![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153349622/rectangle_large_type_2_797a29029172d5a597f078e0ab77c5a3.png?width=1200)
仕事に遊びにくつろぐ男with下駄……の続き(男性の履かされた下駄とか)!
これの続きです。
結構長い文ですけど、要約するならば
男は確かに社会的に有利な「下駄」を履かされている部分はある。
しかし、男が履かされている「下駄」は、「ハードに稼働し主たる稼得者、大黒柱として家族を養う責任を負え」という社会的圧力とセットになっている。
下駄は下駄でも鉄下駄である。
男性に下駄を脱げ、女性にその下駄を履かせろ、というならその社会圧も同時に引き受けるのが筋だろう。
多分無理だろうけど。
というものです。
で、それを受けてこれ。
例えば「女子枠」などについて話すときに、「女性に下駄を履かせる」という議論がありますが個人的には「男性が履いている透明な下駄を脱ぐ」の方がしっくりくるんですよね。…
— 石倉秀明 | めっぽう気さくです (@kohide_I) September 5, 2024
(https://twitter.com/kohide_I/status/1831609202844033418より引用)
またも登場する「男性は下駄を脱げ!」のトピック。
さて、では少し考えてみましょう。
男性は下駄を履いているとしてその下駄を脱ぐためにはどうするか。
上記した通り、男性の「下駄」は男性に対する社会的圧力とセットになっています。
……そんなものはない!という人は上のNOTEを読んでください。
下駄を脱ぐ以上は、当然男性の大して課されている社会圧……別名では性的役割も解体されなくてはなりません。
なんせ、平等の時代なのですからね。
つまり、男なんだから大黒柱として家族を養うべきだ、男なら奢るべきだ、男ならリードすべきだ、などという主張は
後進的な性差別用語として即座に吊るし上げ
でなくてはいけません。
男は下駄を脱げ、という主張は、そういう性的役割の解体、ひいては社会的な価値観のアップデートの推進とセットでなくては片手落ちです。
「男の履いている『下駄』の有利な部分からは下りてもらうけど、責任は今まで通りな」、なんていう
差別的な発言
をする人はもちろん
![](https://assets.st-note.com/img/1725604816-gxHaUNruGAc7ZQdEkfj1WsDO.jpg)
男性の履いている下駄を女性にも履いてもらう、という手も勿論あります。
つまり、働いて結婚し大黒柱として家族という集団を養え、責任を負え、という圧力ですね。
ただでさえ女性は優秀なので、男性と同じ「下駄」を履けば、さらに社会的なポジションは上がるはずです。
となれば、今まで男性が求められたのと同じく、家族を養え、ハードワークせよ、という圧を受けてもらわなくてはいけない。
繰り返しになりますが、男性の「下駄」は、ハードに稼働し家族を養えという圧とセットになっています。
というより、家族という社会的ユニットの維持に責任を持つべきだという圧があるからこそ、下駄という優位を与えられていた。
下駄を履くならそれも引き受けて貰わないとこれまた片手落ちです。
仮に出産したとしても、家事にコミットする男性が家事育児を担えば、キャリアの断絶はしません。
夫は家を守ってハードワークする妻を支え、職場は安心して出産後の女性の復帰を受け入れてくれるでしょう。
ついでに言いますと、女性と男性の働き方が接近すればするほど、男女賃金格差も減るはずです。
あれは給与水準の差ではなく、働き方の強度の問題ですからね。ジェンダーギャップ指数も改善して進歩的な皆さんもニッコリですね。
つまり二つに一つ。
男性の履いている下駄を無くし、男性に課されている性的役割も同時に解体する。
女性にも男性と同様に下駄を履かせ、男性の課されている、「家族を養え」という社会圧も負ってもらう。
●
とはいえ、上のNOTEでも書いた通り、どっちにもならないとは思います。
男性の「下駄」を無くすけど社会圧は今まで通りか、女性が同じ「下駄」を履かされるけど社会圧は無しか。
私達「女性」は虐げられた被害者だ
という建付けでそうなるでしょう。
どっちのルートに行くかは知りませんけど。
男性に残された抵抗の道は、押し付けられる社会圧に対して断固NO!と声を上げるしかないでしょうね。
最近おきている、「男性差別」への批判と炎上騒動はこれの一つの端緒でしょう。
というか、そもそもこの社会圧そのものが全く認識されてない可能性も十分にあります。
下駄の高さだけ見ていて、その重さは認知されていない。
そういう意味では透明な下駄というのは秀逸な表現です。
恐らく本人的には、履いてる側の男性に自覚がないことを揶揄した表現でしょう。
しかし、透明であるがゆえに傍からはその重さに気づかないという意味にもなってるんですよね。
言いえて妙。
●
ちなみにこのどっちも圧を負うべきという「公平」な社会について考えられる反論は、
子供を産めるのは女性だけであるから配慮すべきだ
というものです。
これはご尤も。
一方でこの主張をするなら、出産能力を使わない女性は男性と同じく扱うべき、となります。
使われない能力は他者にとっては無いと同じ
だからです。
出産能力を使わない女性は、実質的に男性と変わりありません。
反出生主義のように出産をしないと宣言している女性には生理休暇なんて当然なしです。
妊娠不適齢期になった人も男女の差は無し。出産済みの人は勿論除きます。
だってその能力、使わないんでしょ?
使わない能力を評価せよと言うのは無理筋です。
生理とかの女性の身体的特徴は出産というユニークスキルを使うためのコストですが、その能力を使う使わないは本人の自由です。
コストのみが生ずることとなりますが、それは選択の結果です。仕方ない。
生む機械になれとは全く思いませんし、女性は産むべきだとも思いません。
単に、その使わない能力に対する配慮は求めるべきではない、と言っているだけです。
例えば優秀な知的能力を持つ人でも、それを使わずに生きる自由はある。
個人の能力を活かす義務はありませんが、使わないことによる不利益は自由の対価として受忍しなくてはいけない。
それに、生得的に不利な身体的特徴を持っているひとは別に珍しくありません。
持病持ちと同じようなもんです。
産まないなら男性と同じように働けばいい。それが公平です。
第一、男性は下駄を脱げ!、私たちの望みは男性と同等に扱われることだ!、というのはそういうことでしょ?
もう一つ想定される反論は、
女性も稼ぐ共働きが増えているから社会圧を受けている
というものです。
しかし、残念ながらそれは社会圧では全くありません。
共働きで仕事をするというのと、大黒柱として責任を負うのは、ゴーカートのレースとF1レースくらいの差があります。
大黒柱とはその家族という集団の生活に責任を負うというものです。
例えば、配偶者が病気とかで働けなくなっても、その集団の維持に責任を負うのが大黒柱です。
働けなくなったり、気に入らない配偶者を、いざとなったら捨てる選択肢を持つために働いているというのは、大黒柱とは言わないんですよ。
●
……とまあ好き勝手書きましたが、僕自身はここまで「公平」にすべきだとは思ってはいません。
しかし「男は『下駄』を脱げ」論を掘り下げれば、この程度のことくらい気付いて当然です。
「下駄」の有利な部分だけ殊更に見て、課されている社会圧に気づかず、下駄を脱げ「公平」にせよと安易にいうのは、聊か知的に問題があると思います。
もし気付いていて無視しているなら、誠実さに欠けるでしょう。
「先進的」な男性としてSNSでちやほやされるのが目的なら、まあそれはそれでいいと思いますけどね。