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第168回芥川賞の受賞作予想〜!

ごきげんよう、あわいゆきです。

先月、第168回芥川賞の候補作が発表されました。


以前に投稿した候補作予想の記事では5作品を予想に挙げ、「ジャクソンひとり」「グレイスレス」の2作品が的中。予想としては不甲斐ない結果だったのですが、個人的好みツートップとして挙げていた「この世の喜びよ」「開墾地」が両方とも候補入りするサプライズがあったので、予想が当たるよりもうれしい結果に。

そしてあとは1月19日の受賞作発表に向けて予想をするばかり!……なのですが、先ほど挙げた候補作予想の記事ですべての作品は紹介し終えています。
noteに手をまわす時間のゆとりもなく、受賞作予想はツイートだけで済ませようと思っていたのですが、せっかくなので記録には残しておきたいところ。

そのため今回は候補作予想の記事から文章を転載したうえで、「受賞するかどうか」を観点にそれぞれ追記していこうと思います。
いちど投稿した文章を繰り返す形になってしまいますが、ご了承ください。

そしてここまでの文章も、直木賞の受賞作予想のnoteからテンプレートを使いまわしています。何卒……。

それでは一作品ずつ紹介していこうと思います!

作品紹介

安堂ホセさん「ジャクソンひとり」(文藝冬季号)

文藝賞受賞作。描かれるのはマジョリティがマイノリティを集団としてカテゴライズすること、その暴力性と、マイノリティ個人の当事者性の境界線です。主な語り手であるブラック・ミックスのジャクソンは、着ていたTシャツにQRコードを細工されます。読み取ると再生されたのはよく似た男が映るポルノ動画。これによって冤罪をかけられたジャクソンは三人の似た境遇の仲間と出会い、入れ替わりを行って社会に復讐をしていきます。

ここで重要なのは、入れ替わりに気づかれない要因がマジョリティの視点によって「集団」としてカテゴライズされてしまっているから、というところ。ジャクソン含めた四人は「ブラック・ミックス」という人種にカテゴライズされてしまい、有ったはずの個人を、当事者性を蔑ろにされます。「入れ替わり」を描いた作品でもそれによって発生する加害性などではなく、なぜ「入れ替わり」が通用してしまうのか、という点に重きを置き、マジョリティの視点を浮き彫りにさせる構造はとても巧みに感じました。また、三人称となる視点をことあるごとに入れ替えていって、いま誰が語っているのか境界線を曖昧にしていく手法も、物語をより混沌のなかに落とし込んでいたと感じます。

・予想
社会的な偏見を逆手にとって復讐をしていくスタイルはテーマとして面白く、物語を陰謀論じみた方向に発展させていくのも荒削りながら、物語と噛み合っている印象を受けます。
イメージとしては「家庭用安心坑夫」と被るので、支持をする選考委員はいるのではないかと思いますが、それがどこまで支持を得られるかでしょう。

井戸川射子さんの「この世の喜びよ」(群像7月号)

 とあるショッピングモールの喪服売り場で働く語り手の「あなた」は、フードコートで毎日ひとり勉強をしている少女のことが気になり始めます。しかし少女とどう接すればいいのかわかりません。「あなた」は思い出す行為によって、少女と接するようになっていきます。

 本作で描かれるのは、「思い出す」ことで作り出される距離感の遠近です。語り手の「あなた」はこれまでみてきた風景を忘れない代わりに、娘への接し方のような身近な経験を思い出せません。それは「あなた」が誰かと接するときに他者性を介在させ、直接な経験ではなく何かを挟んだ風景として物事を処理してきたからでした。風景として通り過ぎるはずの事象と経験として残るはずの事象、二つの遠近感を逆転させたエピソードが終始連なることで、独特な語りの距離をうみだします。
 しかし、少女や周囲の人たちと接するうち、最初はショッピングモールで働く「喪服売り場の人」にすぎなかった「あなた」は、次第に「穂賀さん」と呼ばれるようになっていきます。この「ショッピングモール」という複合施設に引かれる境界線を踏み越えることで、名前を持たなかった「あなた」が次第に「穂賀さん」と当事者性を獲得していく(風景から身近なものに近づいていく)過程もうまく、その近づきによって初めて気付けるメダルゲームの陰影の違いなど、モチーフのひとつひとつが明確に意味を持って存在しています。そして終盤になるにつれ、穂賀さんは他者性を介在させない自らの言葉を放とうと、風景になるはずだった「遠ざかったもの」に近づいていきます。このラストは秀逸でした。二人称の「あなた」も当初こそ語りと対象の距離を遠ざけるためだったものが、最終的には語りかける相手の呼びかけとして反転し、「あなた」の距離は読み手を介在させないところまで近づくようになっています。母と娘の関係性を描く作品が多いなか、娘ではない少女を相手に置くことで「思い出す」行為に必然性を持たせ、その距離感を探ろうとしていく作品です。

・予想
今回の候補作では最も挑戦的な試みをしながら、文章力とモチーフの自在性で完成度の高い作品に仕上がっています。二人称をどう評価されるかで真っ二つにわかれると思うのですが、絶賛が並ぶかと言われたら微妙なところ。
ただ、酷評がならぶ作品でもないので、一定の支持は集めそうな予感。
そして『ここはとても速い川』が受賞した野間文芸新人賞と選考委員が複数被っているため、過去作との比較もされそうな予感がします。

グレゴリー・ケズナジャットさんの「開墾地」(群像11月号)

『鴨川ランナー』でデビューしたケズナジャットさん初となる五大文芸誌掲載作。
実母が家を出て行き、ペルシャ語を母語とする義理の父とサウスカロライナ(アメリカ南部)で暮らしていた語り手のラッセルは、久しぶりに日本から故郷に帰省します。馴染み切った日本語が抜けきらず、久しい故郷に違和感を覚えながら、故郷と母語をめぐる思索に耽っていきます。

 作中を通じて問いかけられる重要なテーマは、「英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」(P.171)とする、語り手の切実な感情です。〈その土地にいるならその土地の言葉を使うべき〉というようなアイデンティティの強制を疎み、母語のなかで生きていたくなくて外の世界を望むものの、留学した日本でも外国人としてラベリングをされてしまうラッセル。袋小路に立たされようとしているなか、父の生きざまが彼に気付きを与えました。ペルシャ語を母語としている父はアメリカに永住し、その家のなかでペルシャ語の音楽を聴いています。〈家〉の秩序はその土地に同化することもなく、かといって故郷に戻ることもないバランス感覚に保たれています。ラッセルにとっての「隙間」とは父にとっての〈家〉、すなわちラッセルの「故郷」である。この構造を示すことで、故郷の重要性を炙り出していきます。
 一方、父にとっての〈家〉(≒隙間)をラッセルはまだ作り出せていません。この違いは、父と息子の母語にまつわるコミュニケーションを通じて時絆されていきます。父の母語はあくまでも英語ではなくペルシャ語なのです。それゆえ「英語が話せるとどこにいっても言いたいことを言える」という言葉は、英語を母語として母語ゆえの苦しみに囚われているラッセルには届きません。英語が万国共通だからこそ、それは翼ではなく、決まった場所に立っていられない縛りになるーー相互不理解を提示しながら、絶望が広がります。
 しかし、絶望だけで終わらないのも本作の持ち味です。終盤、ラッセルと父は家に巻き付いてくる葛(作中では外からやってきて絡みつき、覆い隠すもののメタファーとして登場する)を焼き払います。そこには侵食していく土地や言語の常識を追い払い、安住できる「隙間」を守ろうとする前向きな希望があらわれていました。

前作「鴨川ランナー」「異言」では、外国人が日本国内で受けるラベリングの息苦しさと絶望を巧みに描いていましたが、本作ではさらにそこから一歩先に進んだ内容になっています。その点も非常に好ましく、期待がかかります。

・予想
前作からテーマを一貫させながら、より深い領域に到達しようとする心意義は十分。日本語を絡ませながら物語の軸となる葛藤を「英語」に選んでいるのも世界に通用する作品に仕立て上げており、普遍的なテーマながら意欲的な作品だとは受け取られるのではないでしょうか。
一方、その割に物語が家の中でこじんまり閉じてしまっているきらいはあります。芥川賞で好まれるタイプからはやや外れている印象。

佐藤厚志さんの「荒地の家族」(新潮12月号)

「象の皮膚」で三島賞の候補にもなったことがある佐藤さんのひさびさとなる新作。
前作同様に東日本大震災を背景にしながら、今作では「地震」「津波」のようなフレーズを用いることなくひとつの「災厄」として描くことで、前後にも存在する大小スケールの「災厄」との連続性を際立てていました。荒地から復興したとしても元あった景色は帰ってこず、災厄は誰も責任を負えない場所から再び襲いかかってくる、非情な現実をありのままに曝します。一方で連続するいくつもの事象を「災厄」とひと括りにしてしまうことの暴力性にも敏感で、ミクロな視点だと「災厄」ひとつとっても見える景色は異なるのだと伝えてきます。そして災厄による認識のずれは「災厄の責任は自分にないだろうか?」と、被災者同士を答えの出ないディスコミュニケーションに陥れます。
震災を経験した人間が、土地が、どれだけ経とうとも抱え続ける現実をはっきりと照射した作品でした。

・予想
震災をテーマにしながらその後に続いていく災厄をミクロとマクロ、両方から捉えていく試みは。その際に阿武隈川の反乱を取り上げるのもおそらく類例がないであろう視点であり、震災に対する繊細な視点は間違いなく評価されるか。
一方、人間の描き方としては軸のぶれが見られ、相互不理解を徹底しきれなかった点は読後感の与え方で意見が分かれそうです。

鈴木涼美さんの「グレイスレス」(文學界11月号)

昨年「ギフテッド」で芥川賞の候補になった鈴木さんの二作目。

本作ではAV女優の化粧をする仕事に就く女性が語り手となっており、化粧を丹念に施してもすぐ男の精液で崩れてしまう、にもかかわらず整えようとする女優のすがたに自尊心を読み取り、セックスシーンを淡々と観察するように描写するさまは、AV女優の仕事を近くから見守る女性の立場と距離が非常によくあらわれていました。祖母と暮らす家の色調と女優に施す化粧の色合いを重ねながらそのくすみと複雑さを描き、世間的にイメージのよくない性産業(とそれに従事する人間)を単純化しすぎていないか、と問いかけていく展開も先を読ませます。

・予想
「ギフテッド」と比べると自伝らしさが薄まったぶん小説らしさは強まっており、類例の少ないであろう視点から性にまつわる物語を描いているのもより面白いものにしていました。かといって物事を確定させず曖昧なままにしようとする姿勢は前作から変わりなく、それが文体の静謐さに引き継がれているのも作家性の強さを感じます。
より作品として洗練された印象は受けるので、あとは文体から醸される静謐な雰囲気をどう受け取られるかでしょう。

私の受賞作予想(敬称略)

本命 : 鈴木涼美「グレイスレス」単独受賞
対抗 : 井戸川射子「この世の喜びよ」単独受賞
単穴 : 鈴木涼美「グレイスレス」井戸川射子「この世の喜びよ」同時受賞

前回と比べるとクラシカルな作品が目立つラインナップで、ひとによって好みの分かれる回だと思います。そのなかでも前作から明確に良くなっていて描写力も抜群の「グレイスレス」を本命に、次点で評価がわかれそうな「この世の喜びよ」をおきました。
「開墾地」は選考委員が好むタイプの小説ではなさそう、「ジャクソンひとり」は荒削りなところもあるためもっと素晴らしい作品を書けるのではないかという期待、「荒地の家族」は他と比べると綻びが目立つ印象です。

あとは芥川賞の受賞作発表を心して待ちましょう。

それでは、ごきげんよう。

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