ADHDでも変わり者・スノーの人生~小学生編~
静かな空気をぶち壊す!あなたの雑音スノーノイズです!乀^`・´^/
変わり者スノーの人生第2弾です。
小学校という新たなステージに行き、スノーの人生はより濃い物へと変わっていきました。
それと同時に起こる不幸も…
~1年生~
平成14年4月、ドキドキわくわくが年中無休な、小学生生活が始まった。
小学生というフレーズに魅入られ、気分上々。
初めのうちは気分が上がって、舞い上がっていたので、学校に行く為の準備や、朝の登校に全く苦はなかった。
が、ADHD当事者ならわかる人もいるだろう…
ADHDは「スタートダッシュ」は好調でも、だんだん失速していくんだ…
「朝の時間が保育園時代から早くなり、朝起きるのが辛くなり始めた」
登校時の集団登校の時間に間に合わない事が、だんだん増えていく。
当時は遅刻こそしなかったが、登校隊に間に合わないというのが、小学校からも、登校隊の保護者兼軍隊長からも問題視されていた。
そもそも集団登校そのものが難関で、登校道中の色んな事が気になり、どこかへ勝手に行こうとするので、上級生がお兄さんが必ず1人必ず付きっ切りで、面倒を見てくれていた。
そのおかげかすぐにその上級生に懐き。学校に行く事よりも、上級生のお兄さんに会うのが楽しみになっていた。
この小学校は夏休み明けからは、朝の集団登校が来年度までないので、個人で自由登校に切り替わるんだけど、懐いた上級生に勝手に付いて行き登校していた。お兄さん優しいから、付いてっちゃうんだよ。
授業は更に難関だった。
最初のうちは真面目に勉強に取り組んでいたが、3ヶ月ほどすると飽きてきたのか、ボーっとする事が増えていった。
算数と図工の授業は大好きで、集中し取り組んでいたが、国語や道徳といった、教科書を読むだけの様な授業は正直、頭に入ってこない。
何故だろうと最近になり考えてみると、1つ心当たりがあった。それは…
何度も何度も同じ内容をやると、飽きてきて新鮮味が無くなるから。
文章を読むのが苦痛なADHDタイプには、国語や道徳の授業はもはや催眠術でしかない。
授業のたびに襲ってくる眠気、先生のゆったりとした声、日差しのぬくもり…
最強のお昼寝スポットではないか!
でも、寝れば怒られるのは他の生徒が臨床実験済だったので、ビビってできなかった。
だって怖いもん。1年の担任は「鬼」って呼ばれてたから余計怖いじゃん。
クラスメイトとも打ち解けはじめ、徐々に友達もできていき、学校という場所への不安感は、徐々に薄れていった。
友達関係は誰とでも仲が良いというよりは、気が合う子とだけ特に仲が良く、他の子には興味すら示さなくなっていった。狭く広く。
この頃は全くわからなかったが、大人数で遊ぶ事になると、自分が話しの中心にいないと、話の輪に入れていなかった。
あまり記憶にはないが、たぶん1人で別の事を考えていたんだと思う。
今日の夕飯なんだろうとか、来週の仮面ライダー気になるなとか、サザエさんのジャンケン何出るかなとか
放課後の生活は、1年生の間は両親が共働きという事もあり、学校終わりは託児所に通っていた。
でも、遊んでばかりで宿題には全然手を付けないし、1人でどこかへ行こうとする。デイサービスでない、託児所にとっては問題児だ。光の速さで消えていくのだから。
学校終わりは真っすぐ託児所に行かないといけなかったが、寄り道寄り道で探しに来られた事も何度もあった。
そんな寄り道でも事件を起こすのが、スノー流ADHD
この小学校の近くには、消防用のため池あり、飼えなくなった金魚の勝手な放流で、通称「小赤」が繁殖していた。金魚すくいでよく見るやつね。
小赤を救出(ゲット)する作戦遂行の為に、有志二人と共にため池へ
消防用のため池なので、もちろん鍵がかかって柵で囲われていたんだ。
さすがADHDというかASDというか、有刺鉄線が無いのをいい事によじ登り作戦を結構。
網で順調に救出していた、その時!
友達が吸い込まれるように池へ転落。深さは1.2mほどだろうが、小学生ましてや1年生の身長では沈んでしまう…
あれよこれよと、引き上げようとするも力足りず…
このままではヤバい事になると焦っていると、たまたま通りかかった高校生のお兄さんが状況を瞬時に理解し、助けてくれたのだ。
金魚取りが金魚役になってしまった。(ボケるとこじゃない)
後日、先生方からの説教・各親からの説教
学校問題に発展し、再度ため池で遊んではいけないと全校生徒に通達。
突破が簡単な柵には、有刺鉄線が張られ、入り口の鍵も厳重になった。
~2年生~
二年生になると授業にも本格的に飽きてきたのか、ボーっとするのが基本になっていった。
ただ算数だけは異様なほどの集中力で、1年分の計算ドリルは夏休み前に全て解き終わり、掛け算や割り算はいつ始まるのかと先生に何度も催促していた。
提出物を忘れる事が1年生と比べて倍くらいに増えていき、学校から電話が来て親から指摘され思い出す流れが主になってしまった。
ありったけの夢が詰まった、自分の机の中身は常にぐちゃぐちゃで宿題や小テスト、過去の提出物が出てくる出てくる。
自分も忘れていたが、給食の食べ残しなども出てくるようになった。
無くしたと思っていた物の半分くらいは、学校の机から出てくるのが当たり前になっていったが、改善などできるわけもなく、毎月毎月怒られていた。
机の中には絶望しか詰まっていなかったのだ。
時間割などを予定帳に毎日書き込む時間があったが、その時間帯はボーっとしているか1人で手遊びをしていて何も書いていなかった。
4月半ばの予定の次は6月頭という意味不明な連絡帳になっているみたいなのは、当たり前だよな!、な!?
当然翌日の授業がわからないので何を持っていけばいいのかわからないし、必ずと言っていいほど何か忘れ物をしていた。
朝学校に着いてから体育があるのに気づき、学校の電話で親に連絡し持ってきてもらった回数は学年1位だ。
忘れ物が多すぎて大事な提出物や持ち物は手の甲に油性マジックで書くように先生から提案され書いてみたが、手など見るわけないので、全く意味がなかった。
これは経験してる人多いんじゃないかなー
家に帰ればゲーム三昧で宿題にも手を付けない。やっていない事を怒られるのが嫌でやり終わっていると嘘をつき何度もしのいでいたが、担任から宿題の提出が最近悪いと報告が両親に行ってしまい、全てバレてしまった。
両親共に怒鳴る様に叱りつけるのが普通で、言い訳をすれば怒られ、黙れば怒られ、泣いても怒られる。
説教の時間も2時間3時間と長くなっていくので、黙って時間が過ぎるのを待っているのが一番の最善になり、怒られている間は何も喋れなくなった。
これは現在まで変わらず、追い込まれると何も喋れない状態が数時間続く。
秋頃には三男が産まれ二人兄弟から3人兄弟になった。
さすがにネグレクト気味な母も最初は可愛がるように面倒を見ていたが、次第に育児をしなくなっていった。
僕が学校から帰ってくると泣いている弟を放置し、ケータイをいじってゴロゴロしている母の姿が目につくのが増えた。
おむつ臭いよと言えば「気づいたならおむつ変えてよ」
ミルクあげたの?と聞けば「あぁ、あげといて」
泣いていると言えば「じゃあ何とかしろよ」
こいつ本当に母親か?と疑問を持つようになったのはこの頃からだった。
~3年生~
三年生になってからの生活も特に変わらず、同じような日々が続いた。
学校では毎日提出物を忘れ怒られる。家ではその事でまた怒られる。あまり褒められた記憶はなかった。
三年生の担任にはよく怒られていて正直学校生活の記憶があまりない。
怒り方が威圧的で何も喋れなく、その事でも怒られていたのはなんとなく覚えている。
友達と遊んでいた記憶も同じくあやふやであまり覚えていない。
この頃から母は家事もあまりしなくなっていき、家の事は父がほとんどするようになっていった。
母のネグレクト状態も悪化し父のいない間の空気はあまり良くなかった。
父の帰りは18~19時頃が多く夕飯は20時くらいになっていき、同時に寝る時間も少し遅くなっていった。
他の家が夕飯を18時頃に食べ始めると聞くと「早すぎない?」と思うようになったのもこの頃だ。
夫婦喧嘩も増え静かに過ごせる日も次第に減っていき、ご飯の時間以外はあまりリビングに近寄らなくなった。
顔を合わせれば「宿題やったのか!?」と怒鳴られるから逃げていたのもあった。
三年生になって少し経った頃に、地元のサッカークラブに誘われやってみることに。
やってみたはいいものの全然できない。リフティングなんて2回できればいい方。
クラブ以外の時間も少しやってみたが、ボールの扱い方がいまいちつかめずボールが意思を持って自分から逃げてるようにしか思えなくなっていた。
あいつら(ボール)逃げるよね?
そんな自分でも一応クラブメンバーという事で試合には何度か出させてはもらったが、さすがADHD試合時間が長すぎて集中できないし、なにより暇!
ボールがこないと集中できないという重大な欠点が見つかったのだ。
他にも試合中はこんな事をしていた。
・飽きてきてコートの白線上を歩く
・空を見上げクルクルとその場で周りだし宇宙と交信
・立っているのが疲れて隅っこで座る
そんな状態な僕を使い続けるわけもなく即交代。
それならばと監督が、キーパーなら出来るだろう的な事を言い初キーパーに挑戦。
だが、結果は散々だった。
頭くらいの大きさのボールが自分に向かってくる。そんな恐怖からボールにビビりまくり、ボールに向かうどころか、ボールから逃げるスノー。
キーパーポジションについてものの5分で3点を許してしまったのだ。
当然監督は即交代を指示。
監督&チームメンバーから怒られ、更にはメンバー保護者からも文句を言われた。
「ボール怖いのにキーパーやらせるからじゃん!」と言いたかったが、お決まりのだんまりを決め込んで何も言えなかった。
結局その事件を機にサッカーは辞めて、それからもボールに触れるのは無くなった。怖いもん。
~4年生~
四年生からは学校の勉強も段々難しくなっていき、授業についていけなくなり更にボーっとする日が増えて行った。
計算問題は相変わらず先に進めていて、半年分ほど先に行ってしまっていて授業に飽きていた。
うたた寝を始める授業も出てきたので更に怒られる事が増えた上に、宿題の量も少し上がり面倒くさがるように。
この年から次男も小学生に上がり一緒に登校するようになった。
次男は朝ちゃんと起きられたり、提出物を忘れずに持ち帰りちゃんと親へ渡したり、忘れ物はめったになく、俗にいう「しっかりしている子」だった。
そこを比べられてしまい、家庭でも更に怒られていく。
朝起きるのがこんなにも大変なのに何で怒られるんだろう。
忘れたくて忘れているわけじゃないのに何でこんなに怒られるんだろう。
何でなにしてても怒られるんだろう。
そんな風に思うようになっていったが、言った所で怠け者扱いされるだけで寄り添う人は誰もいなかった。
「なまけてるだけ」「注意力が足りない」「もっと集中しろ」
星の数ほど言われ続けてこの言葉が大嫌いだった。
そんなある日母の不倫が発覚し、家庭内はさらに険悪になり即離婚が成立。
しかし親権は母に残ってしまい今後子供たちが心配だと言い、家のすぐ近くのアパートを一室借りそこで父は生活していた。
母は相変わらず家事をやらないので、基本的な家事は次男と二人でこなし、母の帰りが遅くなる日は近所のスーパーで弁当を買っていた。
次第にそんな生活も嫌になってきたので、夜は父の所へ行き寝泊りするようになった。
それが半年ほど続いたので、父は家に来る回数が増え結局1年ほどでそのアパートを引き払い。
離婚した元夫婦と子供3人という異様な家族構成になった。
傍から見れば仲の良い家族に見えるが、実際は離婚した夫婦が1つ屋根の下で生活している。
当時はそれをあまり理解しておらず、父が帰ってきたくらいにしか思っていなかった。
それから母と父は転職し、父の帰りは少し早くなったが、母の帰りは遅い為ある程度の家事は次男と分担。
火の扱いだけは厳禁になっていたので、夕飯だけは父が作ってくれた。
平日の朝は各々作り、昼は給食、夜は父が
土日の朝と昼は各々作り、夜は父
このスタイルは高校生に上がる頃まで変わらなかった
自分で身の回りの事をこなさないといけないので、面倒な歯磨きやお風呂はやらず、好きな事ができる時間はゲームばかりしていた。
三男は当時保育園に通っていたが、父の帰りが遅いと心配になるので、保育園に行き三男と遊びながら父の迎えを待ったりもした。
~5年生~
五年生に上がると少し授業科目が増え、その中で一番興味を持ったのがパソコンの授業。
キーボードさえ打てれば何でも情報が出てくる、その魅力的な箱に興味津々。
当時まだローマ字がうろ覚えで、キーボードの配置も全然わからなくて、父によく教えてもらっていた。
人差し指でゆっくり打っていた頃が懐かしいっす。
授業科目が増えたことで宿題の量や問題の質も上がり、更に宿題をやるのが面倒になりちゃんと提出する日が珍しくなった。
担任は何度も説教をしてきたが、当然聞く耳持たず時間が過ぎるのを待っただけだった。
五年生からは年数回の部活のようなクラブ活動が始まり、料理クラブに所属したが1つ問題があった。
このクラブは4~5人の班に分かれてみんなで食材を持ってくるんだ。
だが、最初にも言ったが年数回で活動日なんて覚えてないし、持ってくる食材すら覚えていない。
「明日はクラブ活動です」と先生から告げられてようやく思い出す。
自分の担当の食材は…と調べようにも、予定帳に書いてない。
こういう何か持ってこなきゃいけないのADHDにやる事じゃないよ!
クラスメイトの話題はゲームやアニメから、テレビ番組や芸能人の話題に切り替わっていった。
当時はアニメ以外のテレビを観ない上に、お笑いもわからない、芸能人にも興味ない、音楽にも興味ない。
そんな状況だったので、同じようにテレビをあまり観ない者同士でしか話さなくなった。
会話自体ちゃんとできる方じゃなかったんで、もともと話す人は少なかった。
家での生活で変わった事と言えば、コンロの使用が解禁され作れる料理の幅が少し広がった。
簡単な炒め物を作れるようになったり、中華鍋の振り方を父に教えてもらいチャーハンを作り始めるようになった。
料理が楽しく感じ、美味しいと言ってくれるとまた作りたいと思うようになったのもこの頃
~6年生~
六年生に上がると面倒事には手を付けないようになり、忘れたり無くしたりは対策が効かないから、考えないようにしていた。
この頃には周りもある程度自分で物事を考えるようになっていて、周りからおかしいやつ認定されるようになっていった。
段々と態度も変わっていき、数名からいじめを受けるようになった。
いじめと言っても暴力はなく難癖つけられたり、影で悪口を言われたりする程度だったが、その影響で仲の良い友達以外は近づかなくなった。
一番やられて嫌だったのは、ばい菌扱いされた事…
触れた触れられたでギャーギャー騒いでるのが耳障りでムカついたりもした。
最初のうちは得意な屁理屈で流していたが、だんだんそれも面倒になり放置するようになっていった。
一々反応してるとイライラと悲しい気持ちで悶々としてくるから。
この時期に両親が自営業を始めようという話しになり、母は仕事を退職。
母は家にいる時間がさらに増えたが、特に何かやる事を決めていたわけではないので、母は半引きこもりのような状態になった。
父と離婚してからは居ても居なくてもあまり変わりなかったが、ずっと家に居ていちいち難癖つけてくるので鬱陶しくなっていた。
出かけようとすると、食器洗いしてから行け、洗濯物取り込んでから行けなどと家事を押し付けるようになった。
学校では陰でひそひそあることないこと言われ、忘れ物をしすぎて担任は忘れ物報告すら無視、家に帰れば自由に行動できない、でだんだんと疲弊していった。
いくら忘れ物しずぎだからって「忘れましたすみません」って言ってるのを担任が無視し続けるのって異常よ。
言い訳したら怒るし、教育ってよくわからない。
六年生の大イベントと言えば修学旅行だ。当然これも一筋縄では行かなかった。
・テンションが上がりすぎて、行きの新幹線で走りまくり、担任に怒られる
・移動中のバスで乗り物酔いし、吐き気でダウン
・集団行動中に1人でどこかへ消えて置いてけぼりをくらいかける
修学旅行中1人付きっ切りで誰かいてほしかった…
そんな小学生生活も終わりが近づいていき、中学生の準備へ。
正直勉強は面倒でいじめもあって、中学生になるのは不安でしかなかった…
小学生編は以上です。
幼少期編と比べて暗い部分が多めになり、ボケが正直思いつきませんでした…
次回中学生編は、小学生編よりも更に暗く深い影のお話しです。
読んでいて自身と重なる方もいるかと思います。
気持ちの揺さぶりにお気を付けくださいませ。
次のお話しはこちら↓
公開までお待ちください。