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あの時の父への果たし状は、世界一のラブレターが父に届くための伏線だった。

父、御年73歳。

父と書いてその名もMr.ポジティブ。

その男、数年前から20も30も、更には50歳以上も年の離れた年下の友達ができている。男女問わず。人類みなきょうだいのポテンシャル。相手になんと思われても構わない。共に笑い合えば友達だろ?の、とにかく前向きな男で。

先月も新しくできたカフェに、朝の7:00に、まだ出逢って24時間も経っていない友達を呼び出して、モーニングってやつをしていたらしい。

父は出逢いにとにかく好奇心旺盛で、いくつもの出逢いを何重にも重ねて育んで来た。彼なりに。
丸い地球の上でみんなで手を繋いでるイメージ図が人との関係の中に常にあるんだろうと思う。
せーかいーは まーるいー。

玄関に 鼻歌聞こえりゃ 父 帰宅。
いつもそんな日々だった。懐かしいな。

まぁ、あまり家にいない父親だったもんで、存在はあるような、時に忘れてしまうようなもんで、無意識の中にふと訪れる四季の変化のように、気がついたら、着る物が変わって。くりかえし、くりかえし。年を越えて来た。

Mr.ポジティブと私は、
父親と娘として今世出逢ったわけだが、
私の人生のターニングポイントにこの男が何度も何度も登場する。


あの、中学1年の夏も。
私は相当に悔しくて恥ずかしい思いをした。この男のせいで。

部活動はバレーボール部に入部。まだ右も左も、トスもサーブも、わけもわからぬ入部後3〜4ヶ月が経った頃、地区の大会があり、先輩達は呆気なく負けた。

試合後顧問と保護者達は並ぶ生徒の前に立ち、何がダメだったとかばっかりで、反省点の羅列。
だんだん耳が遠くなって、今にも耳が超常現象で自力で閉じてしまうんじゃないかってほど、とにかく長い反省だ。
飽きた。
何故、あんなにも大人の話は長いのだろう。伝えたいという真意が、伝えるべきこと、伝えておいた方がいいことになっちゃって、どんどん変化していくのかな。
「それと〜、最後に。」
この最後からがまた長い。

大人だろうがこどもだろうが、感じたことは話したい、悶々としたものは吐き出したい。今ならわかる。痛い程わかる。
しかし、その場にいた私と数人の1年生は、完全に飽き飽きしていた。
いわゆる私語ってやつが口から漏れ出した。
そりゃそうだよ、耐えられない。
話が長いんだもの。そのうち長いものに巻かれてなんていられないという開き直り。

そこに、保護者代表みたいな顔をした父が登場し、突然、声高く叱った。
思春期ど真ん中の我らに、直球の父の感情がストライク。

「ちゃんと話を聞きなさい!!」

なんて力強く言っちゃって。もう、たまげた。たまげた、おったまげた。まさか先生じゃなく、実の父親の口から聞くなんて。人生の三つの坂のひとつ、そのまさか。

何人かの同級生と私は一瞬にして、黙って俯いた。私の心臓の鼓動はものすごい強さで私の中で響いて、驚いて、恥ずかしくて、悔しくて、ちょっぴり情けなくて、急いで大きな穴を掘って入りたかった。赤くなった顔も、全身の毛穴から出た嫌な汗も落ち着くまで。

言い放った父も、なんなら穴を堀って一緒に入りたかったくらい、情けなく思ったのかも。


その日の夕方、13歳の私は、父親に対する収まりきれない感情をペラ1枚の原稿用紙、200字に目一杯、綴った。
みんなの前であんな風に言うなんてひどい。口も利きたくない。とか。一言一句はもちろん、内容は詳しく覚えていないけれど、鉛筆を持つ手が止まらなかった事は覚えている。
「大嫌い!」
って呟きながら書き綴った。
あっという間に、文字は埋まった。

収まらない感情が、私を動かし、母に父に渡してくれと果たし状を託した。
母は言われた通りに父の机の引き出しに果たし状を入れた。
どんな思いだったのかな、入れた方も、受け取った方も。

その日から随分と長い間、私は父を避けた。長い間と言っても、数日。
たかがとされどの数日間。
仕事で家にいる事が少ない人だったけれど、家の中で足音が聴こえれば腹が立った。父親の足音だとわかる自分にさえ腹が立った。


悶々と過ぎる思春期の夏。

扇風機の前で虚しく私は「あー」と鳴いた。

それからのストーリーはというと、私の中ではもうすっかり消えていて、いつ父親と会話が再開されたのかは覚えていない。高校卒業後に家を出た時は、ちゃんとホームシックにもなって、父親と母親との時間を思うばかりだった。
まぁ、最初の2週間くらいだったけど。

あれから30年が経ち、
40代の父親は70代に、私は40代になった。すっかり、娘達のMr.ポジティブおじいちゃんになっている。

その父親と離れて暮らして12年。
ある日、友達から私の父と意気投合の盃を交わしたと一報が入った。

その友達は、私の心を内を話せる信頼している数少ない人達で、寂しいも嬉しいも話せて来た、気の置けない存在だ。父親とはほんの数回しか会ったこともないのに。なぜだろう。人が人を信頼するのには多くの時間は不要なのか。
地球の上に皆で輪になって、人類みなきょうだいの作戦成功か。

父はその友達に、突然、30年前のあの娘からの果たし状事件について、自供、いや、白状したのだ。
あの原稿用紙を読んでとってもつらかった、相当に堪えたと。30年をかけてどろっどろのヘドロを吐き出したのだ。いや、ようやく吐き出せたのだ。

吐き出すに至るまでの経緯はわからないけれど、きっと、ここから先はご自身でと、友達が父の前に扉を用意してくれたのだと思う。父は自分で扉を開けたのだ。
その思いを吐き出せたことで、父にとっても大切な友達だという証になっただろう。だって、30年抱えていたモヤモヤが湧き出たのだもの。言いたいと、聞いてもらえると思えたんだもの。
出逢いは自分を変える力がある。

親になってみてわかる。どうしようもない思春期に苛立つことも。
自分の中の嫌悪感は大人になったって貫きたい。
そういうひとつひとつの感情が、親であっても、当然のように湧き出てくるということもね。
ずっと片づけられていない感情が、誰かによってまた沸々と熱くなって、閉じていた蓋がカタカタと鳴る。
大人になって出ると、タチの悪い足掻きになるのだけれど、生きているうちに出せたのだ。それと向き合うために、事は起きる。

私にも子が生まれ育ちゆく間に、何度も「ほっといてくれ」の文字が、こども達の上に吹き出しのように見えることもあった。自分の感情が先に立ち、こども達の想いを無視して、パーソナルなエリアに入ってしまっては、気付かされ、自身の幼さに落胆することを繰り返した。
あの時の私は、この人達の感情より先に何を守りたかったんだろうと、立ち止まる。

人生は必然的にきっかけになるような出来事が起こり、思い出してはまたその時に戻らされる、終わりのない螺旋階段のをずっと登り続けているようだ。
息を切らしながら、階段の途中でふと立ち止まり、駆け上がって来た階段を振り返ると、ぐるぐると目が回る。
このままじゃ落ちてしまう!と、力が抜けて咄嗟に何かを掴もうと手を出すと、すぐそばに手の中にすっぽりと収まる手すりがあった事に気がついて、誰かが誰かのために、そして自分のために付けた手すりなのかもしれないと思うのだ。

掴まりながら、誰かを頼って、自分を生きていいんだと、ぽろぽろと安心の涙が流れて、ゆっくり自分を励ましてみる。
ここまでよく頑張って来たねって。

このループが、あの時の、その時の、慰めと許しの繰り返しなのだとしたら、
あの出来事も必要な出来事で、今日の私も間違いなく、かけがえのない存在だ。

30年後の今、父親からヘドロが吐き出たという出来事があったことで、やっとこの心の傷は治りかけているのかもと思えた。ようやく痛痒くなって来た。そんな気がしている。

30年の間に、環境は変化し、父は老犬の柴犬とふたりで暮らすことになった。母は病気を患い、施設で暮らしている。父と母が決めた道なのだけれど、今日もどこにも置けない喪失感が、父を包む。

数年前、実家に帰ったとき、父と私と2人だけで、酒を飲んだ。
父は突然、
「お母さんはオレと一緒にいて、幸せだったんだろうか。」
と、酒の力を借りた。
「はぁ?今更、何言ってんのよ!」
と、無理矢理に前を向かせたけれど、後ろを向いた姿を見たのは、私の前では、後にも先にも、それ一度切り。
よって、Mr.ポジティブからの改名は保留だ。保留したけど、この人も私と同じ人間なのだと少し安心した。
次の日の朝には鼻歌が聴こえた。
大丈夫だ、きっと。
あなたにはこの地球上にたくさんの友達がいる。

それと。忘れてんじゃないよ、あんたの妻の愛を。

これを書きながら、思い出した。
娘の机にまっさらな原稿用紙があったっけ。

螺旋階段の手すりにしっかり掴まりながら、お元気ですかー、とか、30年越しの思いとか、書いてみようかな。

そして、今度は、私の手で、机の引き出しにこっそりしまっておこう。

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