1000日チャレンジ 943日目 「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(若い読者のための科学史)CHAPTER 26 Little Boxes of Life
ゴールまで57日
★BMI:22.8
★「A LITTLE HISTORY OF SCIENCE」(Bynum, William著;Yale University Press;2012年)を原著で読み進める(全40章)
◎CHAPTER 26 Little Boxes of Life
★主な内容
17世紀、アントニ・ファン・レーウェンフック(1632-1723)は、小型顕微鏡で血液細胞やハエの脚の毛を観察した。18世紀には、2枚のレンズを使った複合顕微鏡が発明され、より拡大された像を見ることができるようになった。しかし、当時は資料の調整方法も鏡も精度が悪く、歪みや錯覚も引き起こし、研究者たちはより正確に観察したいと考えていた。
フランス の グザヴィエ・ビシャ(1771-1802)は、顕微鏡を信用していなかったが、人体を構成する組織に注目し、様々な部位で共通の特徴をもつ組織があることに気が付いた。その後に続く研究者たちは、さらに細かい単位で観察したいと考えた。
1830年代には、ドイツの医師・テオドール・シュワンが、生物の構成単位は”細胞”であり、全ての動植物が細胞で構成されているという「細胞説」を唱えた。同じくドイツのルドルフ・ウィルヒョウ(1821-1902)は、著書「細胞病理学」において、様々な病気は、細胞内で起きたことの結果であると主張した。シュワンが細胞は液体から結晶化されて作られると考えたが、ウィルヒョウは細胞は細胞からできるのだと考えた。イギリスの植物学者ロバート・ブラウン(1773-1858)は、細胞の中に細胞核があることを発見した。細胞や細胞核の存在は、多くの研究者にすぐに受け入れられたが、細胞が自然に発生すると考える(自然発生説)研究者は依然として多かった。
ルイ・パストゥール(1822-1895)は、発酵が酵母によって引き起こされる 生物学学的なものであることを発見した。彼は、藁と水を混ぜで煮た(無菌 状態 の)溶液を作り、それをちりの粒子が漂うところに放置すると微生物が発生し、特殊なフラスコの中でちりを落ちないようにすると、微生物が発生しないという実験結果を公表した。一方、自然発生説のフェリクス・プーシェ(1800-1872)はパストゥールと同様の実験で、微生物の発生を確認したと発表する。パストゥールは自身もプーシェ同様の結果を得ていたにも関わらず、それを無視して(隠して)プーシェ側の実験手技に問題があると攻撃した。その結果、この論争はパストゥール側の勝利で終わる。
★単語
consequently;それゆえに、compound;複合の、accurate;正確な、crucial;重要な、bruise;あざ、maggot;蛆(うじ)、interpret;解釈する、assume;仮定する、anticipate;予測する、presume;推定する、triumph;勝利する、ignore;無視する、triumph;勝利する
★フレーズ
inspire ~ to;~に…させる、building block;構成要素、spontaneous generation;自然発生、play a part in;~に関与[関係]する、~の一翼を担う、役割を果たす
※細胞説;「cell theory;M.シュライデンと T.シュワンによって 1839年に唱えられた細胞学上の一つの説。内容的には「生物はすべて細胞でできており,細胞こそは生物の構造と機能の究極単位である」という説。細胞説は生物現象の原理に関する 19世紀の大きな理論として,C.ダーウィンの進化論と並べられている。この説の確立により,原生動物の分類学上の位置が決り,精子や卵子も細胞であることがわかった。 20世紀に入り,組織培養,さらに1個の細胞から出発する細胞培養が可能となり,細胞が生命の単位であるとの考えに実験的支持を与えた。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典から引用)
※自然発生説;「theory of spontaneous generation;生物が親から子へという道をとらず,無生物から発生するという説。 16~17世紀までは高等な動物などについてもこのようなことがありうると考えられていた。たとえば小麦粉からネズミを生じ,腐肉からハエのうじを生じるというようなことで,まじめにその処方を書いた者もあった。 F.レディは 17世紀後半に,ハエのうじの自然発生を実験により否定したが,微生物については多くの論争があり,19世紀の後半になって L.パスツールが微生物の自然発生も否定するまで続いた。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用)
◎パストゥールについては、彼の死後100年で公表された「実験ノート」によって、彼のいくつかの発見が彼自身の成果ではなかったことや捏造された結果によるものなどが、明らかになり評価が急落している。現代にも通ずる研究不正がこの頃から存在していたということだ。プーシェとの論戦においても不正や偶然が彼に味方をしていた。例えば、耐熱性の菌がもし入っていたら、煮沸したフラスコから微生物は発生していたかもしれない。
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