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「パラシュート」

空中でパラシュートを開いた時には、隣に誰もいなかった。足首からは、断面が雑に切られた1mくらいの縄が風に揺れてぶら下がっていた。

つい60秒前に仲間5人でセスナ機から肩を組んで一斉に飛び降りたはずなのだが、僕は降りた途端に、皆の足首に繋がれた縄のロープを、腰に挿したサバイバルナイフで一人一人切って、切って、切って…。一つの群れになっていた僕たちは、空中分解するようにバラバラになって落ちていった。

そんな行動に出たのにはちゃんと理由がある。高度4000mから地上を目指して、せーので踏み台を蹴ったが、仲間たちが落ちてる途中に勝手な動きをし始めたのだ。その瞬間僕には仲間だった彼らが敵に見えて、害虫を駆除するように一人一人群れから追い出していった。一人は、僕の左腕に巻かれたリーダーの腕章を引っ張った。別の奴は群から抜けようとした。また別のクルーは、姿勢を変えて群れを乱した。そして、最後の一人は僕の呼びかけを無視した。些細な動きを僕は決して見逃すことはなかった。なぜなら、一度でも変な動きをすれば全員が死んでしまうからだ。上空で1mでも想定と違う動き方をすれば、地上に降り立つころには目的地とは別の街に落ちてしまう可能性だってあるのだ。

ロープを切る時、僕に迷いはなかった。だが、切った後に少し後悔をした。あいつにはあいつなりの理屈があって、そんな行動をしたのかもしれない。そんなことが頭をよぎったときには、強風に揺られて遥か遠く彼方に消えた仲間たちの残像が見えた。僕の咄嗟の選択は、はたして間違っていたのだろうか。全員のロープを切ってしまった僕は愚かなのだろうか。僕は、冷酷な奴なのだろうか。赤く印をつけた落下地点に着くために、同じ場所から肩を組んで一緒に飛んだはずなのに、目的地に着く頃には僕一人だろう。一人になってでも、そこに降り立つ必要があったのだろうか。時速200kmのスピードで落ちながら、そんなことを考えていた。落ちる前に皆で顔を見合った頃には、湧き上がるアドレナリンで頬は紅潮し、勇ましい表情を仲間たちは魅せていた。まるで恐れなんてないかのように。僕がロープを切った時の、悲しそうな仲間の表情が脳裏にこびりついて離れなかった。怒りに満ちた表情、失意に呆れた顔…まさか空中で切り離される結末を迎えるなんて、想像だにしていなかったことだろう。

僕は、まばゆい速度で落下しながら体をひねって空を見上げた。僕たちを乗せていたセスナ機は唸りとともに彼方へと消え、その行き先を告げるように飛行機雲が尾を引いて伸びていた。ぼんやりと考え事をしていると、時間の正体が少し分かったような気がした。やり直しのきかない本番の連続。この世界にリハーサルは存在しない。常に、その場勝負を挑み、その結果を甘受する。僕たちは休む暇など与えられず、波のように一定の方向へと流れていく。透明な水に落とした色付きの雫は、二度と元の色に戻してはくれない。

落下スピードがMAXに達したとき、僕は教わった手順通りにパラシュートを開く紐に手をかけた。「3、2、1…」皆で口にするはずだった合図を1人で呟き、一気に紐を引き抜いた。シュルシュルと音を立てて、抜けた紐が手の間からすり抜けて、空高く舞い上がっていった。背中に背負ったバッグの中からパラシュートが一気に花開いた。開かなければよかったのに、と少し思った。後ろからシャツを掴まれるように、一瞬首が締まった。うっ、という呻き声も風にかき消され、頭の上に雲が覆い尽くすようにパラシュートの影ができた。

地上を見下ろすと、ミニチュア模型のように一面に広がる東京の街の中央に大きな赤い印が見えた。あの場所に降り立つ頃には、僕はもう僕ではなくなっているだろう。ただ未来に対して期待しか感じず、仲間と笑いながらセスナ機に乗り込んだ時の僕はもういない。当然ながら、仲間もいない。僕の選択は果たして間違っていたのだろうか。目的地へ辿り着くためには、情けも迷いも捨ててリーダーとしてやるべきことをやったはずなのだが、達成感を微塵も感じなかった。呼吸が荒くなり、この旅をやめようかと頭をよぎった。仲間たちは、今頃僕以外の4人で肩を組んで、仲良く空に浮かんでいるはずだ。きっと目的地には辿り着けないだろうが、それでも彼らは幸せなんだと思った。僕は、パラシュートと自分を繋ぐ細くて白い紐を切ってやろうと何度も試みようとしたが、怖くなってやめた。どうして僕は、不幸を選んで目的地を目指すのだろう。幸せを求めて、夢の形を変えた仲間たち‥彼らは幸せなのだろうか。雲ひとつない空から太陽が煌々と世界を照らしていた。僕の頭上には、何もない。見下ろせば、無数の人と街が広がっている。今から僕も景色の一部になり、街の雑踏に溶け込む。ああ、嫌だな…。やっぱり紐を切ってしまおうか。迷いと葛藤が僕の手をサバイバルナイフへと誘った。「3、2、1…」風にかき消されないように、さっきよりもはっきりとした声でカウンドダウンを始めた。

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