ADHDでも変わり者・スノーの人生~幼少期編~
静かな空気をぶち壊す!あなたの雑音スノーノイズです!乀^`・´^/
一般社会だけでなく、障害社会でも変わり者、人として変わっていると言われ続け、ADHDと言われても全く動じなかったスノーの人生
少し変わった視点の世界を覗いてみませんか?
待って!覗いて行ってよ!お願いだよ!!
お願いします!あなたの貴重なお時間僕にください!
0~3歳
平成8年3月に静岡県の某病院で産まれ、前頭禿げの才能はこの瞬間開花した。
幼い頃は女の子の様な顔立ちで、生まれの同年、道端で新聞の「可愛い赤ちゃん特集」で取材を申し込まれ、その特集で最可愛賞を受賞。
特に周りとの発達の遅れは目立たなかったが、周りより色んな事に興味を示した。特に光る物は一段と興味を示し、釣り用具のルアーに手を出して危うく大怪我をするところだった。
食事面では、初子であった為粉ミルクをあまり与えず、次男が産まれる3歳頃まで母乳で育つ。
ここで変態への英才教育を施されてしまいました。
歩き始めた頃は目を離すとすぐにどこかへ消えてしまい、何度か行方不明手前に。あまりに勝手に動き回る為、一度死にかけた事があったのだ。
港でバーベキューをしている時に、少し目を離したらまたいつものごとく、光の速さで消えてしまい、慌てて捜索。
すると、海に漂う服を母が目にし「ん?あれは…」
よくよく見てみると、自分の息子だと気づき急いで引き上げられた。気づくのがもう少し遅れていたら心肺停止もありえた…
更にもう一つ事件があり、3歳頃にエンジンをかけている止まっていたバイクにまたがろうとし、熱々になったマフラーに太ももをぶつけ、太ももが「こげ肉」に…
上手に焼かれなかった事だけが、悔やみであります。
すぐに医者に連れていかれたが、焦げた皮膚が壊死していると言われ完治は不可能と告げられた。こげ肉は食べられませんね。
3歳頃になると同年代の子に人見知りをするようになったが、大人への人見知りはあまりしなかった。保育園に通うようになると、お気に入りの先生にはとても懐き、ずっと後ろから離れなかった。まるでピクミンのように
しかし、同年代の子とはあまり遊ぶ事はあまりなく、みんなで何かをする時間や遊ぶ時間でも、1人で好きな事をしているのが多かった。
家での生活でも1人で何かに没頭するのは変わらない。保育園での出来事を聞いても、1人で遊んでいた出来事しか話さなかった。
ただ、家のお手伝いなどは積極的に行い、何か手伝える事はないか逐一聞きに行った。言う事聞く偉い子でした。
問題のおもちゃの後片付けなどは、遊んだ物は放置し、次の遊び道具へと向かいを繰り返す。言う事聞かない悪い子でした…
後でわかったが、連絡帳等にて発達障害の可能性があるので病院の受診を強く勧められたが、病院には連れて行かなかったらしい。何故だ。
4~6歳
保育園での生活も慣れはじめ、嫌々保育園に行くことはなくなったが、相変わらず1人で遊ぶ事は多かった。この頃になると遊びも少し変わっていき、みんなで折り紙や歌、絵を描くなどの遊びが増えた。
特に絵を描くのには没頭し、周りよりも詳細に描く事にこだわっていた。積み木をやらせれば、お城の完成度はピカイチ。
しかし、折り紙や歌には興味を示さず、折り紙定番の手裏剣や折り鶴は全く折れず、途中まではできてもそれ以降はできなかった。パクパク製造数は誰よりも多く、保育園歴代1位の製造数と言っても過言ではないだろう。
他の遊びも特に興味を示さなかった。この時あやとりを教えてもらったが、複雑な動きのせいか全くやり方が理解できなかった。
歌の時間になると、リズムをとったり、踊ったりするのはできるが、気が向かないと一切歌わず、その場でおとなしくしているのが嫌になり、突然しゃがみこんだり、自分のやりたい事をやりに動いてしまう事が多々あった。保育園歴d(ry
ご飯は好き嫌いが激しく、嫌いな物は維持でも口にしなかった。食べるのも遅く、昼休みの時間帯になっても1人でのんびり食べていた。雨にも風にも、先生の催促にも動じず食べ続けた。だってまだあるもん。
お昼寝の時間では、寝付きがいいとすぐ寝るが、寝付きが悪いと布団の中でずっと動いていた。多動全開の時は友達の布団へ侵入。保育園れk(ry
そんな昼寝の時間も終わり午後の散歩の時間になると、喜んで外に出ていき、散歩の最中はずっと虫を追いかけていた。
何でも捕まえ持ち帰り、保育園に帰ると図鑑で調べていた。連絡帳には「虫を捕まえても保育園に居る間に逃がすようにしてください。」と願い書き。
歩く昆虫博物館の誕生だ。あっ障害者手帳あれば無料で虫提供します。
そんな保育園生活を続け、5歳の頃になるとお喋りも沢山するようになったが、自分が話し終わるとどこかへ行ってしまう。
自分が満足すれば次の行動へ移ってしまうのだ。(今も対して変わらないか)
卒園の時期が迫ってくると、卒園前の物づくりの一環として指で編める手編みのマフラーを作る事になった。このマフラー作りには特に特に特に没頭し、保育園に朝来てから帰るまでずっと編んでいた。
その間外にも遊びに行かず、友達とも遊ばず、永遠と編み続け、結果同級生の倍近く長いマフラーを編んでいた。
マフラー編みは本当に歴代1位の称号を頂いた。
そんな保育園での生活だったが、一度だけ警察沙汰になった事件に巻き込まれた。
外で遊んでいる最中に、保育園前を通りかかった高校生に声をかけられ、おめおめと付いて行き、誘拐騒動へ発展
すぐに先生がいなくなった事に気づき園内を探すも見つからず、途方に暮れていると警察から電話が、交番近くで1人で泣いていた所を保護したと連絡が来た。
家の連絡先を覚えているわけもなく、何とか通っている保育園の名前だけ聞き出し連絡してくれた。
この時の警察官の方へ「覚えがありましたら、ご連絡ください。」
結構な大騒動になったが、本人は特に怪我などもなく、普通に過ごしていたので問題はなかった。
だがそれ以降は1人になるのを極端に嫌がり、怖がるようになった。
思い返せばこの頃から1人でトイレ行くの更に怖くなったな。
家での生活は、本人の行動に特に変わりはなく、好きな事に没頭する毎日だった。しかし、4歳頃から実父からのDVが酷くなり、今まで母に向けられていたのが、子供にも向けられるようになった。
そのことから母は離婚を考えていたが、父親がいなくなる事に抵抗を持っていたと聞いた。
その後、DVによって母が腕を骨折。それを最後に実父と離婚し実家へと引っ越した。
姓が変わり、自分のフルネームが変わる事をこの時知った。まぁ名前が変わらなかったから良いかと、能天気なスノーは現在まで健在である。
引っ越しから数ヶ月後、現在の父が家に遊びに来るようになり、それからまた数か月後に結婚。
当時の様子を父から聞いたが、母は子供の世話をあまりしておらず、お腹が空いたとグズっていても放置。子供が泣いているのになぜ放置するのか聞くと「泣いていても知ったこっちゃない。犬みたいなもん」と言ったそうだ。
これを聞いてこのままでは、子供たちがいつか死んでしまうと思いもあり、結婚する事に決めたそう。聖人父の爆誕である。
それからは両親と自分と弟の4人で生活する日々が続いたが、6歳頃から夫婦喧嘩が始まるようになった。昼夜問わず喧嘩を始めるので、夜中でも喧嘩が始まるとうるさくて何度も起きた記憶が残っている。
母のヒステリックな叫び声は、今でもフラッシュバックするやっかい物だ。
外出先にもかかわらず、ヒステリックを起こしやすい母は、人の目を気にせず怒鳴りつけ叱ってくるので、あまり母と外出はしたくなかった。
保育園の卒園時期も近くなり、小学生へ向けて準備が始まった頃になると、小学校生活が楽しみで、毎日ワクワクしていた。
この頃から学校の勉強についていけるようにと、勉強ができるおもちゃなどを祖母が買ってくれ、それで遊んでいた。
これがまた最強なのだ「式と答えを読み上げてくれる」
そんなおもちゃは、最強の称号を同時に3つも手に入れた。
最強のアイテムであり、最強の勉強法であり、最強の武器である、と。
そのおかげか、四則演算の解き方と時計の読み方は小学校へ上がる前に覚えていた。
だが、字の書き方は全然覚えられず、読むことはできるが、書くことができなかった。字の形が記憶できなかったのか、新しい文字を形成するのは大得意だった。
そんなウサイン・ボルト並みの速さで、計算力を身に着けたスノーが小学生で暴走するのは、また次のお話し。
幼少期編は以上でございます。さぁ次回は、小学生編!
ADHD特性全開のスノーは学校に馴染めたのか!?
次回!!スノー学校に馴染む!
耳にノイズが出る前に病院行けよな!
by滑りのスノー
次のお話しはこちら↓
公開までお待ちください。