碌山美術館 常設展
◎碌山美術館
JR大糸線《穂高駅》より徒歩7分
〒399‐8303 長野県安曇野市穂高5095-1
(以下、美術館web siteより引用)
「日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の作品と資料を 永久に保存し、一般に公開するために、当館は、1958年4月22日に開館しました。美術館建設は、長野県下の全小中学生の生徒をはじめとする29万9100余人の力によって、碌山の生地北アルプスの麓安曇野に誕生しました。碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品をあわせて蒐集保存し、 日本近代彫刻の流れと展開を明らかにしようと努めております。」
(以下、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より引用)
「※荻原守衛 おぎわらもりえ
[生]1879.12.1. 長野,南安曇
[没]1910.4.22. 東京
彫刻家。号は碌山。 18歳のとき心臓病にかかり,キリスト教求道者となった。 1899年画家を志して上京し,小山正太郎の不同舎で学んだ。 1901年洗礼を受け,同年アメリカへ渡りニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグその他で学んだ。さらに 03年フランスへ留学し,J.-P.ローランスに学ぶも同地でロダンの作品,特に『考える人』に感動して画業をやめ彫刻に転じた。 07年にはロダンを訪問。 08年帰国後は文展,太平洋画会に生命感あふれる清新な作品を発表,高村光太郎とともに日本近代彫刻の道を開いた。その後,東京,新宿の中村屋隣にあった写真館をアトリエに改造することを引受け,落成をみた4月 20日に中村屋で吐血,31歳の若さで急死した。遺作は有志の手で故郷に建設された碌山美術館に納められている。主要作品『文覚』 (1908) ,『女』 (10) 。なお『女』の石膏原型 (東京国立博物館) は,近代日本彫刻最初の重要文化財に指定された。」
◎荻原守衛『文覚』(1908年)
◎荻原守衛『女』(1910年)重要文化財
◎荻原守衛『デスペア』(1909年)
◎荻原守衛『坑夫』(1907年)
◎荻原守衛『北條虎吉像』(1909年)重要文化財
★JR大糸線穂高駅から歩いて5分程度、木々に覆われた一角が、碌山美術館。私が、日本で一番好きな美術館だ。夭折の彫刻家・萩原守衛の柔らかな力強さを湛えた彫刻の数々と安曇野の緑、雪、煉瓦につたうツタ。どこか、私が学生時代を過ごした札幌の北大キャンパスを思い出させる風景が広がる静かな空間。
若くして亡くなった彫刻家のために、関係者が尽力してこれほどの美術館を建設し、維持されていることは、荻原守衛という人の芸術家としての魅力と人間的な魅力があってこそのものだと思う。また時をおかずに再訪したい。
※今回の訪問での新たな気づき:碌山(ろくざん)の名は、彼が愛読していた夏目漱石の『二百十日』を読んで、登場人物の”碌さん”に共感し、その後、号として使ったという。