ゆっくりまわっていくようだ
タイトルを考えた時、どうしてもこれしか思い浮かばなかったから、大好きなSUPER BUTTER DOGから拝借した。
5月の中頃ぐらいに書いた日記より。
変化を見たくて
受験生だった時、学校と家の往復しかしてなかった。そもそもルーティーンだとか反復練習だとかいうものが、一切続かない僕にとってあの日々は地獄だった。
何をガソリンにしてあの時頑張っていたのか正直もう思い出せない。良くも悪くも意識がなかった。
繰り返しの中で一番僕が辛いものが、景色が変わらないということだ。
生活が固定してくる。同じ時刻の電車で行き帰る。同じ席で同じメンバーで勉強する。
すると、日や曜日の感覚は薄れて、一分一秒の感覚だけが鋭敏になっていく。一日の輪廻だ。
いや、生き返ってない。ほぼ死んでいた。
勉強する場所を教室から図書館に変えたり、違う人と勉強したりしたが、効果はなかった。それをやる体力がなくなるのだ。
でも代わりに季節の変化をなんとなく捉えられる感覚を得られた。
本当に合ってるのか、科学的根拠があるか、調べたことはない。でも今日が何月何日かわかってない代わり、時が経っていることを体が感じる感覚が身についた。
多分、体と頭の変化より、世界の変化の速度が上回ってしまったからじゃないか。今に思えば。
移りを見る
温度や湿度は勿論だけれど、それ以上に空の青の濃さや雲の形、あと風の匂い。工場地帯出身だから、何に対しても灰色に慣れていたのに。
やたらと大きい校舎の5階から見える山とその奥の空。
窓の外の景色の、製図と色合いが微妙な違いを見せることを知った。夕暮れの空が一瞬だけ紫色に変わることも知った。
夏の空より冬の空の方が濃い。緑の匂いが強くなることが春の終わり。
これが季節かと、知ったわけじゃなく気づいた。奥底の不確かな記憶を頼りにして。(体験や知識だけのものを両方含むけれど)
季節の感覚の、中身が埋まる瞬間を、名前がつく瞬間を1年間でたくさん体験した。
劇的に分かるわけじゃなく、なんとなくだけど。とても風流な人間になれている気がして、そんな感覚は、繰り返す地獄の中の楽しみだった。
これから薄れていくだろうけれど
大学生になって、それを強く感じられることはなくなった。意識して感じようと努力するけど、いろんな意味で狂っていたというか、鋭かった頃には敵わないらしい。
でもこの前いろんな予定が立て込んで、ボロボロになってから、休日の大学に用事があって寄ったときのこと。
朧な雲が、青とも白とも言えない色の空の中で泳いでいた。どこか寂しそうで。陽気さを緑の匂いがかき消そうとしていたから「春が終わるらしいぞ」と、誰かが僕に言ってくれた。
普段、人がいるはずの空間に人がいないと空気が澄む。その空白と、忙殺された頭が久々に感覚を呼び起こしたように思われる。
死が近いと、季節を感じられるようになるのかもしれない。
老いに沿って、季節が感じられるようになって、その変化に対する感覚に慣れてしまって、結局、ゆっくり生きて死んでいく、それに近い感覚をぐるぐる回るのだ。
そうならば、またしっかり忘れて、また変わり目を見ることに新鮮な自分になりたい。一瞬そう思ったことを、また忘れていた。
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