もしも解剖学の院生が他分野の院生に「有意差でた?」と聞かれたら
1.解剖学の院生あるある
解剖学の院生 「おつかれー、久しぶりー」
他分野の院生 「おつかれー。研究の進み具合どう?有意差でた?」
解剖学の院生 「えっと…有意差とか…そういう研究じゃなくて……」
という経験はありませんか?
こんな時、何と答えれば良いでしょうか。
きっとシンプルに、こんな返答で良いと思います。
解剖学の院生 「いや、私の研究は記述研究だから」
こう答えて、もし他分野の院生がポカンとしていたら、その院生はきっと医学研究の種類を理解していません。
医学研究と言えば、「ある事象とある事象の関連性を証明するために解析対象を2群に分けて複数の変数を解析した上で有意差を出す」みたいな研究を想定している、というかきっとそれしかないと思っているのでしょう。
しかしそのような研究は「関連性の探索」という医学研究の種類の一つであり、他にも様々な種類の医学研究があります。
2.医学研究の種類
医学研究の代表的な3種類は以下です。他にも、予後(アウトカム)を予測する研究、診断の性能を評価する研究などもありますが、ここでは省略します。
(参考:臨床研究論文作成マニュアル http://gotoresearch.jp/wp/)
①記述研究
得られたデータを記述し分析する研究です。
例えば、COVID-19はどんな病気でどんな特徴があるか、といったことを記述し分析します。
下記の『関連性の探索』や『因果推論』の研究で変数として扱うような事象について、その変数がどのようなものなのか記述します。
②関連性の探索
ある因子とアウトカムとの関連性を見る研究です。
例えば、ワクチン未接種や喫煙者であることはコロナ感染のリスク因子である、バイオマーカーとアウトカムに関連がある、呼吸数と患者死亡には関連がある、といったことを分析します。
様々な変数を検討し、どの変数がアウトカムに関連するかを統計学的に示します。
③因果推論
ある治療・介入がアウトカムにどのような影響を及ぼしているのかを見る研究です。
代表的なものがランダム化比較試験です。
例えば、ある疾患の治療について、Aという新薬は、Bという従来からある薬よりも有効性が高い、合併症が少ない、といったことを分析します。
解剖学的研究、特に肉眼解剖の研究は、そのほとんどが①の記述研究です。
人体のある構造がどのようなものなのか、詳細に記述することが主な結果になります。
一方で、科学コミュニティ全体、特に医学研究の領域で、価値が高い研究と判断されるのは、③の因果推論や②関連性の探索の方です。
ハイインパクトジャーナルに掲載されるのは因果推論の研究、次いで関連性の探索の研究が主でしょう。
なぜ因果推論や関連性の探索が重視され、記述研究は軽視されるのでしょうか(軽視されているは言い過ぎかもしれませんが)。
それを考えるためには、科学の目的そのものに立ち返る必要があります。
3.そもそも、科学は何を目指しているのか
私たちは近代以降の世界に生きており、多くの部分で近代以降の思想に立脚しています。
科学もその例外ではなく、私たちはルネサンス以降の科学主義・合理主義に基づいてものごとを考えています。
ルネサンスは14~16世紀、科学(science)という言葉が定着したのは17世紀初期です。
ちなみに、近代解剖学の生みの親と言われるヴェサリウスの著書『ファブリカ』が出版されたのが1543年、すなわち16世紀の中ほどです。
科学主義・合理主義について簡単に説明すると次のようになります。
中世のキリスト教的自然観では、神がこの世界(自然)を設計し、創造したと考えられていました。
「全知全能の神が作ったものなのだから、テキトーに雑に作られているはずがない。神の全知全能の理性に基づいて、美しく、合理的で、完璧に設計されているはずだ」と信じられていました。
「自然は合理的に作られているはずだ」という信仰です。
決してランダムや偶然ではなく、何かしらの仕組み(メカニズム)があって、その仕組みに基づいて駆動しているのだと考えるのです。
そして、その自然の合理性を分析し明らかにすることは、「こんなに自然は合理的に出来ている。神様すごい!さすがっす!」と神を賛美する行為の一環でした。
ルネサンスを経て、神がいなくなります。
人は、自然の合理性、その仕組み(メカニズム)の分析を続けますが、もはやその行為は神の賛美の一環ではありません。
自然の合理性・メカニズムを明らかにすることは、自然を操作することを可能にし、人類の発展に寄与するからです。
神はいなくなっても、「自然は合理的に作られているはずだ」という信仰は残っています。
言い換えれば、「何かの事象には何らかの原因・理由があるはずだ」とする信仰です。
例えば、糖尿病患者で血糖値が高値であるという事象にも、何らかの原因があるはずだと考えます。
原因が、インスリン分泌能の低下にあることがわかると、「インスリン分泌低下(原因)」→「血糖値上昇(結果)」という因果関係が明らかになります。
その因果関係を利用して、「インスリン投与(原因)」→「血糖値を下げる(結果)」という介入(治療)が可能になるのです。
これは人体という自然を操作しているということです。
クロード・ベルナールも著書『実験医学序説』において、生物の研究者を物理学者と対比させてこのように書いています。
「何かの事象には何らかの原因・理由があるはずだ、何らかの決定要因があるはずだ」という信仰を、実験医学の公理として、つまり大前提として承認せよと言っています。
繰り返しますが、これは「信仰」です。
「何かの事象には何らかの原因・理由があるはずだ」とする思想を「根拠律」または「因果律」と言いますが、根拠律自体に根拠は無いのです。
根拠律を承認した上で、実験医学は何を目指すべきなのか。ベルナールは、“現象のデテルミニスムにまで到達すること”を目指すべきと言います。
デテルミニスムとは、現象の決定要因のことです。
決定要因がわかれば、その事象を巡る因果関係・メカニズムがわかります。
そうすれば、先ほど述べたように、その因果関係を利用して人体という自然を操作することが可能になるのです(疾患に対する治療介入など)。
このように、科学は自然における因果関係を明らかにすることを主目的とします。
医学で言えば、人体と言う自然における様々な事象の因果関係を明らかにすることです。
因果関係がわかれば、人体という自然を操作することが可能になる、すなわち臨床的な介入が可能になります。
だからこそ因果関係の解明が重要なのです。
そうすると、医学研究の種類の中でも、因果推論や関連性の探索の研究が重視されているのも頷けます。
因果推論の研究はまさに因果関係を明らかにする研究であり、関連性の探索も因果関係までは証明できませんがその一歩手前まで迫る研究形態だからです。
では、因果関係を直接明らかにすることのない記述研究は、価値がない、意味がない研究なのでしょうか?
4.記述研究がやっていること
記述研究は、特定の現象の因果関係、つまり「理由」に焦点を当てるのではなく、特定のテーマについて観察、データ収集を行います。その目的は、研究対象の母集団や現象の特性を包括的かつ正確に把握し、データ内に存在する関係性、パターン、傾向を説明することです。
(参考:https://www.enago.jp/academy/descriptive-research-design/)
記述研究の重要性の一つに、「さらなる研究の基礎となる」ことがあります。
因果関係の解明に迫る因果推論や関連性の探索の研究も、実はそれに先行する記述研究が無ければ実施できないのです。
例えば、「高血圧が心疾患のリスクを高める」という因果推論の研究があったとします。
この研究では「高血圧」という事象と「心疾患」という事象をそれぞれ変数として捉え、両変数の因果の有無を調べているわけです。
よくよく考えてみると、「高血圧」という事象を変数として扱うためには、「高血圧」という概念が確立している必要があります。
人体には血液が流れる血管が張り巡らされていて、血管内の圧(動脈圧)はおよそ収縮期120mmHg、拡張期80mmHgくらいで変動があり、この値が慢性的に高い人がいる、ということがわかっていないと、「高血圧」を定義して変数として扱うことはできません。
事象の言語化、概念化をする記述研究が先行しなければ、その事象を扱う因果推論や関連性の探索の研究は出来ないのです。
順天堂大学の坂井建雄先生は以下のように書いています。
「自然界の事物を言語化して人知の世界に取り込む」ことこそ、記述研究がやっていることです。
私たちは、人体も含めた自然界の事象を、まずは言語化し概念化しなければ、変数として扱うことはできません。
自然界の因果関係を明らかにするという科学の主目的に到達するための最初の段階として、自然界の事象を言語化し概念化するという記述の作業が必要なのです。
5.法則や因果を見据えた記述を
記述研究では、自然界の事象を記述します。
解剖学研究では、人体のある構造がどのような構造になっているのかを記述します。
何かしらの因果関係を立証できるわけではありません。
では、ただ単に見えたものを言語化するだけでいいのかということ、そうではないでしょう。
人体の構造を記述する、言語化し概念化する上でも、その背景にある法則性や決定要因(因果関係)を意識して記述していくことが必要だと思います。
藤田恒太郎先生はこのように述べています。
根拠律(因果律)を前提とし、自然界の仕組み(メカニズム)・因果関係を明らかにするという科学の主目的を見据えていれば、そのスタート地点たる記述研究においても、因果関係解明への道筋を開くような研究になると思います。
もちろん因果関係を証明できるわけではありません。
しかし、「自然界の事物を人知の世界に取り込む」記述研究の営為にも、因果や、法則性や、デテルミニスムを意識するか否かで、その研究の科学的価値は変わってくるように思います。
それがきっと「面白い研究」なのでしょう。
6.おわりに
解剖学研究(特に肉眼解剖学)をしている人に向けられるよくある質問に「解剖学ってまだわかってないことあるの?」があります。
多くの人が「人体の構造はもう既にすべて記述しつくされている」といったイメージを持っているのだと思います。
医療関係者だとなおさらそう思うかもしれません。
大学もしくは専門学校時代に分厚い教科書で解剖学を体系的に学んでおり、そこで身体のあらゆる部位に細かい名称がついていることを知っているからです。
(名付けられているということは、概念化されているということでもある。ただし、その概念化が現実を正確に切り取れているかどうかは別問題である)
しかし、解剖学研究に取り組む中で思い知るのは、複雑な人体の構造の中にはまだまだ認識されていないもの、言語化されていないもの、概念化されていないものがある、ということです。
人体の形態形成を、個体発生を、進化を、身体の機能を、臨床的な謎(クリニカル・クエスチョン)の答えを知りたいときに、扱う事象はまだ十分に概念化されていないかもしれません。
その形態の正確な特徴が把握されていないかもしれないし、もしかしたら認識すらされていないかもしれません。
だとしたら、まずは記述から始めなければなりません。
名もなき草木を見出し未開の森の地図を描くように、人体の地図を描く、そこからです。