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そのタイミングがあるのだ
いつも言うように、わたしの人生は自ら何かを取りにいくとロクなことがない。
とにかくただ流れに任せるのが最善。
50年生きてきて分かった。
いや、薄々そう思ってはいたが、たまにやらかす。で、やっぱりそうよなと思う。
何度も繰り返して本当に理解できた。
今日はそれに関連して、ずっと気になっていた子について書きたくなった。
うちを卒業してしばらくは連絡もとれたし会うこともできていたが、だんだんつながりが薄くなっていった子。
音信不通になり数年、SNSで彼女を見つけ、またそこでつながることはできたもののあくまでも画面上でお互いの近況を知るだけやった。
わたしが一歳の息子を連れてシェムリアップ に移住し、仕事と育児で大変なときにどれだけ彼女に助けられただろうか。
息子を自分の弟のようにかわいがって献身的にお世話してくれたのが彼女だった。
卒業後にあれやこれやの事情で、彼女自身はわたしと顔を合わせるのが気まずかったのだろうと思いあたることはある。
それでも彼女をとりまく今については、たとえ画面上だとしても何となく分かっていたし、疎遠になってすぐのころより現在のほうが幸せそうにしている写真を見るとホッとしていた。
数日前、その彼女と街でばったり出会った。
後ろからわたしの脇をすっと通りすぎた彼女に向かって考える間もなく口が勝手に名前を呼んでいた。
振り返ったその顔は間違いなくあの子やった。
抱き合って再会をかみしめた。
対人間という意味において、わたしは周りから誤解されやすい。
これも50年、人間をやってきてよく分かっているが、どうにも頑固な自分が変化を拒む。
卒業生たちとも何らかの誤解なのか何なのか分からんが疎遠になることも多々ある。
人間関係において、あかん…無理…となると突然ピシャリとシャッターを閉めるのは数少ない友人たちが苦笑いしつつもよく理解してくれているだろう。
しかし、卒業生はその限りではない。
今はわたしを必要としてないんだろうと感じたら少し離れることがある。
今はそのときじゃないんだな、と。
でも、また生きていればそのうちつながる日もくるだろう、そんな気持ちで見ている。
人によってはそれを冷たいととらえるかもしれない。
このへんが理解されづらいわたしのもつ人生の時間軸なんだろう。
心の中は他人が見ることもできないので、言語化しないかぎり伝わるわけもない。
伝えたとして何の意味があるのか、と思ってしまう自分もいて、それがまた次の誤解を招く。
分かってはいるんだけど、とにかくすぐにそれを何とかしようと動くとロクなことにならん。
彼女のことも疎遠になってすぐにもしわたしから積極的にはたらきかけたら、それはきっとうまく事が運ばなかったのだろうと思う。
無意識に待ち続けていると、思いがけないときに今回のようなチャンスがめぐってくる。
それでいいのだ。
彼女とは今度ゆっくりごはんでも行こうとメッセージのやりとりもできた。
それでいいのだ。
いや、ほんまはちょっと泣いた。
会っていなかった期間の彼女を知る機会を近いうちに得られそうだという熱い思いが鬼の涙を誘ったわけや。
普段は人間に絶望することのほうが多いけど、いつもそんなわたしに生きることってそんなに悪くないと教えてくれるのは自分の息子やあの子たちなんよな。
だから、わたしはいつもみんなのタイミングを変わらずに待つだけなんや。
ただただ変わらぬ存在として、受け入れる気持ちを整えておく。
自分から動いたらロクなことはないのだ。