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キンモクセイ(1) 月の女神

雨が強くなっている。
降り始めからしばらくは、すーっすーっすーっと 間断なく 糸を引くような いかにも細い秋の雨だったのだが・・・

キンモクセイの花が心配で外に出た。 近くの家の庭に、こんもりと大きなキンモクセイが植えられている。 今、その木は緑の葉の中に金色の雪をかぶったような花が満開なのだ。
木の前に立っていると、やはり雨が花を落とし始めている。 あの濃密な香りも雨の中に溶け込み、甘やかな匂いも少し薄れている。 このまま降り続けば、明日はこのあたりの道が、小さな黄色い花々が無数に散り敷いて、すっかりオレンジロードと化すのだろうか。

キンモクセイは金木犀の字が当てられている。 中国原産だ。
その中国では、木犀を"桂"といい、キンモクセイは"丹桂"、白い花のギンモクセイは"桂花"というのだそうである。 なるほどあの中国酒の桂花陳酒は木犀を白ワインに漬け込んで作るのだそうだし、桂花茶というお茶もある。 「桂林」と言う地名も木犀が多いところからつけられたという。

古い中国の伝説で、こんな美しい話がある。
お月様には嫦娥(じょうが)という女神が住んでいた。
仲秋の名月の夜、女神は宮殿の窓辺にたたずみ、何気なく下界を見ていた。 ふと西湖のほうに目をやると、そこは月の光を受けて湖面が金波銀波のさざなみで静かに揺れている。 その様はたとえようも無く美しかった。
女神は感動のあまり思わず舞いだした。 その舞い姿もまたこの上なく美しいものだった。
それを男神である呉剛(ごこう)はうっとりと見ていたが、やがて自分もまたその気持ちの昂ぶりを抑えきれなくなった。 そして、そばに立っている桂花の大木の幹を叩いて女神の舞の拍子をとりだした。 桂花はちょうど満開の花盛りで、男神が拍子を取るたびにぱらぱらと花びらを、まるで金の雫のように散らした。
やがて舞を収めた女神は、こぼれ落ちたたくさんの桂花の花を見て、これもまたなんと美しいのだろう、ぜひ下界の地にも分け与えてあげよう、と思い立ち、月から地をめがけてその花々を、そして後にできた実を降り注いだ。
こうして地上にも桂花が広くゆきわたったという。

黄葉(もみぢ)する時になるらし月人(つきひと)の 桂の枝の色づく見れば  (万葉集 巻十)

秋の月がことさらに美しく金色に輝くのは、月にある桂花の大木が満開の花をつけるから、という話を私も信じよう。

今晩は月がすっかり雲に隠れてしまっている。でも、これを書いていて、今、耳を澄ますと、いつのまにか雨脚が弱くなっていた。これなら花がみな落ち切ることはあるまい。もうしばらく、道を歩いていてどこからともなく漂い流れてくる香りを楽しむことができそうだ。
明日は大木の、満開のキンモクセイが輝き映えるお月様が見えるであろうか。わたしはこの木に「金木精」という字をこそ当てたくなった。


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