど、手助けする人も減って行くだろうと思います。
繰り返しになりますけど、赤の他人への手助けは当たり前ではないですし、手助けする側にも手助けをしない権利と自由がある。
感謝の言葉一つ言わない人に手を貸す理由はありません。
障碍者は「被害者」かもしれませんが、健常者は加害者ではないのです。
ていうかですね、バリアフリーにしても介助にしても、そのリソースは圧倒的多数の健常者の労働により生み出されてるんですよ。
リソースは空から降ってきてるわけではないし、健常者はリソース供出を拒否はできない。
彼らは別に感謝を要求もしていない。黙って働きリソースを供出している。
なのに、健常者は特権を持つ差別主義者とか言われるんですか?
健常者ども、特権を自覚せよ、というのは別に構いません。
でも、やりすぎると「お前の『我儘』など知るかボケ!」という健常者の民意がその後立派なご高説をなぎ倒すでしょう。民主主義の世界はそうなので。
だからこそ、落としどころを見極めて言い方を考えて話をしないといけないんですけどね。
まあしないのはいいんですけど、上でも書いた通り、世間はあなたの御高説には従わないし、手助けをする人は減るだけです。
どうやら障碍者への合理的配慮が義務化されるそうです。
まあある意味これが一番手っ取り早いですよね。
後進的愚民どもの意識を変えるのは諦めて、手助けを義務化して強要するわけです。
しかし人間も企業も愚かではないので、差別ではない合理的理由をひねり出して対応するだけですよ。
その人の傍に差別認識官が常駐していて、差別者を物理的に罰するとかなら知りませんけどね。
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やって当然の事か、それとも手助けか。
まあこの辺に認識の差は宇宙の果てまで行っても平行線なので、これはあくまで僕の意見です。
でも一つ書いておきましょう。
この車椅子擁護のお正しいセンセイ方のお言葉が全然広範囲での共感を得られないのは車椅子、障碍者には配慮するのが当たり前という反面で、他の属性を差別しているからです。
ようは言ってる側も差別主義者だからです。
容姿や能力、生まれ。
自分では避けがたい要素で生き辛さ、不自由さを抱えている人はいくらでもいる。車椅子の人や障碍者だけがそうではない。
でも全てを救わないわけでしょ。
自分の大事なもの、この場合は車椅子や障碍者は助けて当然という反面、どうでもいい相手は適当な理由を付けて手助けしない。無視することを正当化している。
要するに差別です。
愛や配慮は差別です。
個人レベルでやる分にはいくらでも差を付ければいい。でも
その差別意識を社会正義とか義務みたいな顔して他人に押し付けられても困る
んですよね。
すべてを平等に救わず、障碍者にだけ格別な配慮をする人は、障碍者に手を貸さない人と同じです。
配慮する相手が違うだけです。
要するに
偉そうなこと言うなよ、お前も差別主義者のくせに。
ということですね。
最後に真面目な話をするのなら。
この複雑な社会において、ある問題を解決する時に必要なのは、その問題を解決するための具体的な方策を思案することです。
そしてその実現に向けて行動することです。
愚昧な世間と邪悪な企業にSNSで正義パンチ!をお見舞いすること
ではありません。
ていうか、わるいやつをたおしてはっぴーえんど、そんな単純な世界ならみんなもっと生き易いでしょうね。
目指すべきなのは、差別がない社会なんていう絶対に達成不可能な社会でなく、差別解消の旗印で善意の供出を強いる世界でもなく、細やかな善意を当たり前のように出しそれに受け手が感謝する社会だと僕は思います。