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知識からの贈りもの

春は原木しいたけ栽培にとって難しい季節です。露地栽培による春と秋の年2回の収穫を期待する栽培方法なら問題ないのですが、季節を問わずに365日の収穫を期待する栽培方法ですと、春が一番に厳しい季節となってしまいます。というのも、発生可能な榾木の在庫が無くなう恐れがあるからです。森で休ませている榾木はあるのですが、発生可能になるのは十勝だと5月の中旬ごろ。栽培スケジュールを組んでいても、上手くいかないのは生物が相手だからでしょうか。そして、すこしのズレが増幅されて春の不作気味が生まれてしまいます

知識があっても栽培が上手くいかないのは、経済学者が投資をしても100%の勝率にならないことと似ています。違うことと言えば、失敗した理由を知れることぐらい。お師匠さん達には話してないのですが、学生時に微生物学の基礎知識は習得していました。加えて、前職では微生物の培養業務に就くこともありました。おかげで栽培の上手くいかない理由もなんとなく分かり、その対処法も分かるのですが、いろいろと商売的には実行出来ずにいるというわけです。

結局、知識は役には立たないと、そうも思ってしまいますが、そもそも知識が一番に役立つ場面は、人と対話するときだと思うのです。

僕が高校2年生のとき、2学期の期末テストの結果は異様でした。そこで覚えたのは『勉強ってなんだろう』という問い。そのとき出した答えは『勉強=娯楽』でした。そのため、高校卒業後の進路は周りの反対も押し切って、生物系の専門学校へ。理由は高校時に化学と物理を選択したため、生物の勉強は出来ていなかったから。大学へ行って研究したいという欲求までは無く、ただただ楽に一般知識レベルを習いたかったから。中途半端な理由でしたが、この選択をしてくれたあのときの自分に対しては、今でも感謝しています。それはしいたけ農家としてのアドバンテージを得られたのではなく、知識以上に考える幅を広げてくれたからです。

新卒で就職したのは実験動物飼育管理の委託業者。基本的にはブルーワークな仕事なのだけれども、僕は運が良いのか悪いのか、入社3年目からは研究補助的な人材として扱われていました。勤務先は大手やベンチャーの製薬企業、大学の研究施設、地方や国の研究機関。一般的な生物学の知識レベルは習得していたので、研究員さんとの意思疎通ができることから僕の需要は上がり、短期転勤も可能となりました。業務レベルの会話はもちろんのこと、専門的な雑談にものることができました。この経験で得られたことは、知識が対話の幅を広げてくれたこと。それを知ることによって、誰かを理解できないことがあっても、それは自分の知識が足りないからと思えるようになりました。

つまるところ、知識とはコミュニケーションツールなのだと思います。お互いが相手に歩み寄る姿勢が対話では一番大切だと思いますが、その姿勢とは知ろうとすることであり、その欲求の発散だと思うのです。そう考えれば、説明を過度に分かりやすくデフォルメさせることは、ときにはマイナスに働くこともあるのかも知れません。もう一度書くことになりますが、大切なのは『お互いが相手に歩み寄る姿勢』。説明欲求と理解欲求をお互いに反転させながら持ち寄ることが大切であり重要であると。なによりコミュニケーションの楽しさがそこにはあるのかなと思います。

先日書いたステートメント。なるべくわかりやすく書いたつもりではいるのですが、『セントラルドグマ』の単語だけは簡略化しませんでした。

参考:statement

wikipediaから引用すると、それは『遺伝情報が「DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質」の順に伝達される、という、分子生物学の概念である。』ということ。また、『セントラルとは中心、ドグマとは宗教における教義のことであり、セントラルドグマは、「分子生物学の中心原理」または「生物学の中心教義」と呼ばれることがある。』とも記述されています。僕の意図するそれは、著書『利己的な遺伝子』で語られた概念よりも、さらに客観視したものになります。

引用元:セントラルドグマ - Wikipedia

正確には「簡略化しない」のではなく「できなかった」ということだけれども、それでいいと思いました。セントラルドグマの概念は義務教育で得られる知識で理解できるものなので、それ以上の簡略化は対話の崩壊にも繋がると思うのです。

いずれにしろ、持てる知識は持っておいた方がいい。そのことを理解するためにも知識は必要。そう考えると『勉強ってなんだろう』の答えも違ってくるのかなと。どうなんだろう。

そんなことを思う今日この頃です。



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