選択の余地なく世田谷に住んでみたら
窓を開けると
竹の葉がカサカサとこすり合う音と、
多摩川を渡る東急田園都市線の
ガタンゴトンガタンゴトンという音が
聞こえる。
黒いミュールに
グリーンのふんわりワンピースを
着ている女性や
パナマハットにハーフパンツ、
裸足にデッキシューズで歩く男性。
どこを見てもファッション誌に
出てきそうな方たちが
背筋を伸ばして歩いている街だ。
*
夫は都内に勤めているのに、
自宅は都心から遠く、
最寄り駅にも歩けない。
これから私たちは老いてくる。
車がなくても暮らせる便利な街に
引っ越そうと考え、
自宅を売りに出した。
するとすぐ
東京で住む家が決まる前に
自宅は売れてしまい、
仮住まいを探さなくては
ならなくなった。
条件は城南エリアで
中型犬が飼える2LDK。
予算は20万円以下。
*
引っ越し準備は大変だった。
なにせ千葉の家は
250㎡ある土地にバックヤードがあって、
そこにアウトドアグッズやら
園芸グッズが山ほどあった。
家の中にももちろん、
いろんなものがあった。
娘の幼稚園のときの作品や制服から
私のどうしようもないコレクション(包装紙とか空き箱)まで。
とにかく物を減らさなければ
引っ越し先に荷物が入らないと思った。
捨ててしまえば簡単なんだけれども、
私はそれらを捨てる、という行為が
嫌だったから、
誰かにあげたり、寄付したり。
捨てるより時間のかかる面倒くさいことを
何ヵ月もしていたと思う。
*
それでもウチには老犬がいるから
家にこもるなどできず、
朝夕、外に出ないといけない。
借りたマンションのエリアは
奇しくも高級住宅街で、
千葉と違って、道路に土がないから
犬がもし道路に粗相をしてしまったら
怒られそうだな、と思っていた。
夫も私と同じ考えを持っていたようで
土のある公園に行くまでは
老犬が粗相をしないよう
カートに乗せることを決めた。
引っ越し初日、老犬を乗せて、
恐る恐る家の前の道路を歩きだすと
自転車に乗った初老の女性がいきなり
「あら~かわいい!なんでカートに乗っているの?」と
お声かけくださった。
「老犬なので……」と
ちょっとウソを言ってしまった。
ほどなくすると今度は、
後ろからイエローのラブラドルレトリバーと
女性の飼い主さんが近づいてきた。
その飼い主さんも老犬を見て、
「どこまで行くの?」と
聞いてくださった。
飼い主さんは笑顔で
「気にしなくて大丈夫よ~
でももし粗相をしてしまったら
水で流せばいいわよ!」と言ってくださって
ご丁寧に評判の良い動物病院まで
教えてくださった。
*
数日後、今度は家の前の道路で
私と老犬がタクシーを待っていると
白いゴールデンレトリバーを連れた
背の高いサングラスをかけたマダムが
「何かお困りのことはありませんか?」
と、声をかけてくれた。
私は犬とキャリーバッグを片手に、
スマートフォンでタクシーを呼び、
動物病院に行くところだった。
おどおどしながら
引っ越してきたばかりだということと、
タクシーを呼んでいる、ということを
マダムに告げた。
「もうタクシーを呼んでいるなら大丈夫ね。」と
マダムは颯爽と去って行った。
私は東京に来て、
犬の散歩がうまくいくか、とか
タクシーで動物病院までたどりつくことができるか、とか
小さなことを
心配していたけれど、
通りがかった人やマダムのおかげで
私の心配はみんな杞憂だとわかった。
*
あれから半年が経った。
私は世田谷を自分で選んで
住んだわけじゃないけど、
毎日穏やかに暮らしている。
世田谷の人は犬が好きなのか
結構な確率で老犬に微笑みかけ
挨拶をしてくれる。
老犬のおかげで、通りがかりに
朝顔や自家栽培の白ナスまで
いただけるようになった。
いまは仮住まい。
だけど次もやっぱり世田谷がいいな。