瞳の奥の憂いを覗く
ある日、夜の10時ごろに駅前の椅子に一人腰掛けて街ゆく人をぼんやりと眺めていたことがありました。飲み会帰りの人や、手を繋いで帰路につく男女、他にも様々な人生が交錯して流れていく様を目で追っていました。
そんな中で、突然大声で歌を歌う中年の男性が現れました。すれ違う人は皆彼を怪訝な目で避けながら通り過ぎていきました。さらに、彼は大声で歌うだけでなく、すれ違う女性に対して親しげに話しかけては逃げられ、また別の女性に話しかけては何かお菓子のようなものを手渡したりと、悪い意味でかなり目立っていました。
僕はその彼を、よくこんな人がたくさんいるところで大声で歌えるよなあ、とか、よくそんな友達に話しかけるかのように街ゆく人に声をかけられるよなあ、と感心して、この人は一体どんな人生を送り、何が彼をこうさせているのだろうか、と純粋に興味が湧いたので、彼の一挙一動を眺めていました。
すると、声をかけた女性に逃げられ、突然くるっとこちらに振り向いた彼と完全に目が合ってしまい、一瞬ドキッと嫌な予感がしましたが、その予感は見事に的中して、彼がこちらめがけて一直線に歩いてきました。
ただ、僕は街で奇行をする彼のその姿すらも愛おしく思っていたため、彼が目の前に来るとニコッと笑みを向けました。すると、彼は僕の隣にドンっと座ったので、僕が、
「よくこんなに人が大勢いるところで大声出して歌えますね。」
と、感心したように言うと、
「いやあ、兄ちゃんの目が優しかったから来ちゃったよ。たまにいるんだ、兄ちゃんみたいな優しい目で俺を見てくる人が。」
そう口にすると、隣でタバコの箱を開けて吸おうとしたので、すかさず、
「火つけますよ」
と言って、彼が口に咥えた煙草にライターで火をつけたあと、
「僕も一本もらっていいですか?」
と尋ねました。すると、彼は心底嬉しそうに、兄ちゃんも一緒に吸うかあ!と手渡された煙草に火をつけてくれました。二人並んで腰掛けて、同じ方向を見つめながら、煙を吐きました。
さっきまで奇行に走っていた人とは思えないほど、隣にいる彼は普通の人間でした。いくつか話を交えたあと、彼はついに自分の生い立ちについて語り始めました。
「俺は、東日本大震災で妻と娘を亡くしたんだよ。そっからしばらく一人仮設住宅で暮らしてたけど、鬱になっちゃって、でも、去年やっと東京で仕事を見つけて、こっちに越してきたんだ。」
僕は、その壮絶な過去に驚きました。しかし、どういうわけか、頭の中で辻褄が合ったのです。そんな彼の人生を一体誰が咎めることができるでしょうか。
最後に、
「でも、怖がってる女の人にしつこくいっちゃダメですよ。」
と言うと、
「だって東京は可愛い子が多いんだからしょうがねえよ」
と、言って、じゃあまた、と別れました。
やっぱり僕は人が大好きなのです。
駅前で奇声を発するみすぼらしいおじさんだろうが、いかにも個性を殺した平凡な身なりの青年だろうが、はたまた、街の視線を一点に集めるほどの美貌を振りまく女性だろうが、腰の曲がった老婆だろうが、僕は彼らの人生に想い馳せます。
性別や年齢、職業はどうだっていいのです。
着飾ったドレスにはまるで興味がありません。
ドレスで覆い隠した核の部分、その人が決して表には出さない内側の顔に興味があります。ひた隠しにしたい過去や過ち、密かな趣味や堕落し尽くした生活、嗜好や欲望なんかもそうでしょう。
つまり、街にはびこる表向きに着飾った無表情な人混みには興味がないどころか恐怖すら覚えますが、その個々に対してスポットライトを当てれば僕は全てを愛おしく思う自信があります。
そんな表には出ない、一人一人の深い部分に焦点を当てて、様々な色を織り交ぜて絵を描く画家のように、全く異なる人間模様を小説にして書き続けていきたいのです。
これからも色とりどりの色彩にまみれて、言葉を紡いでいきたいと思います。