見出し画像

2024年上半期の国内文芸を振り返る! 第171回直木賞候補作予想〜!

 ごきげんよう。あわいゆきです。

 来たる6月13日、第171回芥川賞&直木賞の候補作が発表されます。
 半期に一度の候補作発表を人生の楽しみにしながら生きている私にとって、芥川賞と同様、直木賞の候補作発表は節目であり誕生日のようなものです。

 今回も今回とて、2024年上半期に刊行された国内の小説のなかから、「直木賞未受賞作家の単行本小説」をいくつか紹介していきます!
 とどのつまり、直木賞路線で候補に上がるかもしれない作品を紹介していくかたちです。
 記事の最後には個人的な直木賞の候補作予想も記しています。あまり読めていないのですが、直木賞を心待ちにする一助になればと思います!


 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。

 はじめに上半期の注目作品を振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!
(SNSに投稿した感想のメモを転載するかたちでまとめています)


一部作品はネタバレを含むので、未読の方は注意してください。


振り返り

現代にはびこる経済の格差と、解体されていく共同体

 豊かになるはずだった資本主義が行き詰まり、貧富の差が広がり続けている日本。経済的な貧しさを自己責任として切り捨てることで個人による競争をさせようとする思想も重なり、古くからの「共同体」についてもその是非が問われるようになっています。
 経済格差について描いた小説が、前期は特に目立った印象でした。

 貫井徳郎さんの「ひとつの祖国」(朝日新聞出版)はその最もたる例でしょう。第二次世界大戦後に日本が東(共産主義)と西(資本主義)に分割され再統治された設定を活かして、現代日本が抱える貧富格差や行き詰まりを、より明快に描き出しています。

 善良な男性がわけもわからないままにテロ組織の陰謀に巻き込まれていく展開がエンターテイメントとして面白いのはもちろん、よさが目立つのは現代の社会構造をどう変えていけばいいのか、読者に思考を促すスタンスです。資本主義批判の際に代替となる社会イデオロギーをひとつ提示し、それをシミュレーションするかたちで現代社会を突き詰めていく姿勢がとられていました。この取り組みにはただ現状を批判して嘆くだけではない、社会を変えていこうとする力強さがあふれています。

 また、戦後の資本主義社会は大量生産・大量消費のサイクルによってあまたの「ゴミ」を生み出してきました。そこに着目し、サイクルから弾き出されてしまった人々の生活を描くことで現代的貧しさを浮き彫りにさせるのが朝倉宏景さんの『ゴミの王国』(双葉社)です。ゴミ清掃の職員として働いている潔癖症の主人公の男性、家がごみで溢れかえっている女性の一見して相容れない恋愛模様を描きながら、「ゴミでつくったアート」を共同制作していくことで競争させようとする社会に立ち向かっていく過程が秀逸。
「仕事で回収したごみの種類」から見えてくる地域による貧富の格差など、現代社会が抱える歪みに対する目配せも的確にされています。

 そして生活を描いた阿部暁子さんの『カフネ』(講談社)は上半期の注目作。弟を喪った苦しみから立ち直れず、ゴミが散乱する荒んだ生活を送っていた女性が弟の元恋人と出会うことで心身を回復していきます。生真面目な二人が繰り広げる軽快な掛け合いで物語を牽引しながら、「生活を大事にする」原始的な喜びに気づいていく一作となっていました。
 一方、「どこまで寄り添っていいのか」と他人との距離感をはかるコミュニケーションのありさまは、非常に共感できるものとなっています。現代社会でひとと関わっていくことの複雑さと難しさ、そして大切さがバランスよく描かれている、完成度の高い一冊。
 

 そして、戦後の目覚ましい経済成長の背景にあった「外向きな男性性」を要求するレースに脱落し、いわゆる「弱者男性」として社会から弾き出されてしまった男性の内面を見事に描いたのが葉真中顕さんの『鼓動』(光文社)。戦後の資本主義社会が発展の代償に撒いてきた諸問題を指摘し、その果てにある現代の貧困や8050問題を描いている本作は、ひとりの年代記でありながら優れたミステリーとしても成立しているのが鮮やかでした。
「引きこもれる場所がほしい」人間に対して「弱者男性」のような蔑んだレッテルを貼るのではなく、どう社会の構造を変えていけばいいのか——と問題の根本を突きつけます。

 また、「弱さ」について言及されることの増えた現代で、あえて「弱く」在ろうとする大衆心理をエンタメミステリとして描いているのが大前粟生さんの『チワワ・シンドローム』(文藝春秋)です。「弱さ」を利用する人々の可視化はもちろん、 そうした人々を利用することでさらなる「弱者」になろうとする捩れや、さらにそれすらを可愛いと思いながら利用する「強者」まで描くことで、現代社会の複雑な構造を言葉にし尽くそうとする胆力は相当。

 そして庇護される存在になるのは傷つかないための手段として認められるべき一方、構造に対する従属でもある——弱くあろうとするのはほんとうに現代社会をサバイヴするための最適解なのか? という視点もフラットに描かれており、現代で取り沙汰される「弱さ」のありかたを、わかりやすく提示しています。

一方、貧富の差が拡大する現代日本において「強者」とされる裕福な人々もいます。麻布競馬場さんの『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)はそうした人々を語り手にしながら、不可逆な人生をどう主体的に生きていくか――あるいはそれに伴う犠牲とどう向き合うか――という問いかけを、「成功し続けてきた」人間のプレッシャーを重ねつつ描いた連作短編。
 提示された問題には答えられて当然、という状況からの挫折を通して行われる「どう生きていくか」の問いかけは普遍的で、貧富の差を基にした「強者・弱者」による分断自体がナンセンスであると気付かされます。

 そして経済格差が目立つ社会における「結婚」のあり方を描いたのが、伊吹有喜さんの『娘が巣立つ朝』(文藝春秋)。急ピッチで結婚式の準備を進めていくことになったカップルと、女性側の両親に待ち受ける現実的な困難を平行して描いていく本作。二世代の視点から“夫婦”として共同生活を営むことの意味を描くことで、結婚という答えが出ないテーマをひとつの結論に決定づけず、多角的に夫婦関係の在り方を掘り下げられていました。

 また一本の物語でありながら、どちらの夫婦関係も主役としてバランスよく立たせているのがテクニカル。現実を容赦なく描きつつメインとなる登場人物いずれにも感情移入ができるようにされており、物語を成立させるための細かいところで技巧が光ります。感情移入のしやすい、貫禄を感じさせる家族小説でした。

 また、そんな「家族」の在り方についてミステリー要素交えつつ描いているのが浅倉秋成さんの『家族解散まで千キロメートル』(KADOKAWA)。車に乗って父親が盗んできたものを返しにいくドタバタコメディのかたちでありながら、『家族』に対してひとびとが抱いている固定観念を大胆に解体していきます。

 こちらは伊吹さんの作品と比べると、メインの登場人物たちがクセの強い、共感できないかもしれないひとたちで占められていました。ただ、愛着から遠ざけられている登場人物の性格が、それぞれ納得できるよう描かれているのがお見事。 子ども三人が後天的に培った「真面目さ」も違うかたちで描きわけされており、人物造形が上手です。エンターテイメントに振っていた過去作よりもテーマの掘り下げに軸足を置いている一方、テーマをうまくミステリの枠組みに落とし込めており、力量のある著者の新境地ともいえます。


 湊かなえさんの『人間標本』(KADOKAWA)も、家族のあり方をミステリーとして描いています。蝶の生態を専門とする研究職に就いている男性が、少年たちを蝶のように「標本」としていくおぞましい手記からはじまり、どこに連れて行かれるのかわからない緊張を抱かせるようになっていました。
 そして手記を「読む側」としてあてられている大衆をアイロニカルに描きながら親→子への人格の継承についても思索されていき、 「血の呪縛を断ち切る / 引き継ぐ」あまたの物語とは異なる、独自の味わいとして成立させています。


 また、「会社」という共同体のなかに、複雑な社会を凝縮した描き方も存在します。幼馴染のいる会社へ転職した女性が語り手である寺地はるなさんの『こまどりたちが歌うなら』(集英社)はなかでも秀作。誰ひとり蔑ろにされることなく、「ここにいる」と声を上げられる居場所をどうつくればいいか。 ただ理想論を反映させるのではなく、一人ひとりの違いと向き合いながら実現に近づけていく、ルールをつくる過程を描く小説として面白いです。
 ルールをつくっていく(変えていく)うえで相手にどこまで求めればいいか、と試行錯誤するなかで、 求めすぎる/まったく求めない、のような極論(それに伴う両者の断絶)から解放されていくひとたちのすがたが丁寧に描かれていました。


 そして、雫井脩介さんの『互換性の王子』(水鈴社)は中堅飲料メーカーの御曹司がいきなり何者かに誘拐されて半年間ものあいだ地下に閉じ込められる、過激な始まり方をしながらも、物語の軸は「会社の命運を賭けた新商品を開発する」お仕事エンタメ。そこに後継者争いやライバル企業の妨害、恋愛感情もろもろが絡んできてドラマをうんでいきます。商品開発の過程が緻密で、オーソドックスなエンタメとして面白いため、ドラマ映えしそうです。

さまざまな状況をうつしだす短編集

 今期に刊行された短編集からも、注目作をいくつか紹介していきます。

 まずは坂崎かおるさんの『嘘つき姫』(河出書房新社)。現実から少しずらした設定を短い枚数に過不足なく収める世界観の説明力と、関係性に起伏を作り出す文章の配置、難解にならない程度の行間をつくることで関係性に奥行きを出す描写力が冴え渡っている九編でした。
 基本的にどの短編も自らの成長といった要素より、他者への眼差しに重きが置かれています。他者との関係をエンタメ的に何度も転がしていきながら、関係性の核心にある感情までは絶対に言葉として描かないスタンスを徹底しているのが、一読した際に抱くジャンルに囚われない幅の広さを演出していました。
 芥川賞の路線でも「海岸通り」で注目されている作家ですが、今後は宮内悠介さんのように、さまざまなジャンルで名前を見ることになるのではないかと思います。

 そして柚木麻子さんの『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)は、登場人物たちが誰にも脅かされない居場所を見つけていく力強い短編集。皮肉まじりの作品や真正面からテーマを描いている作品もあり、語り手となる人物たちのプロフィールも多種多様。非常にバラエティ豊かなラインナップとなっていました。

 川上佐都さんの『今日のかたすみ』(ポプラ社)は〈人との暮らし〉をテーマに描かれた、一見してオーソドックスな連作短編集。 でありながら、思わず感嘆の溜息を漏らしてしまうほど、日常生活における〈気づき〉の着眼点の鋭さ、描写のさりげなさが卓越しています。大きな起伏はないのに読み味抜群の、優れた一冊です。


「エンターテインメント」であることを徹底した作品たち

 直木賞は「新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)が対象」と、日本文学振興会のホームページにも明記されています。
 一方で、読者をひたすら楽しませる物語を上手く成立させるのは至難の業。そんななか、さまざまな手法から読者を楽しませるエンターテインメントに特化した——なおかつそれに成功している——作品は、名作揃いです。

 11月末の刊行なのでイレギュラーではありますが、山本周五郎賞を受賞した青崎有吾さんの『地雷グリコ』(KADOKAWA)はその典型。グリコやじゃんけん、だるまさんがころんだ、のようなみんな知っている運に偏ったゲームを改変することで頭脳戦にしていく青春ノベル。漫画・アニメを中心に扱われてきた題材を小説の媒体でわかりやすく面白く、なおかつオリジナリティを感じさせるように描かれた、小説ならではのエンターテインメントです。
 どのゲームでも遊んでみたいと思わせる魅力があり、 物語の展開もキャラクターの掛け合いも軽くてコミカル。誰でも楽しめるエンターテインメントの極地です。

 また、ジャンルに縛られないエンターテイナーといえば森見登美彦さんの『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)。「ヴィクトリア朝京都」なるオリジナルの舞台でスランプに陥ったホームズを主役に、幻想としてもフィクション論としても(非)探偵小説としても飛翔させていきます。 探偵小説というよりはメタフィクションを主軸に置かれている物語ですが、複雑にならざるを得ない世界観や物語構成を読者に伝える筋書きのわかりやすさ、エンターテイメント性と両立させる技術が卓越していました。
 ホームズを知らずとも楽しめ、ホームズを知っていると「コナンドイル作品の再考」としてもより楽しめます。

 そして荻堂顕さんの『不夜島』(祥伝社)はサイボーグ技術が発展したIF世界、終戦後に密貿易で発展した与那国島が舞台の、過去と未来を交錯させたサイバーパンクです。前作『ループ・オブ・ザ・コード』からアイデンティティにまつわる思索を引き継ぎつつ、ギャンブルあり冒険あり銃撃戦あり肉弾戦あり、要するに“なんでもあり”の超弩級エンターテイメントになっていました。

 戦時中〜戦後の統治下において固有のアイデンティティが喪われかけていた沖縄や台湾に焦点をあてながら、SF要素としてサイボーグ技術を混ぜ込むことで過去のなかに未来を創り出し、「元の相貌・肉体を喪っても私は私足り得るのか?」という点に切り込んでいく本作。 出身も目的もばらばらな4人(5人?)が損得勘定で冒険をするうちに仲間意識を抱く王道展開も、土地/国家への帰属ではなく人単位での繋がりを重視する流れと噛み合っています。
 二段組でありながらユーモアも豊富で冗長さは感じず、展開も二転三転していく読み応えたっぷりのSFです。

バリエーション豊富な時代・歴史小説

 前期に比べると、上半期は時代・歴史小説からも注目作が多かった印象があります。

 なかでも出色だったのは蝉谷めぐ実さんの『万両役者の扇』(新潮社)。女形の今村扇五郎を中心にして、「芸」によるフィクションの表現にこだわりすぎるあまり現実を軽んじて扱い、やがて現実から離れていく人間たちの生きざまを連作短編の形式で描いています。独自の舞台に仕立て上げる洗練された文体、各々に与えられた“役”の掘り下げの巧みさ、連作短編として美しすぎる幕閉め、この小説自体が壮大かつ圧巻の「芝居」として成立している、完成度の高い逸品です。

 役割や台詞を強制される「舞台」へと現実を異化してしまうことで現実にあるはずの自由意志を置く場がなくなり、いっそうのこと「舞台」に注力するしかなくなる……というおそろしい展開を描きながら、いったいどれが本性なのか、と最終的に問いかけていくところが秀逸。 文体と描写で巧みに演出されるおそろしさも相まって、どこまでも深く人間の内側に潜っていく感覚を味わえます。また、「現実を見失う」物語にありがちな「現実をどう取り戻すべきか?」という話の流れになっていくのかと思いきや、もっと大胆かつ徹底した(それでいて“現実”の強大さを示す)展開が待ち受けており、意表の突き方もとてもよかったです。

 徹底具合は潔くいっそ清々しく、おそろしい話なのに読んでいて気持ちいい、エンターテイメントとして素晴らしい文句なしの小説でした。

 また、すでにベテランの貫禄すら感じさせる砂原浩太朗さんの『夜露がたり』(新潮社)は、著者初となる独立した短編集。白が目立つ神山藩シリーズの表紙から一転して、黒い表紙が不穏さをにじませます。実際、後ろめたい感情に起因する人間関係のもつれを軸に描いており、これまでの読み味とは異なるものも多いです。
 ただ、いずれの短編もとっつきやすい内容で読みやすく、なおかつ手応えのある余韻で締めくくられているのも確か。どの短編も等しく面白い、安定した著者の力量を再確認させる一冊となっていました。

 長編の歴史小説だと、赤神諒さんの『火山に馳す 浅間大変秘抄』(KADOKAWA)は注目作。 天明大噴火で大きな被害を受けた村が疑似家族を形成して復興へと進んでいく、その過程を史実に基づいてなぞっていきます。 生き残った百姓の境遇はフィクションを主としているはずですが、彼ら / 彼女らがそのまま核家族を再構成して終わり、とはならず、それぞれどう生きていくかを丁寧に描いていく塩梅がよいです。

 そして物語の随所で妖怪談義が挟まれるのも読むのを飽きさせず、当時の天災に対する神への信仰の強さを実感できるようになっていました。主人公の根岸と田沼意次の、違う立場からヒトを眼差し続けたゆえのすれ違いも、この関係性だけで一本書けるのではないかというほど優れています。テーマの扱いかた、人間ドラマのつくりかた、史実の活かしかた、いずれも白眉な一冊。


 また、佐藤巖太郎さんの「控えよ小十郎」(講談社)は片倉小十郎景綱の視点から、伊達家の存亡を描いていきます。個人的な野望と天下全体を見据えた治世とのあいだで感情を揺れ動かす小十郎のすがたが印象的。クエスチョンマークやエクスクラメーションマークを用いない淡々とした文体が、小説全体を綺麗に引き締めています。

 歴史・時代小説からはやや離れますが、岩井圭也さんの『われは熊楠』(文藝春秋)は南方熊楠の生涯をたどる「個人の伝記」でありながら、物語のスケールが無限に広がっていくようになっている意欲作。ひとりの人間の内実に迫る小説がどうしても内側の世界にこもってしまいがちなところ、本作の熊楠は「世界」を知る営みによって「我」を知っていきます。 そのため、自らを模索するにつれて「世界」がどんどん広がっていくのです。
 特に、家庭をつくって「人間」になってから再び研究者としての本懐を取り戻す(そして己の成し遂げてきたものを回顧する)熱い流れと、終盤〜ラストにかけてのダイナミックさは、作中で提示されてきた要素を鮮やかに回収していて綺麗。
「我とはなんぞや」という問いかけに熊楠だからこそのアンサーを示した、期待を裏切らない一冊です。


予想

展望

 下世話ではありますが、直木賞候補に何が入るのかの予想も立てていこうと思います。
 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。


 まず、直木賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、例によって文藝春秋さんから刊行されている作品の検討。

 今回は直木賞に三度候補入りしており、三年半ぶりの新作となる伊吹有喜さん『娘が巣立つ朝』が最大の目玉でしょうか。前作『犬がいた季節』も当時大きな話題を集めており、注目度も高いです。

 また、早いペースで多彩なジャンルの作品を発表している岩井圭也さん『われは熊楠』も、著者の集大成とも呼べるこの作品で初の候補入りを果たしそうです。物語のスケール感も直木賞にぴったり。

 また、基本的に時代・歴史小説が一作は候補に入る直木賞。今期は時代・歴史小説が豊富だったので、二作品以上が選ばれる可能性は高そうです。

 特に蝉谷めぐ実さん『万両役者の扇』は著者初の短編集でありながら、完ぺきといっていい出来栄え。『おんなの女房』で吉川新人賞を受賞してから初の完全新作ということもあり、いま最も期待されている時代小説作家のひとりでしょう。

 また、大藪春彦賞の受賞後第一作となる赤神涼さん『火山に馳す 浅間大変秘抄』もかなりあり得そう。作中のテーマも現実がいま置かれている状況とマッチしたものとなっています。別作者ではありますが、前期の候補作『まいまいつぶろ』(著 : 村木嵐さん)と時代設定が地続き。

 残る一作は、いまやベテランのひとりでむしろ受賞していないのか、と思わせる、森見登美彦さん『シャーロック・ホームズの凱旋』が入るのではないかと予想します。万城目学さんが受賞した勢いに続いてほしいです。

 というわけで、今回の予想はこの五作品です!ででん!

第171回直木賞 候補作予想

赤神 諒『火山に馳す 浅間大変秘抄』(KADOKAWA)
伊吹 有喜『娘が巣立つ朝』(文藝春秋)
岩井 圭也『われは熊楠』(文藝春秋)
蝉谷 めぐ実『万両役者の扇』(新潮社)
森見 登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)
(五十音順・敬称略)


 また、今回は発表までに読めなかった作品も多かったので、紹介していない(私が読めていない)作品から、注目作のリストも掲載しておきます。

〈list〉
早見和真『アルプス席の母』(小学館)
長浦京『1947』(光文社)
月村了衛『対決』(光文社)
柚月裕子『風に立つ』(中央公論新社)
原田マハ『板上に咲く』(幻冬舎)
彩瀬まる『なんどでも生まれる』(ポプラ社)
高瀬乃一『春のとなり』(角川春樹事務所)
金子玲介『死んだ山田と教室』(講談社)


 ともあれ、あとは直木賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。

 それでは、ごきげんよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?