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お葬式は摩訶不思議

義父をようやく荼毘に付すことができた。
正月に亡くなってから1週間火葬場待ちだった。うちの夫が喪主になり、義弟と協力して家族葬で送り出した。

家族葬だというのに、どこから聞きつけたか、義父の友人が3人やってきた。
義父の会社関係の人もきた。
義母は少し怒っていた。
そりゃそうだ。家族葬の意味。


義父は京都にお墓があるが、この度は葬儀社にその場限りのお坊さんを派遣してもらった。

そしてその派遣料は12万円。
四十九日の満中陰法要もプラスしたので更に4万円。合計で16万円渡したようだ。

私は日本の、この仏教的な葬儀にとても懐疑的な感情を持っており、どうにかならんかと常々感じている。

亡くなった人を「あの世」に送ることは否定しない。

人が亡くなったとたん、仏壇とお墓の問題が出ることが不思議なのだ。

仏壇はあの世とこの世を繋ぐ通り道ということだ。そういう世界観があることで残された者たちが生きていけるのなら素晴らしいことだ。

でも仏壇があることで何故かお寺が絡んでくることに違和感を感じる。

何故お墓も仏壇も寺の管理化になってしまうのか。そして何故、お経はお坊さんに読んでもらうのか。

「誰でも読めるお経の本」があればそれを家族が読んであげるのが一番良いのではないか。仏とは。

日本国民はほぼ、にわか仏教徒だ。
日頃から皆がお経を唱えているわけではない。人が亡くなると急に湧いてくる。
「うちは浄土真宗だ」とか「うちは日蓮宗だ」とか急に慌てだす。もちろん家に守るべき立派な仏壇があり日頃から先祖に感謝を捧げている家庭もたくさんある。地域にもよるだろう。

うちの実家のなんちゃって仏壇(私の祖母の)は埃をかぶっており、母が元気なときはご飯を供えていたが、母が施設に入ったが最後、線香はおろか、花も御膳も供えられていない。
父にとっては自分の母の仏壇というのにだ。

そんな場所に盆や彼岸に魂が帰ってくるなんて到底思えない。さっさと燃えないゴミに出せば良いのにと思っている。

日本人はあるときは神さま、あるときは仏さま、都合が悪くなると神や仏に祈り出す適当な民族だ。 

その昔、平安の絶望的な世に末法思想が広まった。南無阿弥陀仏と唱えれば仏になれるという心の救済案は必要だったのだろう。いつの世も人は何かにすがることで生きていける。

仏教という心のインフラは貴族のみならず、庶民をも巻き込み定着していった。

ヨーロッパで教会が権威を持ったように
日本では寺が権威を持つようになる。
出る杭は打たれる日本人社会で仏教は当たり前のものとして浸透していく。
ただでさえ染まりやすい民族だ。
異を唱えるなんてもってのほかだったろう。

私と夫は義父の遺骨は義母の気の済むまで手元供養にすれば良いと思っている。

京都にあるお墓とやらは年に12000円の管理料を払っているらしいがそこに入れる気は無いらしい。いつの日か、どこかに合祀してもらうという。

お願いだから元気なうちに決めてね…と心の中でつぶやく。


私は自分の遺骨を持ち帰らさないつもりなのだが、子どもたちがどうしても嫌だというなら100歩譲って循環葬なら納得できるかも、とほんのり思っている。

能勢の山に循環葬の場所がある。
ホームページを見る限り、その世界観は私の持っている価値観と一致する。
一度、能勢の山は登りたいとも思っていた。
1人48万円。夫婦で90万。
これは高いのか安いのか。
私の金銭感覚ではこれは少し高い気がする。
もう少しハードル下げてもらえないだろうか。1人20万くらいなら考えないでもない。

まぁ世の中、すべて金である。


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