見出し画像

お母さん、私を助けて

私パニック障害みたい

私がパニック障害になったのは、看護師として働き始めて2年目の冬
大雪で、駅までのバスと電車が遅れた。
日勤が始まる時間に間に合いそうがない。
まだ携帯を持っていない時代。
仕事に遅れる。でも電話すようにも、いつ電車が動くかわからない。
私はただただ焦っていた。
止まっていた電車が出発するとアナウンスが流れる。
「ようやくだ」電車の中に入り、ホッとしたと思ったら、身体がおかしい。
心臓がどきどきして、身体が熱い。
首に巻いていたマフラーを外し、コートを脱いだ。
それでも身体が熱い。だんだんと気持ちが変になる。
怖い。ここから出たい。あの時の状況をなんて書いたらいいのかわからないくらい、私は恐怖感でいっぱいだった。
なんとか駅に着き、病棟に電話をした。
主任さんが出て、「大変だったね。こっちは大丈夫だから、気を付けて来てね」優しい言葉にホッとして雪道を急いだ。

その後また電車の中で同じようなことが起こった。これはやばいかもと本屋で調べてみた。
パニック障害かもしれない。その当時は今ほど知られていなかったけど、たぶんそうだと確信した。

病院に行きたい

当時母は精神科に勤めていたので、私の症状分かるはずだと思い、電車での出来事を話してみた。

「お母さん、この前雪が降って電車が遅れた時、急にどきどきして身体が熱くなって、居ても立ってもいられなくなったんだ。その後また電車で同じ感じになったの。本で読んだんだけどパニック障害っていうのに似ているんじゃないかな?病院行ってみたいんだど…」

そこまで話すと、「病院なんか行ったら、一生薬から離れられなくなる。病院なんか行かないでいい。気分転換でもしなさい」と言った。

今まで自分のことを話してこなかった私が、勇気を振り絞って言った言葉だったのに、母から言われた言葉は悲しいものだった。
この時から母に対して、お母さんは私を助けてくれなかった。だからパニック障害が治らなかったと母を憎んだ。そして、その後1度もこの話をしなかった。

地獄のはじまり

病院に行かないまま、パニック障害との生活はつらいものだった。
また発作になるんじゃないかという予後不安がきつかった。だからお守りをたくさん持っていた。最初はあめ。次に飲み物。喉スプレーは、喉が詰まった感じがして、飲み込むことができなかった時に。心が落ち着くチョコレート。緊張すると口が乾くからリップ。爪が長いことが気になって、発作がでそうだから爪切り。耳の中が気になってしまい綿棒。歯に物が挟まってしまい、取れなくて気になりだしたら、不安になりそうになり歯間ブラシ。

発作になっていないのに、なりそうな状態が怖くてしかたがなかった。
特に、電車に乗る時、映画館、美容院などその場にいなくちゃいけない状況がだめだった。電車に乗る時に音楽聞いたり、動画を見てみたり、怖くなったら電車を降りて、大丈夫そうになったら、また乗ってみる。そうやってとにかく頑張ってみた。

つらくなったら「体調が悪いので助けてください。」言えばいいんだというのは分かっている。でも、言えないからパニック障害になったんだと思う。

お母さんのせいだよ

私の結婚が決まり、母がなぜかお墓参りに行こうというので、母と二人で母の実家である沖縄、宮古島に行くことになった。

母と飛行機に乗り着席した後、ざわざわし始めた。その日はお守りの飲み物を持っていなかった。離陸の準備に入るとCAさんも着席してしまう。その前に水をもらいたい。急いでCAさんを呼んだら母から「後にしなさい。」と言われた。その時私は無意識にこう言ってしまった。
「お母さんのせいだよ。」
母は何も言葉が出なかった。そして、私は水をもらって喉を潤した。ホッとして飛行機は離陸した。

私の中に、パニック障害になったのは、母のせいだと思っていることに驚いた。それから、母が一緒に病院に行ってくれれば、もっと早く楽になれたのにと母をうらむようになっていった。


いいなと思ったら応援しよう!