見出し画像

役に立たない受験体験記③〜20数年前、1浪を経てまさかの失敗。

 そもそも将来やりたいことが何もない私が大学を目指そうとしていた唯一のモチベーションといえば、「早稲田に入って、サークルでバンドやるんだ!」っていう薄っぺらい夢だけだった。それは高1の頃からぼんやり考えていて、学園祭や模試で早稲田のキャンパス内に足を踏み入れるたびにワクワクしていた。大学に行きたいというより、むしろ”早稲田中退の芸能人”というステータスにとてつもない憧れを抱いていた。実際の早稲田中退の芸能人の方々は決して「ステータス」としてそれを打ち出しているわけではもちろん無いのだが、くさくさしていた高校生の私にはそのアウトローな経歴が「めっちゃロックでかっこいい!」とただ純粋にそう思えた。だからとにかく早稲田じゃないとダメだったのだが(笑)、その薄っぺらな下心だけでは、受験を制すモチベーションとしては弱すぎた。動機が不純ってもんだ。

 志望校に関して、とあるピアノレッスンの日(5歳から習い始めたピアノを受験期も細々と続けていた…というか母に辞めさせてもらえなかったのだが。)、先生から音大受験も考えてみたら?と提案されたことがあった。いやいや、先生よ、何をおっしゃる!浪人生になってから付け焼き刃的に勉強したところで受かるほど音大は甘くないではないか。小学生の頃、将来音大を目指すために…と通っていた地元の公立小学校を辞めてわざわざ私立の小・中・高一貫校に転校し、受験勉強に時間を費やさない代わりにその時間を全てピアノに注ぐのだ、という同級生がいたのを知っていたし、演奏科でなくともそれなりの技術を求められる課題曲と他にも楽典、ソルフェージュ等々音大受験には準備しなければならないことがたくさんある。受験勉強と並行してそれらのことをやるのは、、想像するだけでお手上げだ。せっかくの提案だったが、早々に遠慮した。

 ーー夏期講習から先は真剣度が一気に加速し、あっという間に冬がくる。

 センター試験を皮切りにいよいよ受験本番のシーズンが始まると、なんとも言えない緊張感でピリピリする日々が続く。センター試験は県内の会場を選んだものの、めちゃくちゃ遠くて、しかも雪の残る極寒の日。それだけで萎えた。試験はまあまあの出来だと思っていたが、センター入試で亜細亜大を受験して落ちた。幸先悪し。その後は一般入試の連続だ。受けた順番は忘れたが、明治(文学部)、法政(文学部)、一橋(社会学部?)、日大(文理・芸術学部)、國學院(文学部)、大東文化(文学部)を受け、本命の早稲田の受験が始まるまでにすでにいくつか不合格の通知を受けていた。暗雲立ち込める中、早稲田は教育学部、社会科学部を受け、日程的に一番最後だった第一文学部の受験日までにはもう心身ともにエネルギーが残っていなかった。第一志望の早稲田一文の受験日にとうとう40度近い熱が出た。母は「お尻に解熱注射打ってでも、行かないと後悔するわよ?」となどとスパルタな慰めの言葉を掛けてきたが、もう布団から出る気力はこれっぽっちもなかった。こんな意識朦朧の状態で行ったところで、自分の実力よりかなり上の試験問題を目の当たりにすることを想像しただけでもう完敗だった。そう潔く負けを認めたつもりだったが、その夜、少し熱が下がり、晩ご飯を口にしようとすると、悔しさと不甲斐なさと疲れが一気に込み上げ、涙がポロポロと止まらなかった。浪人生になってもまだ反抗し続けていた親の前で決して泣きたく無かったのだが、どうしても堪えきれなかった。呼吸が苦しかった。

 側から見れば私の勉強の仕方は要領が悪く、単純に準備不足と言われればその通りなのだが、それでもあの時点では人生であんなに勉強したことはないというくらい勉強した。受験票の写真が痩せて青白い顔をしていたのを見て、1年間よく頑張ったよ、私、と思えた。しかし、結果的に受験した全ての大学から見放されてしまった後、私はただの燃えカスだった。「1浪してもどこにも入れなかった…」この絶望感は初めてだった。中学・高校にも居場所がなく、さらに大学にも行けず、就職する勇気もない。生きた化石からの燃えカス。「もうどこにも居場所がない、生きてる意味あるのかな…。2浪するしかないか?そしたら1浪の時以上に頑張らなきゃいけないけど、、あれ以上に全力でもう1年頑張るなんてできるのか…?」などと考えながらも、ふらふらとまたYゼミの新学期講座申し込みの受付に並んでいた。

 だが、私のその姿を見て親がさすがに黙っていなかった。燃えカスの私をよそに両親が私の進路について揉め始める。そして、出された答えが「留学はどうか?」だった。

(次回へ続く…)


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集