常識が私を疲労困憊させる。
私はきっと日本人の常識から外れているのだ。
冠婚葬祭。
お盆や彼岸。
季節の行事。
夏休み冬休み。
このことは少なからず私のストレスの素になっている。
日本人にとって当たり前でとても必要なことみたいだ。
いや、日本だけじゃない。人間の世界では普遍的な行事なんだろう。
これらがいつの頃からか私にとって鬱陶しいことなのだ。
なんなら不必要。要らない。やりたくない。
私は元来、人付き合いが得意ではない。
集団が苦手である。
集まりは2時間が限界である。
そんなわたしは人並みに世間に紛れ、恋愛し、結婚し、子どもを産んだ。
子どもが小さいうちは実家や義実家がなんやらかんやらとお膳立てしてくれていたが、ひとつ行事が終わるごとに非常に疲労困憊していた。
会社の仕事の段取りなどはチャキチャキやって楽しく忙しく働いているのに「家族」や「実家」が絡むととたんに出来の悪い新人みたいになってしまう。
別に環境が悪いわけではない。
むしろ、三親等以内にややこしい種類の人間は1人もいない。
それだけでも恵まれていてストレスは無いはずなんだ。
たぶん私に問題がある。
私は自分が死んでも骨は灰にしてゴミ箱に捨ててほしいと思ってるような人間だ。
薄情でわがままなのだ。
私は日々の仕事と唯一気を使わずにいられる夫との生活だけで良い。
それで精一杯なのだ。
たまに1人で山に行き、1人で映画に行き、たまに2人で旅行して好きに生きたいのだ。
こないだ嫁ちゃんの祖母が亡くなった。
知恵袋で世の中の香典の常識を調べてから一般的だと思われる額を
息子に預けたがもうそれだけで疲労困憊である。
「親として」「嫁として」の世の中の義務が発生したときに私は疲労困憊する。
それなら子どもを作らなかったら良かったじゃないか。
なんで結婚したんだ、って話になる。
なんで結婚したかというと発情期だったからだ。
私の生き物としての発情期に夫となる人がいた。
だから求めあった。
生き物として普通のことだ。人間だから結婚してしまった。
デフォルトが笑顔で愛想の良い私がこんなことを考えてるなんて家族もびっくりだろう。あれは嘘の顔なのだ。
世間の常識に対応できるくらいには演技できているのだ。
裏でいつも疲弊している。
こんなことを書けるnoteがあって良かった。