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世代間のキモチ&詰め込み教育世代のボヤキ

 バブル真っ盛りの時代にハタチ後半を過ごしたのですが、大学院修士を修了して、高校の講師になったので、あまり余禄に与れませんでした。お給料が安くて、バブル景気の会社員が海外に行くのを指をくわえて見ていました。
 その頃、教えた人々は私より干支が一回り下の第二次ベビーブーマーで、一学年の人数が一番多かった学年でした。ひとクラス48人で一学年16クラスでした。三学年揃った全校集会は壮観でした。ちなみにトップ校でしたから、今、裁判官やら検事やら弁護士やらしている人たちを知っています。つまりは超優秀な人々を教えたわけです。

 その後、私は平成4年に高校教諭に滑り込みましたが、教え子の超優秀な人々をもってしても、教職に関しては、平成5年以降十年は続いた採用ゼロには打ち勝てませんでした。彼・彼女らは平成4、5年頃に大学入学しているからです。(みゆ)みたいなアホが教員をしているのに、何故私が教員になれない?と彼・彼女らは理不尽に思ったことでしょう。

 彼・彼女ら第二次ベビーブーマーつまり団塊ジュニアは、バブル崩壊を大学時代に経験し、その後、ずっと続く不景気に海外に行った人々もいます。ドラマで、上海に行って起業しようとした日本女性が現地の男性と恋に落ちる、というTVドラマを見たのは、平成8年頃だったでしょうか。
 この時期、会社員も海外赴任が増え、工場の海外移転で、町工場がどんどんマンションに変わっていきました。

 一方、何とか教員に滑り込んだ私ですが、高校の職場ではいつでも下っ端でした。これは、下の年代が、男女共修の始まった家庭科教員しか入って来ないということもありましたが、私たちの世代はバブル景気の頃に現役就職したので、給料の安い教員なんかにならなくても、という雰囲気も多少ありましたし、バブル崩壊後は人口急減に備え、教員採用がなくなったためでもあります。要するに上の年代はいても下はいなかったのです。
 また、10歳上の世代は、団塊の世代ですから、高度成長期の人口増加に備えて大量採用され、一大閥を築いていました。若い時に景気が良く、企業に簡単に入れたので、「先生でもなるか、先生しかなれない」と「デモシカ先生」と呼ばれた世代ですが、癖の強い人が多く、全学連の名残というか、高校の学生紛争を経験した年代の人々で、会議では毎度演説と論争でしたし、高校の授業でしか論争をしたことがないワタシなんぞは、団塊の世代の人々と論争をしたら、全く勝ち目はありませんでした。

 大学も同じような傾向で、恩師は、私の親世代で昭和ヒトケタ世代、その次の先生方は団塊の世代なのでした。その下は、三つ上の先輩で上手く大学に就職された方がいますが、何でも器用にこなす方です。また、同年代で大学に就職された方々は、阪大、神戸大、東大、早稲田など有名大学出身の性格円満な方々でした。
 実家が大学非常勤を許してくれなかったのと、高校教員採用試験に通ったのが先だったので、私も本を書いてそのうちに、などと思っていましたが、平成になった頃から、大学院生倍増計画などあり、さらにバブル崩壊に際して、就職難の人々を大学院に吸収したため、元々徒弟制度のようだった大学院が様変わりし、団塊ジュニアで溢れかえり、当然ながら就職先はないわけです。いやいや、元々大学院を出たからって就職先があったわけではないのですが……

 団塊の世代と団塊ジュニア世代に挟まれた私は、『団塊の世代が退職したら私の時代だ』と内心思っていましたが、団塊の世代は、高校では再任用で影響力を持ち続け、大学では私学に移って自分の弟子などを自分の所へ呼んできました。
 そして、大学教員公募制の時代になったのですが、よく言われるように出来公募などがあったり、もっと若い人が良い(文科省は大学院定員を増やした手前、その年代の人々を就職させたい)と言われたりで、まあ椅子取りゲームに敗退したわけです。同年代でも上手く就職した方もいますが、博士号をお持ちだったり、国立大卒だったり、さらに言えば人格円満で、ワタシみたいな寅年の🐯喧嘩太郎ではないわけですね。そうは言っても、同年代の研究者にそれほど人数はいない。皆、顔見知りです。

 団塊の世代と団塊ジュニアに挟まれた私たちの年代は、若い時から大学に就職して活躍した人であっても、発言はしても幅をきかせるほどには行きませんでした。すぐ上に団塊の世代がいて、十年前ならブルドーザーのような親世代が頑張っていましたし、第一、団塊の世代とは人数も違いますしね。

 で、私たちは詰め込み教育世代なのです。そして、共通一次世代です。

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みゆ
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