【短編】Before Dark
テーマ:余映 [日が沈んだり、灯火が消えたりしたあとに残った輝き。]
落日の余映が、室内を仄かに明るく照らしていた。
季節の節目に向けて少しずつ遠退く陽、その輝きは空に美しくも奇妙な色を浮かび上がらせる。光の屈折に、水蒸気による散乱。古典で読んだ現象への理屈を辿りながら、空の燻みに漂う彩雲を見上げた。
「……戻らなきゃ」
足下に倒れた少年に肩を貸し、透火(とうか)は自分よりも大きな身体を引き摺って歩く。
顔に傷を残さぬようにと気をつける癖が力加減を鈍らせ、誤って拳が下顎に当たったのだ。透火とて実際に怪我を負わせるつもりはなかったが、騎士科でない生徒に運動神経を求める方が酷というもの、軽い一手で脳震盪を引き起こしてしまった。
手加減の範囲を超えた力量差に溜息を零して、医療室までの道程を脳裏で辿る。人目については困るし、医療室に行くところをソニアにでも見られてしまえばおしまいだ。
事の発端は、芝蘭(しらん)への侮辱だ。芝蘭を疎ましく思っていた子供達が透火の登場に怖気付き、ひっそりと溜めていた妬み嫉みを暴発させたのかもしれないし、単純に、貴族の嫡子かも疑わしい目立つ容姿の透火を嫌っていただけかもしれない。いずれにせよ、国王の公言を用いて芝蘭を辱めた時点で、配慮は消え失せた。
「何かないかな」
遡るのは、暗記した転移魔法の術式だ。使い慣れていないうちは、推奨される式を用いねば思い通りの場所へ移動が難しくなり、方向音痴を指摘されたばかりの透火には補助の術式も同時に必要になる。
すいと人差し指で宙をなぞり上げ、復唱と共に術式を描き上げる。夕日に透い白金(プラチナ)へ染まる金髪が、淡い曲線を空に残す。
魔力の流れによる風と、発動による風と。異なる流れが大きなうねりを生み出し、透火と少年は無事誰もいない医療室まで辿り着いた。
そこから先の手続きは、事務作業となる。
学園を出る頃にはすっかり日は暮れ、彩雲も空も夜と仲良く馴染んでしまっていた。靴箱の裏に隠した鞄を拾い、盗難されていないかと中身の確認して、魔石を取り出す。
城への帰りが芝蘭と異なるようになって、持たされるようになった黄水晶(トルマリン)。身代わりに、と色味の似たものをわざわざ選んだと聞かされたが、まさかこんな形で使われているなど彼は思いもしないだろう。
彼の心配顔を思い浮かべながら、魔石に魔力を込める。
手に力を入れるような感覚で授受される魔力は、生命力とも呼ばれる代物だ。五感でいえば触感でのみ感じられ、発動の際には聴覚や視覚でも確認できる。古くは妖精や精霊の存在も疑われたが、魔法の発動と魔石の研究が進み、いまやその存在は否定されている。
術式は謂わば鍵。陣は扉とするなら、魔法は自然の摂理に干渉し、法則を一部書き換える行為に等しい。転移魔法も、自身の記憶と大気の大きな流れとを結び付ける術式により制御され、陣を介して実行される。
足下に魔法陣が浮かび上がるや、透火は瞼を閉ざす。この身の血潮に何が流れていようと、透火の足下には透火のためだけの陣が開かれ、魔法が展開する。
(この力が、他に使えたらいいのに)
誰のための願いかもわからないそれを胸中でぼやいて、透火は転移の感覚に身を委ねた。
次にその瞳を開いた時、透火の前には白亜の城が聳え立っていた。
紅い巨大な魔石を据えた両開きの門は、魔法と兵士による二つの警備により守られている。瞳をくり抜いたように紅く輝く魔石の輝きに隠れて、顔馴染みの門番と挨拶を交わす。
門を抜けると、小走りで居城へと向かった。
冬の終わりに芝蘭に拾われた透火とその弟は、従軍が可能となる16歳になるまで、芝蘭の住む居城での暮らしが許可されていた。無論、それは書面上での話であり、実際は透火が飛び抜けた才媛を示し続けているからこそ、成り立っている。実力主義で戦を制した王が、実子の情にすら温情を見せないことは、城内では最早誰もが知る事実であり、故に彼らは、大きく育ち始めた透火にも対等に接する。
くだらない劣等感や羨望でその手を切られた者は数知れず、皆が相応の実力を持って勤務しているからこそ成り立つ対等だった。
「透火くん」
その中で、彼は唯一、透火よりも上の立場を保有する。
「日向(ひゅうが)先生」
「……先生じゃなくていいんだよ」
柔和な顔に苦笑いを浮かべて、九条日向は透火と視線を合わせた。
第一王子の専属騎士である彼は、芝蘭に育てられた透火とは勿論顔見知りであり、事情を知られたくないひとりに含まれる。何故遅くなったかを問われる前に、背筋を伸ばして、透火は口を開いた。
「ただいま戻りました。芝蘭はどこにいますか」
「王子なら執務室にいらっしゃるよ。勉強もそちらでなさるようだが、君も勉強するかい?」
「はい。紅茶の勉強をします。鍛錬は朝に、お願いします」
ぽんと暖かな音を響かせて、日向が透火の頭を撫でる。
「急がなくてもいいんだよ。君は、これから大きくなる」
「大きくなってからでは、間に合いません」
11歳になったものの、透火の身長は未だ日向の胸元までしか及ばない。日向の身長を追い抜いた芝蘭から見れば、小さいの一言に尽き、そのせいで学内でも城内でも透火を守りたがる傾向にあった。
ひと一人昏倒させる力を持っていることを、芝蘭はまだ知らない。透火が騎士科で好成績を収めても、実技の授業で芝蘭と同じほどの同級生を打ち負かしても、透火が幼い見た目をしているが故に、芝蘭を守る者として認めてもらえない。
大きくなってからでは遅い。国王の騎士をしていた父親は痩身だったと聞く。透火が芝蘭のように、心魔でも群を抜く大柄になる可能性は低かった。
ならば、肉も骨も成長する今こそ、鍛えておかなければ強くなれない。
透火の志を知る日向は、その真っ直ぐな眼差しに淡く微笑み、握り締められた小さな手をすくい上げた。
「君の信念は堅い。焦ることはないが、できる限りのことができるよう、私も手伝おう」
「はい。ありがとうございます」
微笑みを返して、手を離す。日向の歩み寄りに礼儀を示す代わりに、冷ややかな視線を残して、透火は芝蘭の部屋へ向かった。
一段を踏み出すごとに、悔しさと、羨望と、妬みを削ぎ落とす。
専属騎士。護る立場にあり、それを主人と周囲に認められている日向が、この時の透火の、なによりの目標だった。
紅茶の漂う空間は白を基調とした造りで、魔石の明滅が怪しく床を反射していた。
影になった扉から顔を覗かせると、淡い蝋燭の輝きがぬらりと揺れる。闇色に染まった窓の手前で、背中を丸めて課題に取り組んでいるのは、第一王子・青(せい)芝蘭(しらん)その人だ。
彼の左手側に置かれた紅茶を一瞥し、透火は慎重につま先を室内へ伸ばした。
カタカタと音が鳴るのは移動による振動が茶器に伝わるためで、透火の筋肉が頼りないせいでもある。
「晩餐の前だけど」
「いいさ。遅かったな」
「……準備に手間取ったんだよ」
紺の瞳に見守られながら円卓に紅茶を並べる。明言を避けて、立ち上がった芝蘭を、透火は見上げた。
──彼が紅茶を好むと知ってから、透火がまずなによりも習得したことが、紅茶の淹れ方だった。
父親に見限られ、味方であった母親とも遠く離れて一人、王子であるというだけで城に守られて生きてきた芝蘭は、透火と出会い成長するまで、反発を示すことのない大人しい子供だった。そんな彼が、唯一こだわりを密かに主張していたのが、間食に与えられる紅茶である。好みでなければ、いくら高価であっても一口以外口をつけない。不思議に思った透火にこっそりと教えてくれた芝蘭の主張はしかし、給仕係の間では既に知られていることである。
必然のようなふりをして二者の間に入り込み、透火は自身の居場所を築いた。
「ありがとう」
「お疲れ様」
「お前は? 課題は終わったのか」
「終わらせてるよ」
「ん。そうか、流石だな」
日向と似て異なる手つきで芝蘭が透火の頭を撫でる。椅子に座った芝蘭とちょうど視線が合うものだから、触れやすいのだろう。
繊細な模様が刻まれた盆をそっと円卓に置き、透火は芝蘭がしたいままに身を任せる。
『愛玩動物みたいだな、と言ったんだよ』
『こんな細い腕じゃあ、番犬にもならない』
『加えて、あの王子様だ。寵愛されてよかったな』
数刻前に聞かされた嫌味が、怒りが、それだけで浄化される。
手が頭部から離れると、寝ていた癖毛が姿勢を正した。
「美味しい?」
「ああ」
「そろそろ呼びに来るって言ってたよ」
「大丈夫、全部飲む」
嬉しさを顔いっぱいに広げて応じたところで、晩餐の用意が整ったと声がかかった。
召使を待たせて、宣言通り紅茶を飲み干してから芝蘭が部屋を後にする。
紺色に染まった廊下を、灯火が橙に染める。燭台を手に先んじる召使の背に従い、階下の食堂へ向かえば、丁度、仕事を終えたらしい老貴族と鉢合わせた。
召使が廊下の端へ控え、透火は芝蘭の腕に掴まれ背に隠される。掴む力から、彼がどれだけその貴族を警戒しているかがうかがえた。
エドヴァルド・ルーカス。現国王紫亜の参謀にして、国統合の一端を担った実力者である。薄紫色の髪は燭台の飴色の明かりに白く輝き、臙脂色の軍服の濃い影を際立たせる。
「ルーカス卿」
「これから御食事ですかな」
「ええ。そちらも、職務ご苦労なことです」
ぎこちない会話は長く続かず、簡単な挨拶で二人はすれ違う。杖をつく音が、透火の心臓の音に合わせて廊下に響く。
「これは聞いた話ですが」
かつん、と反響した音に、悪寒が走った。
透火の足下をついた杖が、剣のように真っ直ぐと立つ。
「夕暮れ時、貴族の嫡子が狙われる怪事件が続いているようです。王子も、少しばかり非難を浴びたと」
「大したことでもありません」
顔を上げずにいただけで、汗が噴き出した。芝蘭の隣を通り過ぎた気配が、透火の側へ這い寄る。
「教会に属する貴族が中心のようですが、いつ、王族に牙を剥くか知れたものではありません。ご注意なさると宜しい」
唇を噛むだけで、それ以外の反応を押さえつけた。
暗に釘を刺されただけではない。透火がしたことに紫亜やエドヴァルドが気付いており、かつ、透火の気付かぬところで彼らの力が働いていることを、示された。二度と同じことを繰り返すなという意味合いか、あるいは、透火の働きそのものが、芝蘭に不利益として返ることを暗示されたか、答えは分からない。
けれど、老貴族の言葉は透火の心を凍りつかせるには十分だった。
気配が遠退き、食堂に入っても未だ全身に鳥肌が立ったまま。鈍くなりそうな五感を必死で理性で止めて、透火はいつものように形式をなぞる。芝蘭に注意を払う。彼に教わった食事の作法に意識を広げて、表情筋を微笑みで固定する。
己がしてきたことは正義にもならないことは自覚していた。だが、芝蘭に因果が返ると思いもせず動いたのは、誤りだった。
「透火?」
「ん、なに?」
「いや、お前も、気をつけるんだぞ」
微笑みがぎこちなくならないようにだけ、意識を払う。
皮膚一枚下に行き場のない感情を隠して、ただ透火は笑む。
「芝蘭が無事なら、俺はそれでいいよ」
一週間後には、貴族の嫡子が狙われるという噂は掻き消え、生徒が消えるという噂が静かに流れるようになった。
不思議なことに、彼らの保護者は学園に意見することはなく、それまで友人や知人であった者は彼らの存在を知らないように振る舞い、その噂もやがて、ひと月も経たぬうちに消えたという。
同時期、月が夜に戻るように、夜明け色の王子の側には必ず金髪の少年が並ぶようになっていた。
落日の日差しを受けることもなく、時に桃色の少女を交えて、仲睦まじい二人の姿は卒業するその日まで、青空の下に在り続けた。
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