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夏を好きになった日

 学生時代は、ずっと夏が苦手だった。

 高校から大学にかけては、ずっと演劇にかまけていたので、夏休みと言えば、芝居の稽古に出かけているか、稽古の無い日には、家の中でだらだらしているか、どちらかだった。

 家の中で遅くまで寝て、だらだらしていると、家族に鬱陶しがられる。でも、演劇にエネルギーを使い果たしているので、どこにも出かけたくない。

 夏休みそのものは嬉しいけれど、計画性に欠ける自分は、最終日に終わらない宿題や課題に泣く事が、休みに入る前から分かり切っているので、心の底から楽しむ事が、なかなか出来ない。

 夏は何だか騒々しい。太陽の陽射しが強過ぎる。色彩も鮮やかすぎる。空が青すぎる。入道雲がまぶしすぎる。そして、緑が濃すぎる。

 夏の色彩の鮮やかさと喧騒が、どうにも苦手だったのは、多分、それだけ若かったという事なのだろう。自分自身の内側に抱えている、鮮やかなエネルギーを持て余していたから、同じような鮮やかさが鬱陶しかったのだろうと思う。

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 二十三歳の夏、知らない路線の知らない駅へ向かって、電車に乗った。

 聞いた事の無い名前の、その小さな駅は、隣県の小さな町の中にあった。各駅停車を何本か乗り継いで、三時間くらいかかる場所だった。

 今、乗換案内を検索すると、最短で二時間ぐらいと出てくる。どうやら、私が当時、必死に時刻表で調べて見つけたルートは、遠回りだったようだ。

 でも、あの夏、時刻表を見るのが苦手な私が、必死で探した電車のルートも、それをその通り辿った旅路も、今にしてみると、懐かしく愛おしい。

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 知らない駅に向かった理由は、単純だ。

 恋人がその町で、短期で働いていた。期間は確か、一ヶ月か二ヵ月、といったところだったと思う。そんなに長い時間ではないのに、とても長く感じたのは、やはり若かったという事なのだろう。

 時刻を調べるのも時刻表だった時代だ。ふたりとも、携帯電話も持っていなかった。恋人は仕事の契約期間中は、寮暮らしだったので、自由な時間に電話するという訳にもいかなかった。

 それなら、いっそ、会いに行ってしまえ、と思った訳だ。

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 良く晴れた日だった。

 初めて乗る路線は、山間を通る列車だった。車窓からは、山の位置が近かった。陽射しは強く濃く、木々を照らし、木々はそれに応えて、強く濃く、緑に輝いていた。

 私はただ、目を見張った。

 夏の緑って、こんなに美しいものだったんだ。

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 夏の緑の美しさに、素直に目を見張ったのは、前年が、記録的な冷夏だったのも、影響しているかもしれない。

 学生時代が終わり、仕事を始めて、最初の年だった。ふんだんにあった夏休みが、無くなってしまって、初めて迎えた年は、夏が来なかった。

 いつまでも長袖を手放せず、結局、梅雨が明ける事なく、凶作となり、米を輸入する騒ぎになったあの年、私は初めて夏に焦がれた。

 翌年の夏の緑が、素直にしみ込んできたのは、恋人に対してと、夏そのものに対しての、ふたつの恋心のせいだったのかもしれない。

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 三時間かけて辿り着いた駅で、でも、一緒に居られたのは、そんなに長い時間では無かった。その日の内に、また三時間かけて、帰宅した訳だから。

 それでも楽しかった。

 辿り着いた小さな駅は、降りたところに、小さなショッピングモールがあるだけで、他には何もなかった。ショッピングモールの、あまり流行ってもいなそうなファミレスで、ハンバーグを食べたのを覚えている。

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 あの小さな駅について、時々、夫と話をする。何の特徴も無い小さな町の、小さな駅の、小さなショッピングモールの話を。

 あの時食べたハンバーグを、もう一度食べに、いつか行ってみよう。いや、あのお店、今もあるかどうか分からないよ。確かに。なんて、そんな会話をする。

 私にとっても、夫にとっても、あの何の特徴も無い、小さな町の小さな駅は、懐かしく愛おしい場所だ。いつか再訪してみたい。あのファミレスが、まだあるにしても、無くなってしまったにしても。

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 だけど、あの車窓から見た、強く濃く輝く緑は、私だけの想い出だ。

 誰とも、それこそ、夫とも共有できない、私だけの想い出だ。

 自分の内側に抱えていた、熱く強く濃い想いが、そのまま立ち現れたような、深く強く濃い緑を、多分、一生忘れられないと思う。

お目に掛かれて嬉しいです。またご縁がありますように。