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選択の余地なく世田谷に住んでみたら

窓を開けると
竹の葉がカサカサとこすり合う音と、
多摩川を渡る東急田園都市線の
ガタンゴトンガタンゴトンという音が
聞こえる。

私は今年の初め、千葉から
世田谷の二子玉川駅近くに引っ越してきた。


黒いミュールに
グリーンのふんわりワンピースを
着ている女性や
パナマハットにハーフパンツ、
裸足にデッキシューズで歩く男性。

どこを見てもファッション誌に
出てきそうな方たちが
背筋を伸ばして歩いている街だ。

千葉では家族4人で145㎡の戸建に
住んでいた。
娘二人は社会人となって
家を出ていき、
私たち夫婦と老犬だけが残された。

夫は都内に勤めているのに、
自宅は都心から遠く、
最寄り駅にも歩けない。

これから私たちは老いてくる。
車がなくても暮らせる便利な街に
引っ越そうと考え、
自宅を売りに出した。


するとすぐ
東京で住む家が決まる前に
自宅は売れてしまい、
仮住まいを探さなくては
ならなくなった。

条件は城南エリアで
中型犬が飼える2LDK。
予算は20万円以下。

選択肢はほとんどなく、
不動産屋さんが紹介してくれた物件がこの場所だった。

引っ越し準備は大変だった。


なにせ千葉の家は
250㎡ある土地にバックヤードがあって、
そこにアウトドアグッズやら
園芸グッズが山ほどあった。

家の中にももちろん、
いろんなものがあった。
娘の幼稚園のときの作品や制服から
私のどうしようもないコレクション(包装紙とか空き箱)まで。


とにかく物を減らさなければ
引っ越し先に荷物が入らないと思った。


捨ててしまえば簡単なんだけれども、
私はそれらを捨てる、という行為が
嫌だったから、
誰かにあげたり、寄付したり。


捨てるより時間のかかる面倒くさいことを
何ヵ月もしていたと思う。

50歳をとうに過ぎて、
人生経験もそれなりにあるくせに
東京で自分がやっていけるのか
やっぱりちょっと心配。

それでもウチには老犬がいるから
家にこもるなどできず、
朝夕、外に出ないといけない。


借りたマンションのエリアは
奇しくも高級住宅街で、
千葉と違って、道路に土がないから
犬がもし道路に粗相をしてしまったら
怒られそうだな、と思っていた。

夫も私と同じ考えを持っていたようで
土のある公園に行くまでは
老犬が粗相をしないよう
カートに乗せることを決めた。

引っ越し初日、老犬を乗せて、
恐る恐る家の前の道路を歩きだすと
自転車に乗った初老の女性がいきなり
「あら~かわいい!なんでカートに乗っているの?」と
お声かけくださった。

「老犬なので……」と
ちょっとウソを言ってしまった。

ほどなくすると今度は、
後ろからイエローのラブラドルレトリバーと
女性の飼い主さんが近づいてきた。

その飼い主さんも老犬を見て、
「どこまで行くの?」と
聞いてくださった。

私は思い切って、
自分が考えている胸の内を正直に明かした。

飼い主さんは笑顔で
「気にしなくて大丈夫よ~
でももし粗相をしてしまったら
水で流せばいいわよ!」と言ってくださって
ご丁寧に評判の良い動物病院まで
教えてくださった。

数日後、今度は家の前の道路で
私と老犬がタクシーを待っていると
白いゴールデンレトリバーを連れた
背の高いサングラスをかけたマダムが
「何かお困りのことはありませんか?」
と、声をかけてくれた。


私は犬とキャリーバッグを片手に、
スマートフォンでタクシーを呼び、
動物病院に行くところだった。

行動がもたもたしていたから
マンガの吹き出しみたいに
「た・す・け・て・く・だ・さ・い」と出ていて
困っている人に見えたのかもしれない。

おどおどしながら
引っ越してきたばかりだということと、
タクシーを呼んでいる、ということを
マダムに告げた。


「もうタクシーを呼んでいるなら大丈夫ね。」と
マダムは颯爽と去って行った。


それは一瞬の出来事だった。


私は東京に来て、
犬の散歩がうまくいくか、とか
タクシーで動物病院までたどりつくことができるか、とか
小さなことを
心配していたけれど、
通りがかった人やマダムのおかげで
私の心配はみんな杞憂だとわかった。


あれから半年が経った。

私は世田谷を自分で選んで
住んだわけじゃないけど、
毎日穏やかに暮らしている。

世田谷の人は犬が好きなのか
結構な確率で老犬に微笑みかけ
挨拶をしてくれる。

老犬のおかげで、通りがかりに
朝顔や自家栽培の白ナスまで
いただけるようになった。


東京というところは
そんなに怖くない。


いまは仮住まい。
だけど次もやっぱり世田谷がいいな。







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