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傷つく必要のない言葉を見極める

「自分を大切にしよう」

そう思っても、なかなか難しい。
何気ない一言に傷つき、そしてご丁寧にその言葉が出てきた背景や意図まで一人でずっと考えてしまう。
放っておけばいいのに。無視すればいいのに。
二度と同じ言葉で私を傷付かせまいと、心と身体が私のために必死で戦ってくれる。

でも、もうその必要はないと自信を持って言える。
それは、「傷つく必要のない言葉」を見極めることができるようになったから。

昔から人の言葉をしっかりと正面から受け止めてしまう性格だった。
どれだけ自分が傷つく言葉を言われても、「この言葉には意味があるのかも」とか、「言った人の気持ちも想像しよう」とか、なんでそんなこと考えていたんだろうと、今思うと本当にバカバカしくなる。
でも、それが周囲の人間とうまく調和するために手段だった。相手の気持ちがわかってこそ褒められる自分なのだと、幼い頃から細胞レベルで思い込んでいた。

「自分の意見を持ってしまうと、人に合わせられなくなる」

だから、あえて自分の気持ちは見ないようにしていた。本当に自分の気持ちがそこにあったのかすらわからない。もしかしたら幻のようなもので、でもずっとどこかで気付いて欲しかったのだと思う。それにようやく気付くことができた。

傷付かなくていい言葉たち

日々を過ごしていると、その場ではわからないのに、後々「あの言葉嫌だったな」と思うことがある。過去を振り返り、嫌だったなと思う言葉をノートにできる限り書き出してみた。

すると、「嫌だな」と思う言葉には共通していることが見えてきた。それは、

人格、年齢、性別、所属など、その人が生まれ持ったものや選択に対して、アドバイスや意見に紛れ込ませて否定するような言葉のこと。

例えば仕事でミスをしてしまったとする。本来であれば「ミス」そのものに焦点を当てて、原因や今後の対応を考えていけばいいはず。
なのに。人によっては「もう社会人〇〇年目なんだから〜」とか、「この会社にずっといるのに〜」とか、「ミス」と直接関係のないことまで口に出してくる人がいる。

それは、意見ではなく「人格否定」にあたると私は思う。昔は「意見」だと思っていた。でも、違うよね。

いい年して〜とか、女性だから〜とか、母親たるもの〜とか、正社員が〜とか、その言葉を言うと相手が反論できないとばかりに使ってくる人。

私は、全部無視すると決めた。
そんな言葉に共感することも、寄り添うことも、私は絶対にしない。そう、決めたのだ。

人間は、自分では決められないことの方が実はたくさんあると思っている。それを直接ではなくても、「意見」に紛れ込ませてご丁寧に言ってくる人は本当に多いし、もちろん自分も重々気をつけようと思っている。

言ってもいい言葉と、そうじゃない言葉。
今までは全部受け止めていたけれど、もうその必要はない。

そして、傷つける言葉に理由はいらない。考える必要もない。
容赦無く、捨てていい。

嫌なことを嫌だと言い、発したくない言葉は発しない。どんな言葉を発するかは、自分で決めていい。沈黙するもの、自由だ。結果的に相手が不快な思いをしても、それは相手の問題。自分が負う責任ではない。期待をされたとしても、その期待に応える責任はない。理解はするけど、受け入れるかどうかは別の話。

この境目を意識して、言葉を発することも、受け止めることも、流すことも、何一つ臆することなくやっていきたいし、もし今傷つく必要のない言葉で苦しんでいる人がいたら、その必要はないと声を大にして伝えてあげたい。



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