
【ナナシス】「いま、ここ」を生きる切なさ――NI+CORA「Crescendo」
昨年の6月に開催された「Tokyo 7th Sisters VISUALIVE NANASUTA MINI LIVE starring NI+CORA」(ビジュアライブ)では、NI+CORAの待望の新曲が披露された。しかも2曲。「Give me time!」と「Crescendo」(クレッシェンド)である。
「Give me time!」は少女の忙しない日常をポップな曲調で描いた楽曲だ。多感な時期に差しかかった少女の胸中が、楽曲の中につぶさに落とし込まれている。テイストでいえば「Girls Talk!!」に近い。
一方の「Crescendo」はいわゆる失恋ソング。意中の人に対する危うい恋心を描いた「オ・モ・イ アプローチ」、恋愛の情熱的かつ危険な駆け引きを歌った「You Can’t Win」と、NI+CORAがこれまでにリリースしてきた恋愛ソングとは一味違う、切ない仕上がりになっている。
この記事で述べたいのはそのうちの後者、「Crescendo」について考えたことである。
「次第に」こみ上げる慕情
「Crescendo」を一言で言うならば「忘れられない恋」を歌った曲だ。
お互いに深く恋しあった2人。しかしそれは過去の話で、どうやらすでに破局している。しかし、恋焦がれる気持ちは未だにこの曲の主人公の胸中を多く占めている。この曲の歌詞にいみじくも表れているのは、終わった恋に今なお囚われている主人公の凄凄切切とした感情である。曲調もアップテンポではあるものの、どこか切なさを感じさせる。
曲名にある「Crescendo」は音楽記号で「次第に強く」を意味する。この「次第に」がこの曲の勘どころだ。主人公は常に慕情を抱えているわけではない。ふとしたことをきっかけにかつての恋人のことを、2人で過ごした時間とその思い出を想起するのだ。
そのトリガーとなるのは日常の何げない光景であり、場所である。それは例えば「君と歩いた桜並木」であり、「あの頃の集合場所」であり、「横断歩道を渡った先の風景」である。この、他者にとってはありふれた光景の集合体にすぎないこの街すべてが、主人公にとっては他の何物にも代えがたい、思い入れの深い場所なのだ。そしてその光景を目の当たりにすることで、在りし日の記憶を思い出す。
「街のどこかで漂っていた香り」によって過去の記憶が呼び起され、主人公の恋焦がれる思いがじわじわと拡大していく。その感情の高まりは「Crescendo」によって変化する音量のようである。
慕情が拡大していく
失恋などで疲弊した心身を癒すにはどうすればいいか。まず手っ取り早いのが旅行である。「傷心旅行」という言葉もあるように、普段の生活圏から離れた場所に赴くことで、心身をリフレッシュすることができる。が、旅行が終わればいつもの日常へと帰っていくので、つらい現実と再び向き合わなければならないリスクもある。
思い切って「住む場所を変える」のも手だろう。映画やドラマなどでも、失恋や大切な人との死別、そのほか私生活のトラブルなどで日常生活に嫌気がさした者が、見ず知らずの場所で生活を営む姿が多く描かれている。いずれにせよ、「いま、ここ」を離れ、「ここではない、どこか」を訪ねることは、喪失からの回復を促すために取る人間の本能的行動と言えそうだ。
その点、この曲の主人公は「いま、ここ」を生きているがゆえに、喪失から回復できていない様子がうかがえる。
歌いだしからも分かるように、主人公が失恋したのはおよそ1年前。しかし、それを主人公は「昨日のこと」のように認識している。1年もの間、主人公は街の何気ない光景を目の当たりにしては、かつての恋人への思いを募らせていたのだ。それは、主人公の生活が恋人と破局する前と変わらない、「いま、ここ」の延長線上にあるからである。
主人公の日常は昔と変わっていない。この街の光景も同様である。変わっていない。「君と歩いた桜並木」も「あの頃の集合場所」も変わらずある。この街にないのは、恋人という存在だけ。恋人というピースが欠けた状態で、「いま、ここ」で生きざるを得ない主人公の胸中を思うと、ただただ切ない。
この曲の主人公が学生なのか社会人なのか、プロフィールは定かではないが、学生ならば学校に行かなければならないし、社会人は仕事に多くの時間をとられる。「ここではない、どこか」に赴くといっても、せいぜい数日ばかりの傷心旅行が限界だろう。冷静に考えて、「いま、ここ」を長期間離れることは容易ではないのだ。
「いま、ここ」で生活し続ける限り、思い出の場所を目の当たりにし続けるし、かつての恋人との思い出も回顧し続ける。「いま、ここ」を生きる限り、慕情が拡大(=crescendo)していくのだ。この曲が持つ切なさの正体はそこにある。