腕時計や万年筆は必要か
腕時計は必要か。
昔は良い時計や良い筆記具を持つことがビジネスマンとしての誇りとプライドだったとか。
今はそんな時代ではない。
時計は事務の仕事ならPCを確認したらいいし、外ではスマホを見ればいい。
スマホを確認できないときのために腕時計が必要と言われるけど、
スマホで時間を確認してもおかしいと思わない価値観の人が増えたらそれが普通になる。
腕時計人口はどんどん減少して、8割9割の人が腕時計を着けない時代になった。
腕時計を着けてもそれはコンピュータの一種であるウェアラブル端末ということもある。
腕時計が時代遅れ、万年筆は時代遅れ、と言うのもそういう時代なんだと思う。
ただ、自分の価値観で他人のことを理解できないと切り捨てたり、笑ったりするのは違うのではないか。
多様性と言われるこの時代、他人のことを否定したり笑ったり馬鹿にしたりするのは時代の逆行じゃないか。
自分だけが世界の中心で価値判断の基準と思い上がっているのは、それはまあ個人の自由なんだけど
いつか自分の価値観が変わって、もしくは身近な理解したいと思う人の価値観が変わって、
相反するものが良いと考えるようになったときに開き直るのか?と不思議になる。
腕時計や万年筆は要らないと思っていたけど、環境の変化や周囲の人の影響で今はしっかり使っている。
腕時計はなくても良いと思っていたから、不要と考える人の気持ちは分かる。
そしてそういう人にいくら説明しても腕時計の良さは伝わらない。
人間は想像力を持ちあわせているけど、実はとても軟弱なものでもある。
腕時計不要論の人は、腕時計を好む人のことを想像できないから。
足に障害がある人の大変さ不自由さを想像できないから、ケガをして初めて気持ちが分かったと言う人が多い。
妊娠して、子どもを持って初めて大変さが分かった。
みんなもっと助けてくれたら、協力してくれたらいいのに。
え?あなたは自分が経験する前は大変さを想像できなかったから無視していたんでしょう。
言ってることおかしいような。
ここで自分はそうでないと主張する人もいるが、そうでない人もいる前提になっていることを理解できない人も想像力や推察力の欠如だろう。
つまり人の考えは変えられない、ということだろうか。
これを諭された10代の頃、なぜ分かってくれない、とフツフツとしていた。
仕事を始めたらあっという間に理解できた。
万年筆は不要、腕時計は不要、他にもたくさんあると思う。
そういう人は変えられないから、自分が楽しめたらそれでいいと思う。
そこを押し付けてはいけないんじゃないか。
後輩が家族から「(後輩が着けている機械式腕時計を指差して)その時計は、どんな機能があるのか」と聞かれたと笑っていた。
「時間が分かるんだよ」としか答えられないと苦笑い。
挙げ句、「そろそろちゃんとした時計を着けた方がいい」と言われたとか。
スマートウォッチは、まあ、いろんなことができるから。